競争が過熱するとロクなことがない

最近、事故が多い。何の罪もない一般人がその事故の犠牲になってしまった、というニュースを聞くたび、その場にもし自分がいたらとか、知人がそこにいたらとか想像してゾッとする。



ゴールデンウィークの始まり、関越道で夜行バスが防音壁に衝突する事故が起き、乗客7人が死亡した。その後の調べで、運転手が居眠り運転をしていたことが分かった。「結局それかよ」と思った。「乗客に全然非がないじゃん」って。



少し前に京都でたてつづけに起きた、運転手の「てんかん」による事故にしても、無免許少年による居眠り運転による事故にしても、運転者に一方的な過失があり、被害者側に予見しようがない点で、すごくいたたまれない気持ちになる。こういうときは、普段は大好きな車が凶器に思えてしまうから嫌だ。車にはこれまた何の罪もないのだが。



今回のバス事故が起きた背景には、バス会社の競争激化によるコスト圧縮が潜んでいるという。競争に勝つためには運賃を下げ、そのために運転手に過密スケジュールで運転させてしまう。それが今回このような事故を引き起こしてしまったのではないかと。しかし、そういう社会的な要因のせいにしてしまうのは簡単だけれど、そのせいにしてしまっていいのか、と思うと疑問。確かにコスト削減は過当競争の中で生き残るための必要策かもしれないけれど、それは原因のうちの一つに過ぎず、実際に過密スケジュールを強いる会社側を正当化する理由にはならない。



競争が過熱するとロクなことがないことが分かった。しかもそれは、建設業界にも言えることだと思う。ゼネコンによる受注競争が激化すると、勝ち残るための方法は大きく分けると二つ。一つは他社にない付加価値をつけて差別化を図ること。でもう一つはコストを圧縮して同じ品質のものを安くつくること。みんながみんな、生き残るための策を前者に見出そうとして、新しい価値をつくる方にエネルギーを注ぐならいい方向に向かう気がするけど、みんながみんな後者のコスト削減の方に向かうと、必ずしわ寄せがどこかに来る。例えば建築工事費でいえば、原価を下げるために現場管理費に着目すると、監督の人数を減らして人件費を節約するとか、いくらでも考えられるけれど、その人数で対応できる現場の規模かどうかは、営業のぼくにはホントは分からない。そうやって安易に現場管理費を減らしたしわ寄せが監督側へ行くと、監督一人一人が激務に襲われ、休日返上で働き、心身ともにボロボロになってしまう。「そうやって工事部、つらくて辞めちゃったじゃねぇか」その一言がどれだけ心に突き刺さったか。「監督辞めちゃったの、おれら営業のせいなの?」自分のせいだとは思いたくないけど、その原因の一つであろうことは確か。コスト意識を持つことは大切だけど、その一方で削減されるコストとともに消滅してしまうものもあるという現実に、ただの数字だと安易に考えてきたいままでの自分が恥ずかしくもなった。



競争が過熱するとロクなことがない。過当競争の中で生きる術を、新しい付加価値提案の中に見出す方向に、みんなで向かってほしいものだ。