地震ニモ負ケズ

3月13日。日曜日。



昨日サボった分まで書く。






3月11日。金曜日。14時45分。



ぼくは、松戸駅前にいた。



工事完了引渡済物件の目の前で先輩を待つ。



先輩と合流。



これから、目の前の近隣ビルのオーナーと打合せをしようとするところ。



最初、小さな揺れを感じたとき、一瞬電車のせいだと思った。



でも、べつにいま立っているところは高架でもなんでもないわけで、電車の揺れなんてあるだろうか、と疑問に思った。



先輩に「なんか揺れてません?」と言ったら、「えっ?あ、ほんとだ」ていうくらいのレベル。



その数秒後。



それが電車のせいじゃないことを確信するレベルの揺れが来る。



目の前を通った車の後部座席に乗ってたおばちゃんが窓を開けてぼくに「もしかして地震ですか?揺れてますよね?」なんて尋ねてくる。



そしてさらにその数秒後。



目の前でビルの外壁タイルが剥がれ落ちる。



歩道にたてかけていたビール瓶が倒れて割れる。



ぼくは、フェンスにしがみつきながら、まわりのビルが倒れてこないかと見渡すのがやっと。



まだ、揺れてる。



長い長い。



タイルが剥がれ落ちたビルの目の前でうずくまるおばちゃんをみて、事の重大さを知る。



完全におさまったのは何分後だっただろう。



駅前はすごいひとだかり。



電車は止まっているよう。



施工物件の所長と合流。



混乱の中、打合せを終え、先輩の車で会社に戻る。



ところが、道路は大渋滞。



4時に松戸を出て、千葉の会社に到着したのが9時。



高速道路は通行止め。



電車が止まっていたせいで、みんな車で移動しているのだろう、14号は車でびっしり。



なかなか動かない車の中で、先輩と運転を代わりながら、交互に公園のトイレに行く。



歩道は、あきらめて徒歩で帰る人だかり。



電話は通じない。



ぼくは、ここで降ろしてもらって歩いて帰ることも考えたが、帰る途中の二次災害や、帰宅難民の混沌に巻き込まれる不安から、とりあえずこのまま先輩と会社に向かうことにした。



途中のコンビニは、おにぎり・菓子パン等食料はすべて売り切れ。



しかたなく飲み物等を手にとって並んだレジの目の前の迷彩服の客が、タバコ10箱くらいとたくさんの食糧を買って数千円払っているのを見て、なんだこいつは??と思った。



9時すぎに会社に戻って、フロアーに入って、愕然。



散らばる書類の山。



ひび割れた壁。



数人しか社員が残ってないところをみると、みんななんとかして帰ったのだろう。



結局、帰れずに会社に泊まることになったのは、ぼくと、たまたま本社に電車で来ていた支店の課長の二人だけ。



はじめて、会社に泊まった。



総務部長が差し入れてくれたパンと団子、そして翌朝積算部長が差し入れてくれたカップ麺がこんなにうまく感じたことはなかった。



何度も来た小さな余震におびえながら、なかなか寝つけずに不安な夜を過ごした。



翌朝。3月12日。土曜日。



まだ京葉線が動いていないために帰れず、午前中いっぱいは書類の整理。



稼働中の工事現場は、なんとか事故はなかったようだった。



直属の先輩は朝一に東京から戻ってきたが、東京はすごいカオスだったそう。



ホテルはおろか、マンガ喫茶みたいなところも全然あいてなかったようで、あらためて都心の過密状況の恐ろしさを実感した。



部長が朝一で、耐震補強工事を着工したばかりの事務所へ行ってくれた。



建物、事務員の無事に肩をなでおろすも、もしもっと自分がてきぱきと動いて、もう1か月でも2か月でも早く着工していればよかったと後悔した。



仙台に出張していた先輩。



テレビを見て壊滅的な打撃を受けていた宮城にたまたま出張していた先輩が心配だったが、なんとか大丈夫だったそうで、安心した。



一人一人営業部員の安否をケータイメールで確認していたそうで、全員の名前に丸印がついたホワイトボードを見ながら、胸をなでおろした。



昼過ぎ、結局京葉線は動かないため、歩いて総武線の駅まで向かい、そこから帰宅。



古い木造アパートに住んでいるので、家がどんな状況になっているのか、もしかしたら消えてなくなってるのではないかと不安になりながら戻った。



なんとかそこにある我が家を見て安心し、部屋に入って、本棚ひとつ倒れてない状況を見て、逆に拍子抜けした。



冷蔵庫の上に置いておいたレンジの上に置いておいたオーブンの上に置いておいた洗剤が落ちて粉まみれになっていたこと以外、何もかわっていなかった。



2階建て木賃アパートは意外と強いな、と思った。



不安な要素はただ一つ。



水道から水がわずかしか出ないこと。



これは治るのだろうか・・・



ニュースを見て、過去最大級の被害を目の当たりにし、背筋が凍った。



高さ10メートルの津波に街が飲み込まれる姿なんて、想像しただけで吐き気がする。



いつも行ってるイオンに今日行ったら食料品がほとんどなくて「なんだこりゃ」て思ったけど、まだそのイオンが建ってて営業してるくらいだからマシな方なんだな、と思った。



こうしてパソコンとにらめっこをしながら今回の出来事を振り返って、あらためて日本の都市機能の脆弱さ(というよりぼくを含む日本人の脆弱さ)を感じた。



人間、インフラが止まるとそれだけでパニックになるんだな。



コンビニ、人がたくさん食料品を買う状況になると閉まるんだな。



幕張、道路が沈んで水浸しになるんだな。



みんなと同じ行動をとるのが嫌な天邪鬼な性格が災いし、イオンの食料品売場のレジ前の長蛇の列に並びながらイライラしていた。



そしてもう一つ。



建設会社が人間の命を預かっていることを改めて実感することになる。



昨日は、土曜日だというのに、終始電話が鳴り響いた。



うちが売ったマンションの住人が販売担当に連絡をとりたいのだが携帯が通じない、とか、引渡済物件の家の下駄箱が開かないからなんとかしてくれ、とか。



そんな対応に追われながら、確かに非常事態で建物に何かあった時に頼るのは建設会社の担当だよな、と思ったとき、その責任を感じた。



地震発生直後、ぼくの目の前であっけなく剥がれ落ちるビルの外壁タイルを見てゾッとし、一方で自社で建てた方のマンションは何事もなかったことにひそかに胸をなでおろしたことだけでも不謹慎だが、自社で建てたビルの外壁が崩れ落ちてそれで通行人を死なせたら、と思うと、それだけでめまいがする。



災害を通じて、自分の仕事が人の命に直接関わっていることを改めて実感させられた。



今現在、死者・行方不明者は1800人を超えているそう。



マグニチュードは9.0(!)で、国内観測史上最大(!!)だそう。



国内最大規模の地震にあいながら怪我一つない自分の幸運と、一方で一瞬で命が消えた方々の不運に、心臓が潰れそうです。