大晦日-相模湖

 

大晦日。ここ3年ほどは、相模湖の古民家カフェに注文したおせちをいただきに行っている。そして今年も。ぜいたくな正月を過ごせる有難さをかみしめる。

 

毎年同じことを思うのだろうけれど、今年は特に、後半から年末にかけての時間の経過が早く、あっという間だった。やるべきことは一生懸命で来たと思うものの、まだがむしゃらさが足りなかったのでは、と反省する点は多い。目の前の問題を一つずつ、確実に、そして丁寧に解決していくこと。そうした着実さを意識して、来年も取り組んでいきたいと思った。

 

不惑

来年2023年に40歳になる。まだまだ先だと思っていたことが、もうすぐそこまで来ていて怖い。

 

40歳の誕生日を迎えるその日までに、何か大きなことを得たいと思って会社を辞めたのが去年だ。38歳、39歳の2年間を、人間力を高めるための準備期間、修行期間のように捉えて、来たる40歳の誕生日を一つの区切りとして、成熟した大人になりたいと思っていた。自営業をきちんと軌道に乗せて、それで生計を立てることができれば大満足。仮にそうならなくても、「自分はこれで飯を食べてるんだ」と堂々と言えるような仕事をすることを目標にした。その目標を達成させるために行動したのが今年1年だった。振り返って、たくさんの出会いがあり、チャンスには恵まれたと思う一方、それを活かして満足できる仕事に結びつけられたかというと、まだまだだと言わざるを得ない。

 

40歳と言ったら不惑。人は四十にして迷わず、というのは孔子の言葉だ。人によって当然違いはあるだろうし、年齢と目標とを画一的に結びつけるのはあまり好きではないけれど、しかし迷わず堂々と振舞うにふさわしい年齢という意味では、意識せずにはいられない。あれこれと惑わず、私はこれを仕事にしている、このことで他者に価値を提供する、このことで他人に必要とされている、と言えるようでありたい。その想いは会社を辞める直前期から今まで、変わっていない。

 

ただ今は、自営業だけで生計を立てることだけが目標達成手段だと思っていない。その点では妥協したと言われるかもしれない。ただ私自身は妥協したというより、軌道修正したという気持ちでいる。半年後にやってくるゴールまでにどうこうしようと焦るのではなく、もっと長い道のりを見て、地道にコツコツとやっていく。その先に、成熟した大人という抽象的だけれど大きな目標の達成が待っているように思えてならない。

 

クリームパン

パンの中では断トツで、「クリームパン」が好きだ。カスタードクリームがただ好きなんじゃないの、と言われるとそれまでだけれど、パンとカスタードクリームの組み合わせがたまらなく良いのだ。シュークリームも大好きだし、エクレアも大好き。でも日常的に何気なく食べる分には、クリームパンが一番良い。あらゆる街のパン屋さんの「クリームパン」を食べたい。いつしかそう思うようになった。

 

今日、家族が自宅から10分くらい歩いたところにあるパン屋さんのクリームパンを買ってきた。食べたらとても美味しく、これを買うために自分も定期的に行こうと決意した。クリームパンを買うならここ、と決めている自宅近くのパン屋さんがあるのだけれど、そこのクリームパンとはまた違う楽しみがある。形が違えば味わい方も変わる。味の違いをどうこう言うのではなく、その日の気分で選んで食べてみたい、といった感じだ。

 

本のブレンド

本とコーヒーは相性がよい組み合わせだとずっと思っていて、読書の時間をより快適にするアイテムの一つにコーヒーがある。あたたかいコーヒーを飲みながら本を読む時間なんて、最高だ。

 

コーヒーには、ブレンドというものがある。複数の産地の豆を混ぜることで、苦みや酸味など、産地ごとの豆の味を「いいとこどり」する。私がオープン以来ずっと応援しているカフェでも、王道のブレンドの他に季節ごとに変わるシーズナルブレンドや、クリスマスブレンド、ニューイヤーブレンドなど様々なブレンドを用意している。それらの味を比べるのも面白い。

