リビングに本棚

自宅の本棚は、リビングにある。リビングと言っても、一般的にイメージするであろう、ソファがあって、ローテーブルがあって、テレビ台の上にテレビがあって、というようなリビングではない。ソファに寝転がってテレビを見ながらくつろぐ場所をリビングと呼ぶのであれば、自宅にはリビングがない。3.6メートル×3.3メートルの空間の中に、壁に面したキッチンがあって、電子レンジ等が入ったカウンター家具があって、ダイニングテーブルがある。その空間、いわゆるダイニングが、私にとってのリビングだ。そして、その空間に本棚がある。食事中、記事を書いているとき、その他ダイニングにいるときに、本棚に並ぶ本の背表紙が目に入るのが、好きなのだ。自宅の中で一番多くの時間を過ごす場所に本棚がある。これが自分にとってなにより大事である。本棚が「さぁ、見てください」と腕を広げて近づいてくることを、私は無意識のうちに求めているのだと思う。

 

だから、たまに扉がついた本棚をインテリア雑誌等でみかけるけれど、そういう本棚には正直興味が湧かない。たとえ扉がガラスで透明であっても、扉が中の本を覆ってしまっては、わたしにとっての本棚の存在意義の大半はなくなってしまう。本棚は、並べた本を露出させるからよい。特に本を見たいときでなくても、背表紙が視界に入ったときに感じるインスピレーションを、それがどれだけあるのか実際のところ分からないけれど、大切にしたいと思うからだ。

 

本の背表紙がガチャガチャしていて、すっきりしないと感じることは正直ある。ただすっきりした、整然と整った部屋が落ち着くかと言うとそうではなく、やはり多少雑多な部分が見えた方が落ち着くように思う。私にとってのそれが、たまたま本の背表紙だった、というだけで、それが何かは人によって違うのだろう。

 

もちろん大前提として、本はインテリアではない。読むものである。だから「見せる」という捉え方に違和感がある、という意見もあると思う。その気持ちは私もよく分かる。だから私も「飾る」ものとは捉えていない。読むことに価値があるということは理解しているつもりである一方で、本を開いて能動的に読むだけでなく、本棚越しの本の背表紙が何気ないときに目に入り、そのときに脳内に何か壮大なイメージが広がる体験、それも読書だろうと今は思っている。