ちょっと足りない感じ

ジョギング。これまでは朝起きて、仕事へ行く前に走ろうとしていたのだけれど、建築家の光嶋裕介さんの著書で、マラソンに備えて毎日夜ジョギングをしているということを知り、そうか、朝じゃなくて夜にすればいいんだ、と一気に視界が開けた。特にいまは朝から暑くて外へ出るのが億劫だ。だから夕方、帰宅して、暗くなり始めたころに走ろうと思った。それなら汗をかいても気にならないし、真っ暗で走りにくいということもない。なんでもっと早く気づかなかったのだろう。

 

今日も夕方にちょっと。この1週間、毎日が猛暑日で、疲労も蓄積していたのだけれど、この時間ならまだ大丈夫そうだ。いつものコースを2周走れるかな、というちょっとした余裕を身体に抱いたところで、1周走り終えてやめた。趣味として走る時間を楽しむには、この「ちょっと足りない」感が残るくらいがちょうど良いんだ、きっと。

 

自分の身体への水やり

昨日、夕方に植物に水やりをして、、、ということを書いたが、自分自身にもちゃんと水やりをしなけらばならない、そう感じた。

 

昨日今日と二日間、とてつもなく暑かった。「暑い」と安易に口にするのは嫌なのだけれど、つい口走ってしまうくらい、暑かった。こういうとき、水をたくさん飲まなければならない。ただでさえ普段飲む水分量が少なめだと他人に指摘される自分だ。その習慣が数年前の尿路結石の遠因でもあっただろう。脳梗塞もそうなのか?とにかく、水分を摂取して、どんどん出さなければならない。この二日間で何リットルの水を飲んだ?

 

水を飲んでいるときにぼんやりと脳内に浮かび上がる映像は、植物に水やりをしているときのそれと似ている。個体が水を吸い込んで、膨張する。カラカラに乾燥した個体が水をしみ込んで潤いを取り戻す。と同時に心臓の鼓動が増える。個体は熱を帯び、大きくなる。子供の身体が成長するように。植物が伸びるように。

 

そうやって自分の身体に水をやって、猛暑を乗り切っていく。まだ6月。これからが本番だ。

 

夏場の水やり

夕方、自宅マンションの共用部の植栽に水をやる。昼間、ものすごく暑い日のその時間帯はむしろ水やりをしてはいけない、なぜなら水が土の中でお湯状になり、植物によくないから。そんなことを誰かから教わった気がして、以来ずっと夏場はそれを意識している。暑い日に冷たい水を浴びたがるのは、植物も人間も同じということか。

 

土に水がしみこむ様子を眺めながら、なんだかその植物の命の連鎖を手助けしているような、多少傲慢だけれど、すごく良いことをしているような気分になる。それが気持ち良いから、夏場の水やりが好きだ。本当は毎日だってやりたいくらいだ。でもマンションには水やりを仕事とする清掃員がちゃんといる。その人だって良い気はしないだろうし、気づいた時に、気が向いた時に、くらいの感じでやるのがちょうど良い。

 

両方の考え

1ヶ月のうち、特に予定を決めないで一日オフを過ごす休日が何日あるだろう。そんなことをふと考える。今月は割と週末も予定が入っていたから、今日のオフは貴重だった。月初から、外出の予定をいれないようにしていた。行きたいところはあったのだけれど、でもなんだか外へ出るのが億劫になり、断念した。意識して自宅で過ごそうと2週間くらい前から決めていたのだから、従わなければダメだ。

 

休みがほしいと思うようになったのはいつから?昔からか。社会人になりたてのころは土曜日出勤は当たり前だった。日曜日出勤が重なったときは、つらかった。休みがないと人間生きていけない、と思っていた。でもいまは、主体的に仕事をしていて、面白がろうとする姿勢があれば、毎日仕事でも何ともないだろう、とも思う。昼間ずっと仕事だとしても、朝や夜に自分だけの時間をつくることはいくらでもできる。出勤を甘く見てる、ということではなく、心にゆとりができたのだと感じている。

 

結局自分は無理なく休む人間でありたいのか、忙しく動き回る人間でいたいのか、どちらなのか分からなくなる時がある。どちらなのか分からない、というより、どちらの考え方も自分は持っているのだと思う。休みなんていらない、動いていないと生きている気がしない、どうせ休日なんて有意義な使い方ができないに決まっているんだ。いやいや、やっぱり無理はいけない、昔は多少身体を酷使しても問題なかったけれど、いまはそうはいかない、定期的に仕事を遮断する日がなければ集中力がもたない、休みを満喫して、明日への活力に変えるべきだ。そう、どちらかが正解でどちらかが間違い、ということではなくて、繰り返すが、両方の考えを自分は持っているんだ。

