疲れているわけではないけど眠れぬ夜に

 

仕事中、不機嫌な感情をつい表に出してしまい、スタッフに悟られたな、と、あとで気づくことがある。そうすると、すごく落ち込む。なぜなら、不機嫌な人が嫌いだからだ。そんな人間にだけはなりたくない、と思うからだ。特に、仕事場で不機嫌を表に出すようでは、仕事人として失格だと思っている。

 

一度、「まぁ少ない仲間なんだし、あまり抑制しないで、たまにはそういう感情を出すことも必要だと思うよ」というアドバイスをいただいたことがある。その言葉にはすごく救われた。けれど、そのアドバイスに甘えたら、それこそ超不機嫌人間になってしまって、たぶん周りから人がいなくなる。齋藤孝氏の言葉もあり、上機嫌であろうとつとめているつもりだ。

 

不機嫌になってしまう理由を冷静に、考える。たぶん、いま何をやって、何時までに終わらせて、その次はこれを処理しいとマズくて・・・という手順をキツキツに決めていて、一度決めてしまうとそれが絶対と思ってしまい、例えばスタッフが別件の話をしてくると、その手順が狂ってしまう、と焦るからではないだろうか。外からの刺激はすべて自分の決めた手順での業務遂行を妨げる要因であり、なるべく避けたい、避けられなければ手短に済ませたい、という気持ちから、イライラしてしまうように思う。

 

 

内田樹氏著「疲れすぎて眠れぬ夜のために」を読んでいる。「礼儀作法を守る意味」を読んで、礼儀正しくふるまうことは思いのほか重要であるということに、今更ながら気づいた。

 

本来、敬語を使って話し敬うべき相手に対して、「ため口」で話してしまうことが、自分にもある。電話での打ち合わせ。相手は建設会社の担当者。人生経験も現場経験も、自分とは比較にならないくらい、上。彼に対して、設計監理をする立場から、へりくだるのではなく、どちらかというと指示する立場で話をしようと思うと、つい「ため口」が出ることがある。あまりよくないことだなぁ、と思う。

 

哲学者が言っているのを聞くと、そうだなぁ、その、別に新しい言葉ではなく、当たり前なことを、なんでいままでないがしろにしていたんだろうなぁ、と思う。

 

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

 

  

 

手順に沿って仕事をするのは大切だけれど、バッファーがないと、予期せぬことに対応できないし、なにより精神衛生上良くない。いつも思うんだけど、もっと「手順通りに終わらなくたって大丈夫、死ぬわけじゃないし」と思える柔軟性と、想定外を織り込み済みで終わらせられる余裕をもって、ゆったりと仕事をしたい。それができると、どうなるだろう。人に対して謙虚になれて、礼儀正しくなれそうな気がする。

 

 

裏表紙に書いてあるとおり「身体の内側から発信される信号を聴き取ること」を意識すると、けっこう恐ろしいことに気づく。つまり、礼儀を忘れて軽い口をたたいたときほど、自分の考えがあいまいで、相手に対等に近寄ろうとする魂胆があり、なにより、言葉を受け取った相手の気持ちを無視している。

 

一方、礼儀正しく、言葉を丁寧に選んで、ゆっくりしゃべったときほど、相手が快適に聞き取ってくれて、理解してくれたのではないか、という心地よい感触が残る。そうやって仕事をすすめるべきなんだ。そうやって仕事をすすめられたとしたら、どうなるだろう。心に余裕ができて、想定外のことに対処できる柔軟性が身につく気がする。