Uber Eats

Uber Eatsのことを意識したのは割と最近のことだけれど、街中で四角いかごを背負って颯爽と自転車を走らせる人を本当によく見かけるようになった。今日も自宅近くで一人、事務所近くで一人、すれ違った。それだけ需要があるということなのだろう。自宅にこもりたいなんて時は誰にでもある。誰ともコミュニケーションをとらず、スマホだけで注文を完結させ、少ししたら自宅に食べ物が届く。確かに便利だし、試してみようという気にもなる。

 

そんな思いから何の気なしにアプリをインストールしてみる。見てみると、確かに自宅近くのファーストフードからレストラン、カフェ、ケーキ屋まで、いろいろなお店が対応している。これはすごい。・・・と思うのだけれど、やはり今一つ「じゃぁ注文しちゃおう」という気持ちにならない。その理由の一つを他人から聞いて、なるほどと手を打った。

 

そのお店の人じゃない、どこのだれだか分からない人が届けてくるという事実。そこにどうしても安心感が感じられず、身構えてしまう。それが本心なのかもしれない。便利である一方、自分と信頼関係があるわけではない人が届けてくるということに、不安を感じる。そんなこと言ったら、街の飲食店でご飯食べることなんてできないじゃないか、と言われるとそれまでだけれど、でもそれとも違う何かがある。たぶん自分とは相性が合わない、ただそれだけなのだと思う。アマゾンはOKで、クロネコヤマトはOKで、Uber EatsはNG、そんな理由、うまく説明できない。

 

このサービスが消費者に求められる本質は、「スマホ操作一つで注文が完結する」便利さにあるのだと思っている。店に足を運ぶ時間も、店員さんに対して注文を口にするコミュニケーションの時間も、必要ない。そういう時間を「コスト」だと感じる人、コミュニケーションを「労力」だと感じる人にとっては、こんな夢のようなサービスはないだろう。

 

一方で自分は。行きつけのカフェに毎週末行く、その動機の90%は、おいしいコーヒーを飲むということではなく、その空間に身を置き、店主夫婦としゃべり、その時間を楽しむことだったりする。つまりコミュニケーション自体が目的になっている。もちろん人と会うのが億劫だと感じる時だってないわけではないけれど、自分の場合、外で食事をする(初めての店は除く)動機の大半は、そのお店に行くこと自体に目的がある。自分にとってコミュニケーションは基本的に負担ではなく、欲しいものだから。

 

だから、スマホ画面をスクロールしていって、ふと毎週末行っているカフェの名前が出てきた時も、「お、注文できるんだ」と一瞬驚きはしたけれど、「いいね、じゃぁ自宅で注文しちゃおう」とは思えず、スルーした。だって、ここで注文したんじゃぁ、店主のいつもの屈託のない笑顔を見ることができないじゃないか。

 

求めるものが二極化している。一つは極限までの省コスト化。手続きに要する時間をなるべくなくす。スマホだけで賃貸借契約までできる、内覧しないで、敷金礼金だけでなく仲介手数料も無料。そんな部屋探しを「夢のようだ」と思う人もいるだろう。もう一つはまったく逆で、コミュニケーションを楽しむこと。例えば自分の好きな手作り市やマルシェ。つくり手に会い、話を聞きながら、直接買う。そのフェイストゥフェイスに意味があるのであって、作り手に直接リスペクトを表明できることに買い手として嬉しさを感じるのであって、そこは絶対に無駄な時間ではない。気に入って使っている箸を作家さんになおしてもらうのに、箸を郵送することもできるけれど、そうはあまりしたくなく、手作り市など会える時に持っていって直接依頼したい。そういうコミュニケーションは、スマホ決済によってカットしたくない。

 

大切なのは、自分はどっちということではなくて、両方をメリハリつけて求めることだと思う。コストを省きたい買い物についてはとことん省く。そうして自分の大切な時間とお金を守る。そのうえで、これは時間をかけて、相手としゃべりながら消費するのだ、というものを確保する。そのメリハリが、自分には必要だ。