 

久しぶりに一日自宅で過ごして、感じたのは、そのだらけた時間の使い方を後悔しつつも、そういう日がやはり必要だから自分はそうしたのだろう、ということ。正解か不正解かは他人にとやかく言われることではない。自分が正解だと思えば正解。違うんじゃないかとふと頭に浮かんだら、いや正解なんだ、と自分で自分をだませば良い。

 

感動するために必要なもの

大宮駅にて。電車を降りて階段を上り、乗り換えのために隣のホームへ向かう。階段を降りたら、見慣れないデザインの電車がまさに発車するところだった。「なんだこれは」と一瞬頭にはてなマークが浮かんだけれど、まぁこういう電車もたまにはあるのだろう、くらいで自ら納得を、した。

 

その電車に向かってカメラを構える人が複数人いることに気づいたのは、一番後ろの席の運転士2人が離れるホームに向かって手を振っているのを見て、自然と笑みがこぼれた、そのあとだった。皆が一様にその電車が発進する姿を残そうと、カメラを向けていた。そうか、これが撮り鉄か。きっと好きな人にとっては垂涎ものの電車だったのだろう。運転士2人は、電車を愛する彼らに向かって手を振っていたのかもしれない。なんだかほほえましい瞬間を見た気がして、嬉しくなった。

 

それにしても。見た事のないデザインの電車を見ても特に感動もせず、「まぁたまにはこういう電車もあるだろう」くらいにしか思わなかった自分の、心の動かなさよ。珍しさこそ感じたけれど、「知らないのは自分だけで、他の人にとっては珍しくとも何ともないんだろうな」と、無意識のうちに思っていたのだ。

 

自分が何かに感動するために必要なのは、他人の枠組みを無視できる鈍感さなのかもしれない。その時私は、「他人にとってはたいしたことないもの」じゃないかと疑って、素直に感動する心を失っていた。それじゃあ勿体ないな。他人にとって当たり前であろうと、自分にとって珍しかったら素直に感動するようでありたい。

 

天丼

昔のテレビ番組でTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉が好きな食べ物を聞かれて「カツ丼」と答えていたのを思い出す。「カツ丼好きだよねー。日本全国のカツ丼を食べたいよねー」と、対談相手の高橋みなみに共感をうながす。日本全国食べに行きたい食べ物がカツ丼。そんな視点でカツ丼を見たことがなかったから、なるほど、確かにカツ丼は美味しいし、嫌いな人はいないだろうなぁ、と思った。

 

では私にとっての「日本全国食べに行きたい食べ物」は何か。悩んだ挙句、最近は「天丼」だと思っている。うまく説明はできないけれど、カツ丼より天丼の方が好きだな。で、他にも好きな食べ物は、ラーメンとかカレーライスとか寿司とかうどんとか肉じゃがとかたくさんあるけれど、飽きずに食べ続けられるのは、天丼かなと思った。

 

最近は1ヶ月に一度のペースで、東林間に行っている。そして東林間に行った時の昼ご飯はここ、と決めているそば屋がある。今日、そこで家族が天重をオーダーした。この店は丼ではなく重箱。そして出てきた天重のボリュームに、びっくりした。ご飯の上に乗っている天ぷらのかさが高くて重箱の蓋が閉まらない。だから開けた状態でやってきた。たまたま違うモノをオーダーした自分はただちに後悔し、来月来たときは必ず天重を食べよう、と強く思った。日本全国のそば屋に行って食べ歩きたいのが、天丼だ。

 

流山での本屋プロジェクト、終了

 

3週間の間、場所を借りて本屋をやることができた。流鉄流山駅隣の観光案内所兼コミュニティスペース「machimin」で、期間限定の本屋プロジェクトを行った。観光でふらっと立ち寄った方、SNSを見て興味を持って来てくださった方、家族友人知人、さまざまな立場の方が寄ってくれて、楽しい空間になった。

 

特に面白いと思ったのは、初めて会った人同士がその場で意気投合し、時間を忘れてしゃべりあっていたこと。それができるのがコミュニティスペースならではだと思った。その居心地の良さに、自分がセレクトした本や、一緒に空間をつくりませんかと誘ったコーヒースタンドのコーヒーが貢献しているのだとしたら、これほど嬉しいことはない。

 

