どっちつかずに耐えること

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」を久しぶりに読んだ。しばらく自宅の本棚から離れていたものが、手元に戻ってきたので。タイトルを読んで「いま自分が読むべきことが書かれていそうだ」という予感があって、期待しながら読んだのが1年くらい前だった。「負の力に満ち満ちた言葉」「人の心を削る言葉」というフレーズに、共感した。自分はそういう言葉にあふれた時間を生きているという実感が、確かにあった。

 

久しぶりに読んで、これはずっと手元に置いておきたい、そして気にかかったら手に取って読める状態にしておきたい本だと思った。私は、文学の力をたぶんあなどっていた。人を癒し、慰め、勇気づける目に見えない言葉を表現すること、それが文学の重要な役割の一つであると知り、もっと文学を知りたい、と感じるようになった。

 

一番の収穫は、「白黒はっきりつけられないことをはっきりしないまま、結論を端的に言えないような問題をそのような状態のままにしている自分を認める」という態度を得ることができたことだ。「これについてどう思う?」と聞かれたら、「私はこう思う」とハッキリと言いたくなる。しかし、結論を断言できるほど自分は成熟していないし、問題はもっと複雑なようにも思える。だから「賛成派の意見も反対派の意見もどちらも一理ある。自分はどちらの気持ちも分かる。(どちらかといえばこっち派、というものはあるかもしれないけれど)私はこっち、とは言えない」という中立のような意見も、意見として認められるべきと思う。「うーん、難しい問題ですよね」と眉間にしわを寄せて悩む姿勢をとる人は「答えを持たない優柔不断(あるいはノーテンキ)なやつ」ではなく、「簡単に白黒つけず、どっちつかずに耐える(内田樹さん、鷲田清一さんの言うところの「中腰に耐える」)力のある人」である。自分の頭にある「なんだかスパッと答えを言えないモヤモヤした問題」を解こうとするが解けない状態、それを維持しながら過ごしている自分に、「まあそれでいいんじゃない」と堂々と言えるようになった。