手づくり市での出会い

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自宅のすぐ隣に大家さんの管理する建物があって、そこで定期的に手作り市をやっている。昨日今日と二日間がそれだった。

 

大家さんがいろいろなところに出向いて、良いモノをつくっている作家さんに声をかけているのだということを、誰からともなく聞いた。自ら足を使って人に会い、イベントをつくる、そんな大家さんの取り組みに、楽しく参加させていただいている。一生ものの壁面本棚をつくってくれた家具屋さんに出会ったのも、この手作り市がきっかけだった。本当に、大家様様だ。

 

どちらかというと女性が興味を持つような小物が多いのだけれど、その中に木製雑貨や革製品、多肉盆栽、美味しそうな焼き菓子、ジャムやチョコなどもあり、見ているだけでも面白い。自分がつくったものを、つくった本人が誇りを持ってアピールして、売る。自分の作品を売り込む作家さんを見ると、たとえあまり興味のないモノをつくっているのだとしても、応援したくなる。

 

昨日は、参宮橋でレストランをやっているというお店がビン詰めのジャムとブロックチョコを売っていて、思わず買ってしまった。そして今日は、近い将来行徳でカフェをオープンするというコーヒー屋さんのコーヒーと、松戸のシェアスペースでイベントを行うというお菓子屋の焼き菓子を買った。休日に自宅でコーヒーを飲みながら焼き菓子を食べる自堕落な自分の姿を想像して、まぁいいや休日だし、ちょうどコーヒーも切らしてたところだし、なんて思ってしまった。でも、新しいコーヒー屋、焼き菓子屋に出会えたのは、よい収穫だ。

 

手作り市とかマルシェとか、お店が集まる場というのが、好きだ。そこには、新しい出会いへの期待感もあるけれど、それ以上に、自分の作品をアピールしようとする作家さんの熱意を感じたい、という気持ちがあるのだと思う。「自分がつくったものを一人でも多くの人に伝えたい」という想いは、そのまま自分の仕事でも役に立つ。だから自分は、モノを見ているようで、実はそのモノの良さを伝えようとしてくれる「人」を見ているのかもしれない。その人からは、意地悪な客に見られそうだなぁ・・・

 

普段スーパーとかでは決して買わないようなものでも、こういう場で手づくりのものを見ると、つい手に取りたくなるから、不思議だ。

 

蓄えの一切を使い切る覚悟

齋藤孝さんの「〈貧乏〉のススメ」を読んでいる。

 

<貧乏>のススメ

<貧乏>のススメ

 

 

こころに貧乏をもつこと、それはすなわち、そこから這い上がってやろう、成功してやろうという向上心をもつことなのだと思った。多感な時期に飢えた経験が、今後、またそうならないように努力しようという力につながる。そうやってこころの貧乏を力に変えられる人は、強いんだろうなあと思う。

 

この本の中で安藤忠雄著「建築家 安藤忠雄」のなかの言葉が紹介されている。「蓄えの一切を使い切ること」を、覚悟をもって自分はできるだろうか。自分はかつてそれくらいの気概を持って取り組んだことがあっただろうか、とこの言葉の重さを噛み締めていたら、そういえばこの本持ってるじゃないか、とあとで気づいた。手元にこんな重要な本を持っていることを忘れているとは、もったいない。

 

本を読みながら、そこで別の本の言葉に出会う。ある本を読んだことがきっかけで別の本を知り、さらに世界が広がる。こうして次から次に読むべきものへとつながっていくのも、読書の面白いところだ。齋藤孝さんの本を読みながら安藤忠雄さんの言葉に出くわすとは思いもよらなかったけれど、これも出会い。

 

蓄えの一切を使い切る覚悟で何かをしたことがありますか?

