「他人にどう思われるかなんて気にせず、自分らしく生きよう」そういうニュアンスの言葉をよく聞くけれど、そんなの無理だと思う。なぜなら、「自分は他人からこういう人だと思われたい」という理想をもっていて、その理想に近づくような行動をとっている、と感じることがあるからだ。
行きつけの本屋で立ち読み。最近よく見るのが、建築・インテリア雑誌とランニング雑誌。建築・インテリア雑誌は仕事に直結してるからまぁ興味が沸くのも分かるけれど、ランニング雑誌はどうだろう。正直、読みながら興奮したり感動したり、といった感情はない。それでも目をとめてしまうのは、「私の趣味はジョギングです」と言いたいから、ジョギングというアクティブな趣味をもっている人だと思われたいから、なのだろう。
走るのは正直しんどい。楽しいか?と聞かれると、楽しくはない。わざわざ心臓に負荷をかける行動が楽しいわけがない。でも、休日は昼過ぎまで寝ていて、起きてもぐうたらネットサーフィン、インドアで無趣味な男、と思われるのも嫌だ。だから無理やり体育会系の趣味をつくった、といったほうが近い。走ることで爽快な気分が味わえる、とか、腹のメタボも消せる、とか、そういったことは結果論にすぎない。
人からの印象を気にするのは読書も同じ。学生時代は読書が大っ嫌いで、中学高校時代は図書室で本を借りた記憶がない。それでも最近、多少なりとも読むようになった。それも、とにかく読書が好きで好きでたまらない、というよりは、「イマドキの活字離れ」とひとくくりにされるのが嫌で、「アイツは頭悪いけど本は読んでて知識はある」くらいには思われたいからだろう。そうやって理想像に自力で誘導していってるんだ。一種の情報操作だ。
だから、本を選ぶときの心理は、「どんな本を読みたいか」ではなく「どんな本を読んでいる人だと思われたいか」であるという内田樹さんの言葉にはすごく共感する。自分の理想像と他人が抱く印象との差なんて、どうやったって分かるはずがないのに。それでも私は自分に「こうであるべき」と言い聞かせるのだろう。
駅構内で「東京マラソン2014」のポスターをみて、もうその時期か、と思った。来週からエントリー開始。気が遠くなるような競争倍率だけど、趣味としてのジョギングを続けるモチベーションとすべく、また挑戦したいな、と無謀にも思っている。