地質学者の視点で

高校生の時、地学の授業が好きだった。なぜか、と聞かれても説得力のある返事はできない。中学校の理科の授業で岩石の名前を覚えたときの快感が影響しているのでは、くらいしか言えない。玄武岩、安山岩、花崗岩。記憶できた嬉しさが「好き」に繋がるということを早いうちに知れたのは、良かったと思っている。まず関心を持つこと。それが学びを促進させるうえで大切なことだ。

 

社会人になり、直接地学の知識が仕事に生かせるわけではなくなったいま、それでも地学の知識を得たいと思えるのは、喜ばしいことだと思っている。ただ、いま学びたいのは、具体的な岩石のこととか、地層のこととか、火山のこととか、そういうミクロのことではない。地質学が扱う対象をじっくりと、それが存在している長い時間軸でみつめる。そしてその時間感覚を、今目の前にある暮らしへのまなざしに変換させることだ。それができれば、瞬間の出来事にむやみに惑わされ、一喜一憂することなく、長い目で見て適切な行動を選ぶことができるのではないか。

 

読み切れず、途中で放り出してしまわないかという不安を抱えながら、厚めの本を買って読み始めた。この本にこそ、今私が必要としている考え方が詰まっていると思う。

 

移動中の電車内で読もうと、いつもの調子で無造作にかばんにつっこんでいたら、カバーの端が数ミリやぶけた。普段なら気にならないのに、今回はなぜだか心が痛くなって、持ち運ぶのはやめようと思った。アンダーラインはバンバン引くのに、カバーが少しやぶけたくらいで「うう」となるなんて。モノとしての本に対して、繊細になったのかもしれない。これはどちらかと言うと悪い方向への気持ちの変化だ。紙の折れなどをいちいち気にしていたら本なんて読めない。そう思ってようやく気にならなくなったと感じていたのに。変なところで神経質だ。長い地球の歴史を想像すれば、カバーのやぶれでさえ、時間の経過による自然な出来事だと捉えられるはずなのに。