 

「本のブレンド」ふと、本にブレンドという言葉を組み合わせてたらどうだろうと思い浮かんだ。2冊もしくは3冊の本をブレンドさせて、一つの束として本を考える。例えば面白いエッセイ集と、悲しい小説と、奥深い学術書を一つの束にして、その3冊を同時に読んでみる。そうすることで様々な感情を体験することができないか。

 

その束と一緒に、ブレンドコーヒー豆を合わせて販売するというのも良さそう。こういう気分になりたい時にはこのブレンドがおススメですよ、といったように、イメージのテキストをつけるとより手に取りやすくなるかもしれない。

 

神保町と皇居ラン

来年の4月から、職場がお茶の水に変わる。住所で言うと、千代田区駿河台。大学が多い街だ。自分が大学生の時はそれほどお世話になっていなかったけれど、駅前の画材屋さん「レモン画翠」には何度か、模型道具やクロッキー帳などを買いに行った、と思う。

 

そこから少し歩くと地下鉄の神保町駅がある。JR御茶ノ水駅と神保町駅。あまり近い印象はないが、歩いても割とすぐの距離感だ。神保町と言えば、日本有数の古書店街。ただ、これについても私はほとんどなじみがなく、神保町の古本屋で古本を買ったことはほとんどない。

 

神保町と聞いて思い出すのは、大学時代のサークル友達が、駅前の老舗喫茶店でバイトをしていたという話。喫茶店の本などに度々登場するような有名な喫茶店で、バイトをしていると聞いた時は驚いた。すごいじゃん、と言ったら、もう辞めたという返事が来た。彼女にとってはもう過去のことになっていた。

 

私にとっての神保町は、大学時代の学科仲間に皇居外周をジョギングしようと誘われ、貸しロッカーへ向かう時に乗り降りした駅、という印象が強い。貸しロッカーで着替えて、竹橋あたりまで歩いて、そこからジョギングをスタートさせる。1周約30分。信号がないからゆったりと走れたけれど、同じようにジョギングをしていた人が多く、天邪鬼な自分はちょっと寂しくもなった。いい気分転換になった皇居ジョギングも、今は全然していない。当時は、東京マラソンという目標があったからできたのかもしれない。あの貸しロッカーは今もあるのだろうか。

 

神保町の駅と皇居との行き来だったから、古書店街も、老舗喫茶店が集まるエリアも、ほとんど知らない。来年、職場がお茶の水に移ったら、この機会に散策してみようか。

 

とっておくか処分するかの二択

部屋の本を片付けていると、必ず迷う瞬間が出てくる。この本はずっととっておこうか、もしくは処分しようか、という二択の迷いだ。

 

気に入っている本については迷うことはない。問題なのは、自分で選んで手に取ったのではない本だ。自分で「読みたい」と思って買ったわけではないから、手放しても惜しくない、と言えばそれでおしまい。しかし、例えば定期便で届いた本などは、その贈り主からの個別のプレゼントのようにも感じられて、手放すことに抵抗を感じる。その抵抗感こそが曲者だ。贈与を贈与たらしめているのがここにある。贈られたものだから、大切にしなければならない。大切にすることで、贈り主にその感謝を表明しなければならない。その義務感はときに人をがんじがらめにする。不自由にすると言っても良い。

 

この強迫観念を通り抜けて、今は「それでも無尽蔵に所蔵し続けられるわけではない。いずれ手放す時が来る。だから処分してもいいや」と割り切れるようになった。これについて実は自分は節操ないんだよな、ははは、と自分で自分を笑えるようになったと言っても良い。鈍感になった、とか、倫理観が欠如している、とか、言われるのかもしれないけれど、それも自分にとっては成長だと思っている。

 

