今の自分の働き方、仕事の進め方に対して、なんとも言葉にできない不足感を抱いている、そんな状態がしばらく続いている。やりがいがまるで感じられなくて悲しい、ということではない。やりがいは、ある。他者に必要とされているという実感も、ある。ちょっと驕った言い方だけれど、「余人をもって代え難い」立場にいるという感覚(まあ広い世の中、探せば自分の代わりはいるのだろうけれど、まあ探すのは難しいと思うよ、という、ほんのちょっとの慢心)も、ある。ただ、何と言うのだろうか、まだ頑張れるはずだろう。もっと他人の役に立つ仕事をしながら自分自身も労われるような暮らしができるはずだろう。そう思いながらも、それが現実にできていない。そんな自分への落胆というか、悔しさみたいなものが、身体中にこびりついているのだ。それを何とか振りほどこうとしている毎日だ。
3倍努力。こういうネガティブな気持ちが支配しているときに頭に浮かぶのが、この言葉だ。その起源は何だったのだろう、と思い出して、記憶のピースが今日、つながった。「隻腕の剣士 教壇に立つ」という書籍を、高校生か大学生の頃に読んだ。その時の言葉が頭に残っているのだと思う。この本は、剣道部で稽古に励んでいた私にと、伯母から買い与えられたものだったと記憶している(そもそも高校、大学時代に自分で本を買う習慣はほとんどなかった)。著者には右腕がないため、左腕だけで竹刀をもち、剣道に励む。大きなハンデを解消するには、周りの2倍の努力でようやく互角。勝つためには3倍努力しなければいけない。そういう話だったと思う。
高校時代、レギュラーになれないどころか、練習試合でも全く勝てないへっぽこな自分が、人一倍やらなければと考えていたのが、素振りだった。朝、親よりほんの少し早く起きて、庭で素振りをする。一日200~300本くらいだったか。そうやって「毎日繰り返し、友達がまだ寝ているであろう時間に素振りをする」ことで、3倍まではいかなかったかもしれないけれど、努力を形にしていた。レギュラーには結局なれないまま終わったけれど、努力した実感、達成感だけは、体にしみこませることができた。
社会人になってからは「3倍努力」なんてことは意識せず、気づくともうすぐ20年になる。これはまずいんじゃないか、と焦りだしたのは、実はこの文章を書いている、今だ。
3倍努力。もう一度心に刻み込んで、働くことに対しても注ぎ込みたい言葉だ。冒頭でぼやいた行き場のないモヤモヤをかき消す答えが、この言葉にあるんじゃないかと思う。