 

その答えとなる「これだ」がないってことは、自分はいままで気概をもって取り組んだことがないってことなのだと思う。そう思った瞬間に、このままではマズいという、得体の知れない危機感を感じた。このままではマズい。でも、じゃぁこの不安を解消するために具体的に何をしたらよいのかは、分からない。

 

勉強するしかない、というのが、途中までであるがこの本を読んで得た答えだ。パンを片手に専門書を読みあさる日々、というのは安藤忠雄さんの勉強時代のエピソードだけれど、こういう気概を、もつべき。そして、齋藤孝さんの言う「リフレイン読書」。一冊の本を10回読めば、変われる。そうであることを信じて、一冊一冊を大切に読みこなそう。

 

建築家 安藤忠雄

建築家 安藤忠雄

 

 

コースチェンジ

走ることを習慣にしよう。その習慣を取り戻すことができれば、平日の仕事への向き合い方も変わってくるのではないか。スニーカーを履き、外へ出る。土日両方走って平日走らないとバランスが悪い気がするから、週一日で良しとする。毎週、少し走る。続けられらたら自分が変わるのではないか、と思いながら。

 

とはいえ、先週張り切りすぎてボロボロになったことを身体がまだ覚えていたから、ちょっと怖気づいて今日はコースチェンジ。信号のない道をゆっくり走りながらぐるっとまわって家まで戻るというコースを、今日作った。時間にして15~20分くらいか。これくらいがちょうどいい。

 

10月に入り、だいぶ涼しくなったとはいえ、今日は天気もよくやや気温も高め。日曜日ということもあり、河川敷ではバーベキューを楽しんでいる人がたくさんいて、楽しそうだった。こうやって休日を満喫している大勢の人を横目に、自分を痛めつけるように走るのが、なぜか心地よい。自分も人とは違う形ではあるが、こうして身体を動かして休日をリフレッシュタイムにあてているのだ!

 

走り終わったとき、これならそんなにしんどくないぞ、と一瞬でも思ってしまったから、平日も朝早く起きれば走れるんじゃないか、なんてちょっと欲張った想像を、した。して、すぐに撤回する。いやいやダメだ。そんなに自分をできる人間だと思ってはいけない。きっとすぐに力尽きるんだから、ハードルを上げてはダメだ。

 

サブマリン

10月1日。土曜日。

 

駅前のパン屋では「コーヒー週間」と銘打って、コーヒー2杯目を150円で飲めるというキャンペーンをやっていた。サイフォン式でけっこう本格的に入れてくれるそのコーヒーが好きで、ラッキーとばかりにコーヒーを飲みながら、伊坂幸太郎さんの「サブマリン」の残りを読む。

 

かなり時間がかかったが、読了。読み終えて、全体のストーリーを俯瞰しづらいこのもどかしさがなんともいえない。ガツンと胸に来る話というよりは、読んでいる時間中に胸をくすぐられていて、その痒さが読後もわずかに残っているような感じ。これこれこういうストーリーで、この場面が面白い!と端的に言葉にできないので、自分の読解力がないのか?要約力がないのか?と不安になるのだけれど、それでもいいや、と開き直ることにしている。読書(特に小説)の楽しさは、読んだあとに心に残るかどうかよりも、読んでいる最中の時間そのものにあるのだという言葉をどこかで聞いて、その通りなんだなということを、伊坂幸太郎さんの小説を読むと感じる。

 

なんでなんだろう。陣内さん、だらしなくてテキトーなんだけれど憎めないのは。

 

サブマリン

サブマリン

 

 

 

夕方、少し仕事。管理組合の決算理事会に出席してきた。伝えたいことを頭の中で整理する前に喋り始めるものだから、結局しどろもどろになり、何が言いたいのかわからないような感じになってしまった。いつもの悪い癖だ。いい加減直そうよ。伝えるべきこと以外は口に出さなくていいよ。

 

 

帰宅し、閉店まで少し時間があったので、パン屋に入り、さっそく2杯目のコーヒーを飲みながら、一服。サブマリンは読み終わった。次は陽気なギャングを攻めようか。それとも勇気を出して死神シリーズに挑戦しようか。それにしても。どんなに頭を回転して考えても、タイトルのサブマリンの意味が、分からない。

 

愛ある仕事

エントリーしていた東京マラソンの落選通知メールが来た。なかなか思うようにいかないようだ。でもこれで走るための気力がなくなってしまうのも嫌だなぁと思い、休日の今日、久しぶりにRUN。

 

 