今日も十数冊の本を処分した。壁面本棚に入りきれない本は、そのまま自分のキャパシティを超えている状態の現れだと思うからだ。はみ出た本は手放し、大切な本だけをとっておく。新たに買うことはちょっとだけ抑えて、今ある本を味わうことに専念してみる。今はそういう時期なのだろう。

 

白湯

昼間、仕事中に温かい飲み物を飲む。それはお茶でもなく、コーヒーでもなく、お湯だ。ポットでつくったお湯をそのままマグカップに入れて、飲む。それがもう習慣になった。味はなくても、飽きずに飲めるのが良い。コーヒーは大好きだけれど、昼間の事務仕事中に飲むのは、今はもっぱら、白湯だ。

 

今日、カフェに出張して本を売った。表で販売していると、風が冷たくて寒い。途中、耐えられなくなって店内に入り、席に座ってあたたまっていたら、店員さんが気を効かせて白湯をくれた。コーヒーを二杯飲んだ後だったから、もうコーヒーはいいかなと思い、でも水をもらうのもキツイなぁと思っていたところでの白湯。ちょうど欲しいのだけれど、こちらからくださいと言いにくいものを察知してパッと出してくれる感じ。ホスピタリティって、こういうことを言うのだと思った。彼女はきっと「それくらい、当たり前ですよ」と謙遜するだろうけれど。

 

その外国人女性は

仕事終わりの帰宅途中。中目黒駅で日比谷線を降り、ホームで東横線を待っていると、若い外国人女性がスマホの画面を見せて尋ねてきた。「シブヤ、コレ?」スマホの画面には東横線の路線図が表示されている。

 

目の前の東横線は元町・中華街駅行きだから、行くべき電車は反対のホームに行かないと乗れない。「ココダト、シブヤニハイカナイ。アッチノホーム」こういうとき英語で話せないとカッコ悪くて情けない。でもまぁ伝われば良いのだ、と自分に言い聞かせてゆっくりしゃべった。

 

「アリガトウゴザイマス」女性はにこやかにお礼を言って去っていった。たくさんの人が日比谷線の電車からホームに降りて東横線を待つ中、尋ねる相手に自分を選んだのだから、頼りになりそう、とか、優しく応えてくれそう、とか思ってくれたに違いない。そう思うと単純な自分は嬉しくなる。たまたま彼女の後ろに立ったから、というだけかもしれないけれど、まぁ深く考えるのはよそう。

 

しかし。元町・中華街行きの電車に乗って、ふと思う。彼女が見せたスマホ画面の路線図は、見間違いでなければ、元町・中華街行きの路線図ではなかったか。そして、彼女が話しかけてきたとき最初に口にした言葉は「モトマチチュウカガイ」だった。もしかして彼女は元町・中華街行きの電車に乗りたかったのではないか?「シブヤ」と確かに言い、私は「シブヤニイキタイノデスカ」ときいて頷いたから応えたけれど、ちょっと心配になってきた。そして何より、反対側のホームには渋谷方面行きの東横線と、北千住方面行きの日比谷線の両方がある。仮に渋谷に行きたかったのだとして、果たして彼女は間違えずに東横線に乗れただろうか。ちょっと心配になり、自分の英語力不足を悔やんだけれど、とっくに彼女はホームから消え、自分が乗った電車は中目黒駅を離れた後なので、どうしようもない。

 

クリスマス会とM-1

昨日は、前職でお世話になったコーポラティブハウスの入居者に恒例のクリスマス会にお誘いいただき、出席した。退職して1年が経っているにもかかわらず、入居者同士の集いの場に呼んでいただけるなんて、夢のようだった。他人と一緒に食事をすること自体が激減している中でのお誘い。楽しかった。

 

今日は午後、東林間に出かけて仕事をした。帰宅後はのんびりと過ごし、YouTubeでM-1グランプリを観て、久しぶりに大声を出して笑った。こんな時間に近所迷惑でなかったかと、日記を書きながら反省する。

