見逃す器量

自分の心に余裕がないと、どういうことになるか。軽率な行動をとったことを後悔し、不快感がじんわりと体をむしばむことになる。

 

熊谷で仕事終わり。ちょうどその時間、帰りの電車はだいたい30分に1本くらいのペースでやってくる。実際にはもっとたくさんあるのだけれど、渋谷まで直通で行けるのはそれくらい。だからやってきたその電車を逃すと、ホームで30分待つか、途中で乗り換えることになる。

 

今日、電車がやってくる数分前にホームに着き、2~3分で終わるから大丈夫だろうと思い、電話をかけた。すると、話しているうちに目的の電車がホームに来てしまった。しかも、相手もこちらにちょうど報告したいことがあったようで、話が長引きそうになった。私はこの電車を逃したくない思いと、「こちらからかけておきながらすみません、電車が来たのでまたかけ直します」というたった一言を言う恥かしさとが重なり、相手の話も半分に、なかば強引に電話を切って電車に飛び乗った。乗ってから、自分の行いを悔やんだ。

 

自慢ではないのだけれど、私は普段、「気が短い」「せっかち」とは真逆の性格だと思ってる。例えばホームへの階段をのぼっているときに目的の電車がやってきても、急いでそれに乗ろうとしないで、1本見逃す。歩いていて、目の前で歩行者用信号が点滅しても、急いで渡ろうとせず、止まる。それくらいのゆったり感が人生には必要だろうと思っているからだ。

 

しかし今日は、これを逃すと30分待つことになる、という恐怖から、そのゆとりを保持することができなかった。通常都内で電車を待つのはせいぜい5~10分。信号だったら1~2分。しかし30分は今日の自分には「まあいいや、待とう」で済まされない長さだった。

 

無理やり乗った電車で、空いている座席のシートにゆったりと座りながら、30分をおおらかに受け入れ、やってきた電車を見逃すくらいの器量のある人間でありたいと強く思った。そして今の自分はそこに至らない、まだまだ大人になりきれていない、とも。