いつもの河川敷コースをゆっくり走り始める。序盤はいい感じだ。それでもだんだんと苦しくなり、腕も痛くなってくる。習慣にしていないと簡単に衰えてしまうということを、再認識した。

 

走っているときは確かに苦しいし痛いけれど、気分は決して悪くない。身体中の水分が沸騰して蒸発するような感覚を味わいながら、とりとめもないことをじっと考える。一人の時間、自分と向き合う時間がここにある。苦痛を紛らわしながら考えるこの時間が、けっこう好きなのだ。

 

 

目の前には、小さい子供を連れた夫婦が楽しそうに歩いている。あのお父さんも、子供や家族を養うために必死に仕事しているんだろうなぁ。翻って、自分は。自分のことで精一杯で、家族を支えるという現実感がまるでない。仕事はどうか。堂々とプロフェッショナルな仕事をしているかというと、実のところまだまだ自信がない。じゃぁどうすればよいのだろう。

 

「資格とか持っているわけじゃないから。危機感を持たないと、ただのヒトなんだよね」。作曲家の服部隆之さんが「オトナの!」で言っていたっけ。自分も、せいぜい宅建の資格をもっているくらいだ。その資格だって、最近でこそ士業になってちょっと格上げになったものの、それでも多くの人が持っている国家資格の一つに過ぎない。勉強さえすれば大学生でも取得できる、なんの実務経験も技術もいらない資格だ。これを持っていることで、いままで質の高い仕事ができたなぁと実感したという感覚は、ない。

 

まわりの一級建築士であるスタッフとは違い、専門家になれていない。本当に危機感を持たないと、ただのヒトだ・・・。

 

ではどうすれば喜ばれる仕事ができるだろうか。どうすれば自分が価値を提供できるだろうか。そうだ、事務所で設計した建築を愛すること、そこに住むクライアントのために最善をつくすこと、という熱意だ。愛のある仕事をすることで、知識不足や特別な技術がないことをカバーできるのではないか。愛は人から持つように強要されて持つものではないし、いま現在愛情を持っていないものに対して愛情を持つというのも難しいけれど、「あなたのことを考えていますよ」という想いがすこしでも相手に伝わるような、そんな仕事を意識したら良いのではないか。・・・具体的でないな。

 

 

折り返し地点にたどり着く頃には身体はボロボロで、とても折り返してスタート地点まで走れる気力は残っていないかった。帰りはゆっくり歩きながら、習慣化しないとダメだと喝をいれた。週に一度でも、続けられないだろうか。

 

昼過ぎまで寝て後悔

「普段の仕事の効率をあげるために、休日の過ごし方を変えよう」こういう主張をよく聞く。自分自身、休日が有意義でないと平日仕事に身が入らないと思っている。だから休日は楽しむ。どちらかというと、興奮してあっという間に過ぎてしまう過ごし方よりは、少しでも一日が長く感じられるようなゆったりとした過ごし方をしたい。

 

しかし、一日をこうしてのんびりと過ごしてしまうから、その時はそうしたいと思っているのだから良いのだけれど、夜になって後悔する。もっとできることがあっただろう、と。この後悔、何度目なんだ、と。

 

その後悔の一番の理由は、朝早く起きないことだ。その瞬間の面倒くささに身を任せて昼過ぎまで寝てしまうことが、その日を自堕落なものにしている最大の原因だろう。まずはここから直さなければ。

 

 

朝早く起きることでリズムが変わる、という点で思い浮かぶのが、この本だ。

 

「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!

「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!

