書けないと焦る日々を支えているのが、本である

特に大事にしている一冊がある。若松英輔「言葉の贈り物」(亜紀書房)だ。自分が本とどのようにつきあっていったら快適でいられるか、とか、どれくらいの距離感が理想か、とか、そういったことをじっくり考えるきっかけになった一冊だ。「読書とは?」というあいまいな問いに対する自分なりの答えも、とりあえず見つけることができたと思っている。

 

私たちが手にしなければならないのは、世に広く知られた本ではない。「私」だけが読み解くことのできる世界にただ一冊の本なのである。(自己への信頼)

 

私にとって読書とは、私だけが読み解くことのできる世界にただ一冊の本を探し、出会うための行為なのではないか。今ではそう思っている。そして、「言葉の贈り物」こそ、現段階での「「私」だけが読み解くことのできる世界にただ一冊の本」なのではないか、とも。もしそうだとすると、読書の目的を達成してしまったことになるのでそれはそれで寂しい。なので次の読書の目的を、あっちへ行ったりこっちへ来たりしながら、探している。

 

収録されているエッセイの中で、「書けない日々」も特に好きだ。週末、こうしてパソコンの画面をにらみながらエッセイをひねり出す日々を続けている自分に、突き刺さる言葉がたくさんちりばめられている。

 

 思うように書けないのは、言葉を扱うのに慣れていないだけかもしれない。それなら問題はさほど深刻ではない。新しい靴に足を慣らすように、少し時間をかけて言葉との生活を作り直していけばいい。

 しかし、もし内なる想いが言葉で表現できることの範囲を超えているのだとしたら、まったく異なる対処が必要である。

 

 華美な文章や流麗な文章など書かなくてもよい。それは人を驚かせるが、私たちの日常には寄り添ってくれない。一見するとまぶしいが、生活の場を息苦しくもする。私たちがどうしても見出さなくてはならないのは、自らの心によって裏打ちされた、古い、しかし本当の言葉である。

 

 どうしても思いを書くことができないと感じる。それならば、「書けない」と書いてみる。どう書けないのかを書いてみる。思いが真実であれば、一文字も書けないまま終わることはないだろう。こうしたとき人は、自分が相手を思う気持ちではなく、その人の幸福を願う言葉を書き始めるかもしれない。

 人が何かを語りたいと切に願うのは、伝えたいことがあるからばかりではなく、伝えきれない何かがあるからではないだろうか。簡単に書けないのは当然だ。むしろ、書けないことに直面しないまま紡がれた言葉が、どうして他者の心の奥に呼びかけることができるだろう。

 

多く引用したが、どれもが、私がこのブログで文章を16年以上書き続けてきたという事実を正当化してくれて、励ましてくれて、また、これからも書き続けようとする自分を支えてくれる言葉である。昼間、暑さにやられてなんとなく気持ちがしぼみ、早く寝たくても(明日はオフだし)、それでも日付が変わる直前にパソコンの画面に向かおうとするのは、本とその言葉に支えられて、自分が強くなったんだ、成長したんだ、さらに強くなりたいんだ、成長したいんだ、と強く感じるからに他ならない。