仕事は常にオーバーアチーブ

内田樹「知に働けば蔵が建つ」を風呂につかりながら読む。以前マルシェで本の物々交換をやっていて、手に取ったのが、単行本のこれだった。背表紙には「中央区立図書館 リサイクルBOOK(除籍済み)」と書かれたシールが貼られ、奥付には「中央区立京橋図書館 廃棄済み」のスタンプがついている。そしてシェア主の直筆のコメント「内田さんの本は色あせないです。」と書かれた栞が挟まっている。シェアによって手に入れた、自分にとって特殊なストーリーをもつという点で、氏の他の著作と一線を画す。

 

読んでいると、ふと読み覚えのある文章に出会った。この話、この本で読んだんだっけ?と気になっていろいろ見たら、過去のブログ記事であり、「武道的思考」で読んだのだと思い出した。「師恩に報いるに愚問を以てす」確率的にほぼありえないだろうとか、持ち運びが大変だからという理由で杖剣を持たずにいるということが武道的にありえないということを師から教えられ、足が震えたという話。「念には念を」と一言で片づけられるものではない、仕事においても大切な心構えを、武道的思考を通して教えられた気がした。

 

「オーバーアチーブの原理」は特に社会人として、一人のオトナとして仕事をしながら生きていくために必要な心構えだと思う。労働に対する対価としての賃金は、自分が労働によって生み出す価値よりも少ない。だから「こんなに仕事したのに給料少なくて」と嘆くのは、そうではなくて、それは当たり前でしょう?という話。

 

当たり前ですね。クライアントから得た報酬の100%が自分の給料として入ってくるなんてことはありえない。その原理は、普通に会社員として働いていたら特に意識しなくてもだれでも知っている。自分だって、以前は建設会社の営業職だったので、他よりもコスト感覚を要求される職種だったと思っているし、自分の分だけでなく他の社員の給料分も稼がないと会社は成り立たないんですよ、ということを意識させられていた(だからこそ自分が給料ドロボーであることに罪悪感も感じたし、それが退職する理由でもあったのだけれど)。だから自分もそのあたりは知っている。それでも世の中「自分の仕事に見合った対価が欲しい」「こんなに滅私奉公しているのに薄給で困っちゃう」なんて愚痴が多いということは、そのオーバーアチーブの原理を知っていても知らないふりをしているということなのだろうか。

 

労働対価に対して賃金が低いことを嘆く前に、その差が開きすぎて会社に「うしろめたさ」を感じさせるくらい、自分で対価を生み出してやろうと奮い立つべきだと思った。とくに自分は。

 

それにしても。「人間の人間性は「わが身を供物として捧げる」ことのうちに存する」という言葉に、湯船につかりながら少し震えた。

 

「自己を供物として捧げる」ということは、人間に深い感動をもたらす経験である。おそらく「自己を他者への供物として捧げ、他者によって貪り食われる」というカニバリスム的事況そのもののうちに強烈な「快感」を覚える能力を得たことによって人類は他の霊長類と分岐したからである。

人間とサルの違いはほとんど「そこだけ」にしかないと言ってもよい。だから、自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。

 

人間は「すねを齧られる」という経験を通してはじめて「自分にはすねがある」ことを確認し、「骨までしゃぶられる」という経験を通じてはじめて「自分には骨がある」ということを知るという逆転した仕方でしかアイデンティティを獲得することができない生き物である。

サラリーマンはその労働の対価として不当に安い給料で働くことを通じてはじめて「労働している」という実感を得ることができる。労働する能力、労働する身体を有し、労働者としての社会的承認を獲得することができる。

 

不当に安い給料で働くことではじめて「労働している」という実感を得ていると聞くと、いやそんなことはない、オレは見合った対価を提供してくれる環境を選ぶぜ、と思いたくもなる。でも本当は、心の中では、自分が給料に対して多くの価値を提供しているという実感を通じて「会社に貢献している」という優越感に近い感情を抱いているのかもしれないと思ったときに、これらの言葉に納得できた。

 

知に働けば蔵が建つ (文春文庫)

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武道的思考 (ちくま文庫)

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