 

 

4時に起きるのはさすがにキツイけれど、朝に時間を確保することで得られる報酬は多いと思う。朝に多くの時間を持つことを、いままで以上に意識したい。

 

休日をアクティブに過ごすことで自分をアゲる、という点で思い浮かぶのが、この本だ。

 

働くきみをアゲる 18の冒険 (Sanctuary books)

働くきみをアゲる 18の冒険 (Sanctuary books)

 

 

これは刺激になった。四輪バギーに豚の丸焼き、ツリーハウスにハンモックなど、おおよそ普通の休日では得られない体験を遊びとして取り込もうというもの。そうすると翌月曜からの仕事にも身が入るでしょう、と。

 

その通りだ、と大賛成できないのは、楽しかった余韻に浸ってしまって逆に仕事に身が入らないんじゃないかと思うから。だけどなにもせずぼーっと過ごして身体が硬直した状態より、よっぽど健全で、気分も良い。こういう過ごし方を、たまには取り入れたい。

 

 

今日も、昼過ぎまで寝ていたことを後悔しながら、こんな時間まで起きてブログを書いている。この時間の使い方をまずは改善せねば。

 

原木中山とハンバーグ

歩いて行くには少し遠いんだけれど、電車に乗れば10分後にはたどり着く。そんな素敵な場所に、行きつけのダイニングがある。自分が住む街と、西船橋との間に位置する小さなその駅は、いまはそこでのご飯を食べるときぐらいしか降りない。なにか特別なものがあるわけではないのだけれど、なんだか居心地がよい場所だ。

 

駅を降りると、そのダイニングに入る前に本屋に立ち寄り、なにか面白いものはないかと見繕うのが、ここしばらくの習慣になっていた。小さな本屋にひしめく本を眺めながら、さてどれを読みながらご飯を食べようか・・・と妄想する。これがまたいい。

 

ナイスガイでシャイな感じのシェフがはにかみながら出迎えてくれるダイニング。木のあたたかさに彩られたインテリアと、ちょっと暗めだが落ち着きのある照明が好きで、けっこう長居してしまうことが多い。以前、何度か食べに行っていた自分のことを奥様が覚えてくれていたことがきっかけとなって、大ファンになった。真面目そうな奥様と、これまた真面目そうなシェフのコンビが、そのまま料理の美味しさに繋がっている。いまはハンバーグがお気に入り。ハンバーグなんて子供が好き好んで食べそうなものを・・・と思いがちだけれど、あなどれない。自分にとってハンバーグはご馳走だから、そんな毎日食べようなんて思わないけれど、それでも結構な頻度で食べたくなる。ここのハンバーグは特に美味しくて、出会えてよかったと本気で思う。

 

原木中山に着いたら、腹ごしらえをする前に、駅前の本屋へ。それが習慣になりつつあったある日、いつもの本屋が消えていた。なくなっちゃったのか?と落ち込みそうになったが、目の前の張り紙に移転場所の地図が。それは現在位置から歩いて20秒くらいのところ。ちょっと移動しただけじゃないか!

 

私は本屋には当たり外れがあると思っている。それは当たりが良い店で外れがダメな店という意味ではなくて、ピンとくるような本がある店と、なかなか面白い本に出会えない店というのがどうしてもある。この店はどちらかというと外れ。おっと思って実際に買ったことがあまりない。それでも、立ち寄る場所が消えずに残っているというのは、素直に嬉しい。

 

本を読みながらハンバーグを食べる街。それが自分にとっての原木中山だ。

 

プレゼントしたい本

今週のお題「プレゼントしたい本」

 

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集 (集英社文庫)

 

 

本を読んで、こういう男になりたいなぁと素直に思うことなんて、そうはない。この本は、自分の生き方の目標を与えてくれる一冊だ。仕事に対しての向き合い方にしても、普段の過ごし方にしても、人との対峙の仕方にしても、これを手本にしてみたら、きっと自分の理想のオトナになれるんじゃないかという気がしている。

 

これを、あなたへ。私はこの本にあるのと同じように、仕事帰りにふと立ち寄るお店で笑顔の素敵な店員さんに「いつもありがとうございます」なんて特別な一言をもらって飛び上がるくらい嬉しい気持ちになっちゃう単純な男の一人です。「いつもありがとうございます」の一言が嬉しいから、ちょっと仕事がうまくいかず凹んでいたけれど、まぁ頑張ろうかという気にもなるんです。そんなあなたの一言と笑顔で元気になる男が少なくとも一人、ここにいるのだということに、ぜひ気づいてほしい。この本のこのページに栞をはさんでプレゼントしたら、果たして気づいてくれるだろうか。

 

