ヤブガラシを目の敵に

 

外出の予定がない一日。自宅でやるべきことはたくさんあって、それを着実に終えていけばよいのだけれど、なかなか思うようにはかどらず、煮詰まってしまう。こうして一日を過ごしても欲求不満で終わるだけだと思い、では昼ご飯を食べに行こう、と家を出る。運動不足になるのも嫌だし。

 

蕎麦屋さんに向かう途中、道路脇のフェンスに雑草がびっしりと延びていた。この時期によく見るヤブガラシだ。別名、ビンボウカズラとも言い、もしかしたらこちらの呼び方の方がポピュラーなのかもしれない。庭の手入れなんてしていられないくらいの貧乏な家に生える、とも、生えた家の人は貧乏になる、とも言われているらしいこの雑草、とにかく繁殖力が強くて、上へ横へとどんどん延びていく。個人的には、藪を枯らすくらいの勢いを持つ「ヤブガラシ」という言葉にこそ、嫌悪感の源があるような気がする。例えばこの雑草が生えている家を見ると、なんだかそこが「手入れのされていないほったらかしの家」のように見えて、無性にむしりたくなってしまうのだ。これはもう一種の病気に近い。

 

だから目の前のヤブガラシを見て、それがある会社の寮の敷地のフェンスを這っているヤブガラシなのだけれど、つい足を止めて除去したくなった。ここでむしったところで誰にもとがめられないだろう。しかし、それを捨てるゴミ袋を用意しているわけでもないし、結局はムズムズしながらもそのまま通り過ぎた。

 

雑草と、そうでない草花との境界線は何。そう聞かれたら明確に答えることなんてできないし、何もヤブガラシばかりをのけ者のように扱うこともないだろう、とも思う。実際、私はお世辞にもキレイとは表現できないものの、きちんと花を咲かせて、ちゃんと生きている。立派な生命だ。ただ、この毒々しさすら感じるヤブガラシを見るたびに、それを放置することで、まるで自分が庭の手入れを怠る不届き者のように思えてしまうからたちが悪い。他人の敷地であり、自分は管理者でも何でもない以上、不届き者と言われる筋合いはないにもかかわらず。

 

自分が管理している庭や建物が例えばあって、それをきちんと手入れしていく、という視点に立てば、自分はある程度責任感を持ち合わせている人間なのだろうと思う。ただ、その必要もない場所(例えば公共の公園や、しばらく使われていない空き地など)に延びているそれに対してまで責任感を感じる必要もあるまい。街を歩いていてヤブガラシを見るたびに「自分はもっと寛容でありたい」という思いを強くする人間なんて、きっと私だけなんだろうな。