引越ししてからというもの、テレビを接続していない。今年に入って、自宅でテレビを見ていない。どおりで最近、自宅時間がすこし長く感じるわけだ。今までテレビ番組を見ることで無駄な時間を費やしていたのか?だとするとテレビを見なくなったことはいいことだが、こうしてインターネットがテレビにとって代わり、youtubeでお気に入り動画を何度も見ているのでは本末転倒。コマーシャルとか、興味ない部分を遠慮なくカットして見られるのはいいが、中毒性が非常に高いという点ではテレビ以上に有毒、もはや猛毒です。



「時間が長く感じる」ということでふと思い出した。「ジャネーの法則」なるものを聞いたことがある。「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)」(出典:ウィキペディア)そうだ。つまり、50歳の大人が感じる1年の長さは、10才の少年が感じる1年の長さの1/5程度。そうだとすると、年々、時間が短く感じるようになってきてしかるべきなのだが、テレビを見なくするだけで、その短くなる感覚がわずかに緩和されるようだ。だから「拳銃を捨ててギターを弾こう」あっ違った、これはSUGIZOだった(それにしてもSUGIZO、ステキなことを言う)、「テレビを捨てて本を読もう」別にぼくは若者の読書離れを批判するつもりはない。ぼく自身、ついこないだまで典型的な読書離れ人間だったし。けどこうして少しばかりできた時間が、本を読むことで有意義になって、なおかつ知識量が増えたら、それはいいじゃないですか。「少年ジャンプ」とかみたいな賞味期限1週間のマンガを読んですぐ捨てるんだったら、あんまりテレビでアニメを見るのと変わらないかもしれないけれど、それはそれで、想像力(創造力?)がつくのではないかと思う。それにしても最近、ほんとにマンガ本を読まなくなったなぁ・・・



先日書いた(http://d.hatena.ne.jp/bibbidi-bobbidi-do/20120121/1327151243)ピース又吉の本を読んで、自分が体験した出来事と読んだ本の内容をリンクさせることの面白さに気付いた。特に面白かったのが、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の紹介文。お金とバイクを奪って逃げた裏切り者の親友を追う先で、親友を捕まえるきっかけになったビリヤード場の女性店員。その店員が読んでいた本がそれで、「この本だけは絶対に読もうと思った」そうだ。そんな思い出、ステキじゃないですか。そんな体験記の真似事だってしたくなるじゃないですか。






ぼくが村上作品に出会ったのは・・・2年くらい前か?タイトルからはストーリーがどういうものか全く想像がつかない不思議な物語「1Q84」。父親に薦められて必死に読んだこの長編は、二人の主人公それぞれの目線のストーリーが交互に出てきてだんだんシンクロしていくという手法。いま思えばいたってポピュラーで、他にもそういう手法の作品はあるのだが、当時はすごく新鮮に感じたのを覚えている。青豆の話が途中で終わって天吾の話になり、次にまた青豆の話に戻った時には「あれ、青豆の話はどこまで進んでたっけ?」て一旦考える必要があり、非常に読んでて疲れる手法でもあるのだが。青豆のカッコよさもさることながら、天吾の優しさ、おおらかさにも惹かれるものがある。







自分が1983年生まれであることから、物語の舞台が1984年であることに意味不明な惜しさを感じ、「あと1年前の話ならなぁ〜」なんて無意味に悔しがったりしたのを思い出す。当時、Book2で思いっきり完結したかのように見せかけ、まさかのBook3の出現に「えっどうやって続くのさ?」なんて驚いたけれど、いざBook3を読み終えると、それでも不完全燃焼感が残り、「こりゃぁBook4(1月〜3月)も来るでしょ。4冊で1年で完結だ」なんて妄想するも、もうじき2年経つ現在もまだBook4発売は発表されていない。いまだにBook4が来ることを信じているのはぼくだけでしょうか。仮に完結しているとしても、村上春樹の長編をひとつ読んだという事実は、確実に今の自分の自信につながっている、気がする。



この小説の影響で親父は車のナンバーを「1984」にし、伯父は「走ることについて語るときに僕の語ること」を読みながら東京マラソンを完走してのける。そしてぼくは例の手法に感化され、また先述の又吉の紹介に背中を押され、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでみようと思う。なんて分かりやすい、単純な血なんだろう。