経堂散歩

蔵書票を知ってから、急に欲しくなってたまらなくなった。そこで、オリジナル制作よりまずはあるものをと思い、久奈屋さんの商品を扱っている経堂の小さな文房具屋へ行ってきた。

 

ハルカゼ舎

 

ちょうどお祭りだったようで、お神輿をかつぐ住民の皆さんの脇を抜けてすずらん商店街を歩く。ちょっと行き過ぎたかな、と思ったところに、あった。

 

店内には、決して多くはないが、特徴的でしっかり吟味された文具が並んでいる。ツバメノートもあるし、定番のサインペンもあるし。いいところをついていると思った。

 

しかし探しても探してもお目当ての蔵書票が見当たらない。店員さんに聞くと、残念なことに扱っていないとのこと。実店舗では買えないのか?

 

目当てのものは手に入らず、かといってこのまま帰るわけにも行かず、結局駅前の好きなパン屋でマフィンを食べてコーヒーを飲んでぼーっとしてから、帰った。かつて手土産を買ったことがきっかけでお気に入りになったこのパン屋。他にはあんまりイートインがない気がするので、自分にとって経堂店は貴重な店だ。

 

帰りがけ、あれこれと蔵書票の使い道を考える。さてどの本に貼ろうか。実は、デザインはもう頭の中にある。モチーフがぱっと頭に浮かんだ。もちろんそれにまつわるストーリーも。あとはこれを形にしてもらうだけだ。

 

蔵書票に出会った

壁面本棚をつくったことがきっかけで、家具に限らず、モノを自分でつくるということの楽しさを再認識した。といっても、本当に一から自作するのはハードルが高いし、品質も自分の技術に比例して落ちる。だから、イメージを自分の頭の中で育てて、それを他者に伝え、自分だけのものをつくってもらう。このオーダー方式でつくれられたモノに囲まれている状態が、いまの時点での自分の理想の暮らしだ。

 

その究極は家だと思っていて、いまそれを実現できる仕事ができていることは、幸せだ。都心において戸建住宅だと土地代の割合が高く建物にお金をかけられないけれど、コーポラティブハウスであれば、住まい手が集まることで、現実的な金額で建てることができる。マンションを買うのではなく、あくまで自分で主導権をもって建てる。これぞ人生最高のオーダーメイドだ。

 

 

家のような高額なものでなくてもいい。身のまわりのものを少しづつ、「ただ買ったもの」から「想いをこめてつくったもの」へ変えていきたいと思うようになった。そんななか、壁面本棚をつくってくれた家具屋さんつながりで、素敵な紙文具屋に出会った。

 

www.hisanaya.net

 

紙文具拵処(こしらえどころ)という言葉がまず良い。実店舗がないようだけど、都内にもいくつか扱っている文房具屋があるみたいで、行ってみたくなった。

 

その中で特に気になったのが、「蔵書票制作」だ。

 

そもそも「蔵書票」なるものを初めて知った。自分の本であることを示す紙片を本の見返しに貼るんだって。これは私の蔵書ですよ、ということを形で示す。なんて素敵なんだ。本への愛着もよりいっそうわきそうだ。

 

その意味合いから、おそらく中古で買った本には貼れないだろう。「おれの本だ」という前に、誰か他人が読んでたわけだし。そして、買って読んだけどあんまり面白くなかったな、という本にも貼らない。自分にとってなんらかの思い入れがある、ストーリーがある本でなければ、「おれの本だ」と主張する必要がないと思ってしまう。そんな、自分にとっての大切な本が果たして何冊あるだろう。本棚を眺めながら、これは大切だな、これはなんか違うな、これはびみょーだな、なんて考えるのも、楽しい。

 

その目的からして素敵な蔵書票。これを自分の好きなイメージでつくって本に貼るなんて、なんて豊かなんだろう、と思う。

 

 

「たねまめ」という古家カフェ+ギャラリーが相模原にあって(ここがまた趣があって、良いんです)、そこの開店2年記念マルシェ「たねはれマルシェ」が来月行われるそう。壁面本棚づくりのパートナーにも会えるし、久奈屋さんにも会えるし、たねまめさんのおいしそうなご飯も食べることができそう。ちょっと遠いけれど、行きたい。

