コーヒーと一冊

平日の仕事終わり。いつもより少し早めだったので、電車に乗る前に駅前の本屋に立ち寄る。特に目当ての本があるわけでもなくウロウロしていたら、ある出版社の特設コーナーみたいなのが、あった。なんでも自由が丘の出版社らしく、選りすぐりの本を「どうだ」と出しているような空気がなぜか感じられて、足をとめた。

 

「ミシマ社」。内田樹さんの「街場の・・・」シリーズがあったかと思えば、自由が丘のタウンガイドみたいなものがあったりと、少数ながらバラエティに富んだ感じが良い。なかでも目を引いたのが、「コーヒーと一冊」という薄い本のシリーズ。手軽に読めそうだし、装幀がなんか良い。紙質もつやつやしてないし、茶色い表紙が、コーヒーを飲みながら読むのに相応しい雰囲気を思わせる。平たく言えばジャケ買いなのだが、そうして惹かれるものがあって一冊を買ってみて読んだら、それがまた面白くて、電車内でニヤニヤしてしまった。

 

声に出して読みづらいロシア人 (コーヒーと一冊)

声に出して読みづらいロシア人 (コーヒーと一冊)

 

 

ロシア人を、その名前の発音しづらさに焦点をあてながら紹介するという、その発想がまず面白い。で、ロシア人の長ったらしい名前には理由があって、個人名・父称・苗字という決まりがあるということを知って驚いた。父の名前を名乗るって、なんだよ。しかもその父の名前のお尻に「ヴィチ」がつくだなんて。だから例えば、ドストエフスキーの正式名称は「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」。ムソルグスキーは「モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー」。そういう規則があるということが理解できただけでも、それを知ったからといって何に役立つというわけでもないのだけれど、この本を買って良かったと思える。だから正直、ひとりひとりのロシア人の逸話は、面白くて「へぇ~」と思うことが多いものの、あまり読後は覚えていない。

 

この「コーヒーと一冊」シリーズ、コーヒータイムに一服しながら一冊読み切っちゃうくらいのページ数で、読了感を味わうことをコンセプトにしているようで、共感した。自分自身、たくさん本を読みたいとは思うものの、きちんと一冊読みきった、と読後に満足できる本って、実はあんまり多くなかったりする。その繰り返しが、「読書はつまらない」という気持ちにつながってしまってはいけないと思うので、こういう本は、ありがたい存在だ。読み手に「こうやって読むといいよ」と、押し付けることなくさりげなく投げかけてくれているようで、読んでいて心地よいのだ。

 

自由が丘と京都の城陽市というところの2拠点で活動しているというミシマ社。伝えたいことをピンポイントで読み手に届けること、その出版社の原点に忠実に、心を揺さぶる本を出し、ウェブでも情報発信をしている。ミシマ社の誕生のストーリーをいま、コーヒをガブガブ飲みながら読んでいる。その業界で、仕事で、自分は何ができるのだろうか、やろうと思えばできることはたくさんあり、つまりできないできないと言っているのは実はやろうとしないからなのではないか、と自分に言い聞かせる。できない理由は、たぶんない。都内でやるのが業界の常識という出版社を地方でやる、という事例があるのであれば、場所を理由にした「ここではこういうプロジェクトはできない」という言い訳はできないのだな、と思う。

 

 

失われた感覚を求めて 地方で出版社をするということ

失われた感覚を求めて 地方で出版社をするということ