 

優勝してほしいな、と決勝前から応援していたコンビが、本当に優勝するという驚きは、もしかしたら今年が初めてかもしれない。場の空気をガラッと変えたり、「きっと楽しい時間になるんだろうな」という期待を抱かせたり。きっと自分の仕事にもいかせるヒントがあるんだろうなぁと思う。

 

逆戻りしないように

毎日ジョギングを決意して始めてから、1ヶ月半。身体が徐々に慣れてきているのを感じる。続けられそうだという、根拠のない自信に満ちあふれるというのもあまりない。思えば昔から、三日坊主の繰り返しだった。

 

一日あたりの走る距離を短く設定しているのが功を奏しているのかもしれない。もっと走らないと走る意味がないだろう、と意気込んでしまうと、身体がつらさばかり覚えて続かないと思う。たくさん走って断念してしまうより、一日あたりは短くてもずっと続ける方がはるかに有意義だ。私の身体はきっと「ちょっと足りないくらい」を求めているのだと思う。

 

これを10年、20年と続けたらどうなるだろう、と考える。目標は30年だ。その数字に大きな意味はない。20年じゃ短くて30年なら満足、という数字的な根拠はない。30年やったらじゃぁ終わり、というつもりもない。ただ、私の身のまわりに、結成30周年を経てなおカッコよくい続けているロックバンドがいることが、励みになっている。そういう存在でありたいという目標になっている。

 

これからどんどんと寒くなってくるので、続けるためのハードルは高い。いまはまだ「えいや」で外に出ることはできても、1月2月となると厳しいかもしれない。それでも、続けなければダメだと体が言っている。寒いからと言って辞めてしまっては、また三日坊主だったあの頃に逆戻りだ、と体が言っている。

 

健康診断

先日健康診断を行った。会社の健康診断を毎年行っていたのが10年くらい前に終わって、それ以来行っていなかった。特別健康に自信があったわけではない。なんとなく行わないまま過ぎてしまった、というのが正直なところだ。

 

健康に自信があるわけではない、と言ったのは、昨年その自信が揺らぐ出来事があったからでもある。病を得て人は、初めて自分がそのような状況になり得るということに気づく。本当はそうなる前に準備をしておかなければいけないのに。いつだって人は、手遅れになってから準備の大切さに気付く。

 

健康診断は、慣れないことばかりだった。毎年でも2年に一度でも、定期的に行っていればよかったと後悔している。診断結果を待つ今、結果が悪くないことを祈りつつ、これからは面倒くさがらず、定期的に行おうと胸に誓った。

 

心を波立たせない

心を波立たせないこと。松浦弥太郎さんの本に何度か登場するこの言葉を、いつも自分に言い聞かせて過ごしている。いつも言い聞かせている、と言ったのは、意識しないと実践できないからだ。何かあるとイライラし、ドキドキし、ヒリヒリする。もういいオトナなんだから、ちょっとやそっとのことでは動じない心で、どんと構えて過ごせばいいのに、といつも心の中の自分が言っている。けれど、穏やかでいること、それがなぜだか難しい。小学生くらいの頃は、「自分の短所は、短気なところです」と言っている友達がとても多いことに驚き、「短気って、何?」「みんななんでそんなささいなことで怒ってるの?」と思っていたくらいなのに。人間は成長と共に成熟していく。ただし退化することもある。そういうことなのかもしれない。

 

いま、自分が不機嫌を爆発させてしまいそうなときに、意識して頭に描く曲がある。なんでそれ?とびっくりされるだろうけれど、LUNA SEAの「静寂」という曲だ。タイトルからして「穏やかであれ」と自分に言っているようだけれど、それだけではない。イントロ、Aメロ、Bメロ、サビと、どんどんと拍子が変わる不規則なリズムがなんだか心地よい。1回目のサビと2回目のサビも拍子が違う。変則的なリズムを身体を揺すりながら追っていく。そうしていると多少心が落ち着くように感じるのだ。静まれ、自分。波立つな、自分。穏やかに、自分。