 

tanemame.exblog.jp

 

 

 

白山と紅茶

喫茶店で飲むものはブレンドコーヒー、とだいたい決めているけれど、唯一コーヒーではなく紅茶を注文する喫茶店が、白山にある。初めて行ったのはいつだ?と過去の記事を振り返ったら、なんと6年も前だった。

  

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

  

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

「おとら」という名のその喫茶店との出会いは、雑誌がきっかけだったと記憶している。それがたまたま頭の片隅にあって、当時大学時代の友人と一緒に谷根千を散歩したついでに立ち寄ったのだが、そこでの紅茶が美味しくて、「母校の文系キャンパスがある街」というイメージよりも「紅茶の美味しい街」というイメージの方がより強く定着するに至る。大学時代に白山のキャンパスに通うことがあったとしたら、きっと通いつめていたに違いない。

 

定期的に音楽を持ち寄って談笑するイベントも行っているらしく、ゆるいつながりをもつ場にもなっているというのが、嬉しい。まだ行ったことはないけれど。そうやって、人と人とをつなげる場づくりを、小さな、一見ひっそりとやっているように見える喫茶店が行っているというのが、なぜだか嬉しい。

 

久しぶりに来ても、ひとりでせっせと切り盛りしているお兄さんの独特の雰囲気は変わらない。その空間をどんだけのんびりと、ゆっくりと過ごしても構いませんよ、なんなら机に伏して寝ても構いませんよ、といったような放任主義的なものを感じる。店の奥の本棚に並んだ本も若干気になる。きっと、紅茶と、ケーキと、本と、音楽と、おしゃべりが大好きなお兄さんなんだと思う。白山に来ると、「大好き」なものに包まれる暮らしをもっと大切にしようという気持ちが強くなる。

 

本から本に出会う

地下鉄大手町駅東西線丸ノ内線との連絡通路に、素敵な文房具屋がある。ノイシュタットブルーダー。最初は読めなかったし、読めても空で言えるまでに時間を要した。何語なのかも、不明。だけどこれがとにかく楽しいお店なのだ。自分の好みと並んでいる商品のセンスとが一致する、といったらおこがましいのだけれど、とにかく琴線に触れるものが多く並ぶ、お気に入りの文房具屋だ。ビジネスマンの通行も多く、店内も小さいこともあり、すこしお客さんがいるとキツキツでのんびり見ていられないのがたまにきず。

 

Neustadt brüder(ノイシュタット ブルーダー)のHPへようこそ

 

この文房具屋には本もあって、小さな本コーナーには丁寧にセレクトされた本が並ぶ。この本のセレクトのセンスが、とにかく抜群なのだ。そう思いながら、じゃぁセンスとはなにか、センスの良さを身につけるにはどうしたら良いかを、考える。

 

センス入門

センス入門

 

 

あいさつ上手に。会社では敬語で。薦められたことは試してみる。知るより考える。美術館に行く。ひとつひとつは当たり前のことで、いままで読んだ著書での著者の言葉から得たこととなんら変わりはないのだけれど、だからこそ重要で、そうやって丁寧に毎日を重ねることで、センスが身につくのだと知った。もう、「おれはセンスがないからなぁ・・・」と投げやりになるのはやめようと思った。

 

この文房具屋のすごいところは、ただ自分が好きな作家さんの本が多数並んでいるという点だけではない。例えば、この文房具屋で本をセレクトしているひとは、松浦弥太郎さんのことが本当に好きなんだな、と感じる。それは、松浦弥太郎さんの本の傍らに、ジャック・ケルアックの「路上」と、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」という本があったからだ(うろ覚え。どっちかしかなかったかも・・・)。

 

というのも、松浦弥太郎さんの著書ではたびたび、彼が大好きで何度も何度も読むという特別な二冊の本が登場する。彼はこの本をいつも人生の傍らに置き、それを読むことで勇気を得てきたのだという。それが「路上」と「北回帰線」なのだ。

 

路上 (河出文庫 505A)

路上 (河出文庫 505A)

 

  

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

 

