東京マラソンから得た仮説

東京マラソン2014の落選通知メールが来た。人生うまくいかないようにできてるなぁ…と落胆しつつ、その日から今日まで全く走っていない。人間、挑むべき機会がないとこうも身体が動かないものなのか。facebookで走った距離とコースを報告する友達の投稿をみて、羨ましいと思う。

 

4年前、「どうせ」と思いながらエントリーすると、サクッと通過した。あのときのあっけなさったらなかった。宅建の試験直前に熱を出し、参考書抱えて寝込んでいた。当選メールをみた瞬間、抱えていた参考書と熱を放り出して笑った。翌日会社で真面目に上司に報告して笑われた。部で10人超がエントリーし、当選したのはお前だけだ、と。

 

そして今年。不本意な記録を塗り替えるべく、神に祈ってエントリー。近所の河川敷を走ることで、その願いが揺るぎないことを神にアピール。しかし結果はあっけなく落選。機械的に詫びる通知メールがものすごく冷たく感じた。

 

今回の一件から、次の仮説がたてられる。

1.実は神は存在しない

2.私が神でないものに間違って祈っている(例:近所のラーメン屋の主人)

3.私が神に見放されている(例:日頃の行いが悪い)

4.実は神には人の人生を決める裁量がない

5.祈りが足りない

6.祈り方に誤りがある(例:本当は祭壇が必要、初穂料が必要)

7.当選すると、当日ぶっ倒れて危険なため、走るな、という神の思いやり

 

7であってほしい。