 

youtu.be

 

 

孤独を生きる言葉

 

仲間はずれにしない音楽

医師の稲葉俊郎さんとの共著「見えないものに、耳をすます」のなかで、音楽家の大友良英さんが音楽とのかかわり方について興味深いことを言っていた。仲間はずれにしない音楽。これは音楽に限らず、居心地の良い空間、ひいては快適な暮らしをつくるうえで、大切な姿勢だと思う。

 

稲葉:大友さんがやっていることって、仲間はずれになる人を作らずに、誰にでも居場所を感じさせてくれる音楽というか。ちゃんと適切な居場所がみんなにあるんだとわかっていても、「あなたはこれだよ」って示すのは難しいと思うんです。でも大友さんの音楽にはそれを感じるんですよ。

大友:うれしいなあ、そんなこと言われると。たとえば学生のバンドで、ドラム、ギター、ベース、管楽器ってあって、管楽器は何人いてもいいんだけど、ベースやドラムってひとりだけですよね。そうすると一年生とか補欠の人は、脇に座っていたりする。そういうのを見るのが、僕はすごく辛いんです。音楽なんだから一緒にやったらいいのにって思う。それは別にその子がいじめられているわけじゃないんだけど、音楽の中で、ヒエラルキーができてしまうのがイヤなんです。(中略)たとえば、トランペットで「プッ」と音が鳴らなくて「フーッ」と鳴っちゃう人がいたとしたら、「フーッ」という音でもちゃんと取り込むような音楽を作ればいいんです。そんな感じで、やっている人たちの間にヒエラルキーができてしまわないように音楽を作りたいなって思っています。

 

私は大学時代、クラシックギターのアンサンブルサークルに所属していた。ひとつの曲を大まかに3つのパートに分けて、重奏するという形だった。主に主旋律を弾く1stパートが当然目立つのだけれど、バックでリズムを刻んだりベースラインを弾いたりする2ndパートや3rdパート(曲によっては4thパートをつくるなどバリエーションがあったような気がするけれど、よく覚えていない)がなければただ主旋律が流れているだけで、曲として成立しない。3つのパートが合体してドーンと大きな音楽が生まれたと感じる瞬間の高揚感は、音楽を演奏する者でないと味わえない特権的な快感だった。

 

大学生が半ば趣味のような気持で取り組んでいて、楽器の習熟度や練習量、そもそものサークルに対する熱量に個人差がある以上、どうしても本番までにきちんと演奏できない部員が現れたりする。それ以前に、バイトが忙しくてそっちに専念したいからと本番の前に辞めてしまったりする人もいたと思う。そういう部員によって演奏の出来具合に差がある集団において、曲がりなりにも部長という立場だった自分は、もっと「仲間はずれ」をつくらない工夫ができたのではないか。そのことに、大学を卒業して16年経ったいま、ようやく気づいた。上手に演奏することはもちろん大事。練習に来ない不真面目なヤツに注意して来てもらうようにすることも大事。しかし、そうでなくても演奏会は部員皆で楽しめるものだということ(それが音楽というものでしょう、ということ)を、部長が率先して部員に示すべきだったのではないか。たとえばどうしても弾けない部員や、恥ずかしくて音が小さい部員がいたりするのであれば、そういう部員でも堂々と演奏できるように個別にパートを作ったらいい。全体を3パートに分けて全ての部員をそのどれかに充てなければいけないというルールなんて、ない。それくらい自由にやっている気ままなサークルだったのだから。

 