 

好きな著者の本があるだけでなく、その著者が好きで読んでいると公言している本を一緒に並べている。このこだわりが、すごいと思った。「この人の本、いいなぁ」と思って読んでいて、その中で出会った別の本を読む。こうして好きが繋がっていくのが、楽しい。

  

では、私は・・・。本屋をやっている松浦弥太郎さんが「正直この二冊があれば十分」というほどなのだから、きっと面白いんだろうとは思うのだけれど、でも手に取るまでには至らなかった。理由は二つある。一つは、彼にとって最高の本であっても、自分にも同様にそうであるとは限らないと思ったから。そしてもう一つは、もし読んで「いいなぁ」と思って人生のバイブルになったら、それこそ彼と一緒になってしまい、自分らしくないんじゃないか、と思ったからだ。彼の本から学んだ「素直に」という言葉どおり、一旦は真似してみればいいのに。まだまだ素直じゃないなぁ。

 

自分にとっての、いつも傍らに置いておきたい大切な一冊、というものを持ちたい気持ちはやはりあって、それはなんなのかを考えている。これだ、という一冊は実のところなくて、何冊か大切な本があるといった具合だ。「これだ!」という一冊に出会えるために、ある本から別の本に出会う、という経験を大切にしたい。

 

紙媒体の未来

運営サポートをしている管理組合の理事会に出席してきた。新聞社に勤めている方がいらっしゃって、理事会後の雑談で新聞業界の話になった。いま、どうなんですか?という問いに、「それはもう、衰退産業ですよ」なんとなくの肌感覚どおりの応えが返ってきた。「少なくとも自分が勤めている間はなくならないでしょうけど」その方は未来を見ていたけれど、そしていま現在新聞を購読していない自分にその状況を憂う資格はないけれど、果たしてそれで良いのだろうか?と思わずにはいられなかった。

 

この先10年20年の間に、紙媒体の新聞が完全になくなってスマホでの情報収集に入れ替わるのかと想像すると、それはないんじゃないかというのが自分の感覚だ。新聞に限らず本や雑誌にしても、紙媒体がなくなって、つまりは本屋が世界から消えて、すべて電子書籍になるということはないと思う。そういう世界にならないでほしいという願望がそう感じさせているのかもしれない。でも願望だけじゃない、やっぱり私は紙の本を読むのが好きで、電子書籍を読むのが苦手で、将来すべての情報収集ツールがタブレット画面になったら目が追いついていかない気がする。目が疲れて読書どころじゃない。「ロード中」という名の数秒のフリーズに耐えられない。

 

そして何よりも。世界から紙の本が消えたらどうなるか。一生に一度の覚悟を決めてつくった壁面本棚に集う本が、なくなってしまうではないか。「私はこういう本を読む人間です」「私はこういう本から知識を得たいと考えている人間です」ということを視覚であらわしてくれる本棚が、機能しなくなってしまうではないか。目の前に広がる本の列を眺めながら「自分はここに書いている情報を得ているんだ」と満腹気分を味わうのがちょっとした楽しみなのだが、その情報源がすべてタブレットに入っちゃったら・・・持ち運びという点では便利なんだろうけれど、どうも読んでも読んでも満腹にならない気がする。これは感覚の問題だが。

 

たぶん自分と同じような感覚で、紙の本でなければダメなんだ、という人は多いと思う。そういう価値観を覆すようなものが現れない限りは、紙の本はなくならないと思う。そしてなくならないように、少しづつでも、紙媒体を集めていきたい。そうすれば愛する本棚もずっと生きていける。

 

場所はいつも旅先だった

自分にとっての「旅」とは何か。「旅」に出ることに、自分は何を求めているのだろうか。そんなことを、考える。

 

場所はいつも旅先だった (集英社文庫)

場所はいつも旅先だった (集英社文庫)

 

 

松浦弥太郎さんが旅先で出会った人や出来事についてのエッセイで、こういうのが旅の面白さなんだなぁと気づかされる。ひきかえ、自分は・・・

 

まず海外については、社員旅行で行った中国が人生初海外で、それ以降行っていないから、ほとんど思い出がない。万里の長城をのぼった断片的な記憶しかない。別に海外にこだわらなくても、国内だっていいのだけれど、じゃぁ国内で「旅をしたなぁ」と思い出される記憶も、実のところほとんどない。俺は旅をしていないのかい?

 

でもこの本を読むと、何も特別な場所へ行って特別な人に会い、特別な風景を眺め、特別なものを食べて過ごすことだけが旅なのではないのだと気づく。それが例えば京都のホテルの部屋でのんびり寝て過ごし、どこへも出かけないということであってもいい。「あぁ、自分もいつでも旅に出ることができるんだ」「そんなに力まなくても日常を旅に変えてしまうことができるんだ」ということに気づいた瞬間、なんだか気持ちが楽になった気がした。

 

 

午前中、少し仕事で事務所へ行って、昼過ぎに帰宅したらなんだか無力感に襲われ、夜までほとんど何もできなかった。夜、この本と財布だけを持って駅前のパン屋に行き、コーヒーを飲みながらしばし本の中の旅へ。出不精で、旅に対して無頓着だから、旅を楽しむ他人の生き方から、なにか得られるものがあるのではないか。そう思いながら読んで、実は普段自分が、気を紛らわせるためであったり、寂しさを埋めるためであったり、仕事上の憂鬱な気分をリセットさせるために過ごしている時間こそが旅なのだと気づいた。そう、こうしてコーヒーを飲みながら本を読んでいるこの行為も、気持ちをリフレッシュさせる立派な旅だ。なんだ、いつも旅してるんじゃん、自分。

 

そうこうしているうちに、あっという間にコーヒーもなくなり、パンもなくなり、ただ読んでいるだけでは退屈になり、結局10~20分くらいで店を出ることになった。こういう旅の時間をもっと大切にしたらいいのに、どうも没頭できない。自分が本当にリラックスできる旅先は、どこなんだ?

 

東京の表情

昨夜、大学時代の仲間と会った飲み会で、お店に i Pad mini を忘れてきてしまったので、今日、仕事終わりに受け取りに行った。まぁないってことはないだろうと思っていたけれど、お店に電話したら「確かにお預かりしていますので、取りに来てくださいね」という返事が来て、安心した。

 

普段ほとんど立ち寄らない秋葉原に二日連続で訪れ、電気街を歩く。その特徴的な風景には、仕事終わりで気が緩み、昼飯でお腹を満たしたあとの身体に一切の眠気を寄せ付けない刺激があった。

 

客寄せをする超ミニのメイドさん、ビルの外壁のアニメを写メで撮っている人たち。心なしか、外国人が多いように思う。世界にアニメ文化、アイドル文化を発信する「AKIBA」がそこにあって、秋葉原ってそういう街なんだ、と改めてびっくりした。そういう文化を発信する街が、まぁ自分にとっては正直ほとんど馴染みのない文化ではあるのだけれど、日本にあるというのは、すごいことだと思う。

 

 

ギリギリになったが、東京マラソン2017にエントリーした。初めて走った7年前は不本意な結果だったので、そのリベンジをしたい。

 

コースが新しくなったみたいで、そのコースムービーを公式HPで見ながら、早くも自分が走っている姿を想像する。雷門あたりでの情緒がいいんだよなぁ。日本橋を通るのか、箱根駅伝気分を味わえて、いいなぁ。35キロ付近、ちょうどペースが遅くなってしんどくなるピーク、そんなところが三田、田町の無機質な直線道路で、気持ちが持つだろうか。でも最後の日比谷の並木道は、いいなぁ、気持ち良いだろうなぁ、なんて思ったり。

 

www.marathon.tokyo

 

こうして見ると、東京の様々な表情が見えて、楽しい。古書店街、商業ビルが並ぶ江戸の中心街、下町、門前町。東京の中のいろいろな風景を見ながら数万人が走るイベントっていうのも、すごいなぁと思う。もしこのコースに秋葉原の電気街が加わってたと想像すると・・・それはそれで刺激的な気がする。ダメか、建物と同じスケールで目に飛び込んでくるアニメで目がチカチカしてしまうか。