翻ってそのことは、いまの私の自営業でも言えるのかもしれない。本を売る私は今、「自分自身が読んで良かったと思える本」「お気に入りの本」「オススメの本」ばかりを仕入れて紹介している。何も愛着のないものを紹介するより余程良いことだとは思っているけれど、それだけではどうしても自分というフィルターを通した本しか紹介できず、偏ってしまう。私の想いに共感してくれる方にはぴったりの選書かもしれないけれど、価値観がまるで違う方にとっては、何も面白くない選書に見えるだろう。それは、「『私の好きなテイストの本』をわかってくれない人は来なくて結構」という姿勢に他ならない。本に興味があって自分が発信するものに近寄ってくれる方々をひとつの集まりとすると、その集まりからはじき出してしまう、つまり仲間はずれにすることにつながる。その「仲間はずれにされた人」を見るのが辛いのは、大友さんにしても、私にしても、同じだ。

 

仲間はずれにしない。胸に刻んで大事にしたい言葉だ。

 

 

ラパン

ふと、大学時代に好きで良く聴いていた音楽のことを思い出した。「なんで今更それ?」と言われそうだけれど、当時ラグタイムが大好きだった。クラシックギターのアンサンブルサークルに加入していて、3年生の定期演奏会では、自分で好きな曲を選んで練習し演奏することができた。同級生が皆、洋楽やJPOPや洋楽を選んで楽しむ中、私はスコットジョプリンの「パイナップルラグ」を選んだ。ラグタイムというアメリカ音楽の一ジャンルを知ったのも当時だった。「The Entertainer」は誰もが知っている曲だと思うけれど、それ以外は知らない人も多いだろう。私は「パイナップルラグ」を、愛し、何度も聴いた。きっかけは、スズキの軽自動車「ラパン」のテレビコマーシャルだ。可愛らしい車で、コマーシャルの選曲センスもいいなぁと感動したのを覚えている。

 


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YouTubeサーフィンをしていて、なんとなくラパンのCMにたどり着いたので、曲を聴きながら大学時代をぼんやりと思い返していた。軽快なリズムに乗ってギターを弾いていたあの頃は本当に楽しかった。やろうと思えば自分の力で何でも自由にできた。その自由の素晴らしさは、社会人になり、ある程度の不自由を受け入れることでより鮮明になって自分にのしかかってくる。なんであの頃はあの自由を、もっと「有難いこと」として全力で味わうことをしなかったのだろうか、と悔しくなる。

 

ラパンのコマーシャルを観る度、大学時代の自由な自分を思い出す。まるで羽が生えていてどこへでも飛んでいけるような。口笛を吹いてスキップしながら青空の下の公園を散歩するような。

 

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濃密な二日間

今週末は濃密な二日間だった。

 

26日はたねまめマルシェへ。久々の開催で、これまでたねまめの一ファンに過ぎなかった自分が、出店者の立場で携わる機会を得た。オリジナル作品を展示販売する作家さんや農家さん、お菓子屋さんが多い中、本を売るに過ぎない自分が入って良いのだろうか、と心配は尽きなかった。ただせっかく誘っていただいた以上、自分にできる本の紹介の仕方で楽しもうと思った。「セレクトがいいよね」と声を掛けてもらえたことがとにかく嬉しくて、よし、続けていこう!という気持ちになれた。

 

27日は行徳のCaffe Nilで月に一度の出張本屋。前日に車で実家に一度帰り、朝、実家から直接向かうという、ちょっとハードなスケジュールだった。午前中は特にあたたかく、本を読む目が重たかった。この心地良さが読書の醍醐味だ、ということが伝わればそれはそれで良いのかなと思い、半分接客そっちのけでウトウトしていた。

 

並べている本について質問され、答えられずにオロオロした。紹介する本の全てを読めるわけではないのだと認めつつ、それにしたって、最低限その本の大枠だけは知っていないとまずいだろう、と反省した。何百冊と売っている大型店の書店員とは違うのだ。

 

帰宅した頃には夜になっていて、久々の長距離運転の疲れがいま、現れている。都内で車不要の生活に、ずいぶんと慣れてしまったようだ。