一つ、大きな教訓を得ることができた。それは、「本屋としての私の特徴はこれだ」という強い主張が必ずしも要るわけではないということ。本屋、花屋、雑貨屋、コーヒー屋、ワークショップ。さまざまな参加者が表現する日があって、それぞれ来る客層が異なり、空間の印象も違った。「machiminって、結局何がやりたいんだろう」と、複数日足を運ぶとそう思う人もいるかもしれない。けれど私は、machiminはその「芯のなさ」「つかみどころのなさ」のようなものを大切にしているように感じた。だからそれは、本屋としての自分のスタンスにも当てはめることができると思った。「こういう本屋です」という強い主張は、その主張に共感する方を呼ぶことができる一方、「自分のことはお呼びでないようだ」と思う人を遠ざけることにもなる。誰にでも八方美人で良くふるまう、と言うことでは決してないが、さまざまな価値観の人が興味を持ってもらえるような、そんな懐の大きい本屋でありたいと思った。

 

走る、を続けること

また毎日ジョギングをしようと決意した。これまで、やろうと決めて、数日は続くのだけれど、長続きせず断念、ということを繰り返していた。だから少しづつであっても、必ず毎日、走るようにする。そう決めた。そして今朝、ほんのちょっとの距離だけれど、走った。6月4日。中途半端だけれど、ここからスタート。

 

きっかけは、内田樹「街場の芸術論」で村上春樹について語っているのを読んだことだ。村上春樹は書くという行為のことを「鉱脈を掘る」という比喩で表している。毎日決まった時間に机にはりつく。アイデアが浮かばない時であっても、必ず席に着く。小説を書くという行為は、「鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていく」ことだという。身体を酷使して、毎日こつこつと前進し続ける。そうやって鉱脈にたどり着くための努力が、小説を書くことにつながる、と言っている。

 

これは私がブログを毎日書くことについても当てはまるし、だから走ることにも当てはまると思った。乗り気でない時も当然ある。いくらでもある。けれど、どんなに木が進まなくても、必ず家を出る。そして走る。走り切れないと思ったら歩いたって良いけれど、「今日はいいや、雨降ってるし」なんて言って家から出ない、ということだけはしない。そうやって決めてしまえば、鉱脈を掘る村上春樹のように、堅実に前に薦めるような気がした。その力を、村上春樹の言葉からもらえたような気がした。

 

 

復活祭

本屋の仕事をしながらふとスマホのニュースを見て、LUNA SEAが武道館で復活ライブをやることを知った。うだるような暑さだったけれど、その暑さも吹っ飛び、飛び上がりそうなくら嬉しかった。長くじっくり待とうと覚悟していると、こんないいことがあるんだな。

 

自分にとっての大切なロックバンドが2バンドあって、どちらも解散を経ていまも活動している。休止期間があるとはいえ、結成して30年以上、音楽を奏で続けている。何よりかっこいい姿を見せ続けている。そのバンドのパワーが、私が本屋を続けるためのモチベーションになっている。

 

乗り換え

本屋プロジェクトで流山へ。東横線で明治神宮前まで行き、千代田線に乗り換える。常磐線に接続しているから、そのまま馬橋や新松戸まで行ける。ちょっと時間はかかるけれど、思いのほか早く車内は空き、座ることができたのでゆったりできた。

 

ウトウトしていて、気づいたら新松戸に着いていた。手前の馬橋で降りて流鉄に乗り換える予定だったから、焦った。もうちょっと目が覚めるのが遅かったら戻らなければならず、遅刻していただろう。急いで新松戸で降りて、幸谷駅に向かう。結果、馬橋乗り換えの場合と同じ流鉄に乗れたので良かった。

 

乗り過ごしそうになるほどウトウトすることは最近ほとんどなかったから、びっくりした。振り返ると、綾瀬駅を過ぎたあたりからの記憶が、ない。座れたからといって油断してはいけない。

 

マイクロスパイ・アンサンブル

伊坂幸太郎の新刊を昨日書店で見つけ、迷わず買った。読み始めたら止まらなくなり、本日読了。単行本1冊を2日で読み終えるという経験は最近ではなかったから、驚いた。でもあっという間だった。

 

恋人に振られた新入社員の5年間と、ある任務を遂行するスパイの5年間が、交互に展開するストーリー。核となる一つの出来事があるというより、さまざまな出来事の中に、やさしくほっこりするような瞬間がある。薄味だけれどさわやかな読後感は、「アイネクライネナハトムジーク」を思わせる。

 

猪苗代湖でのイベントで毎年会場配付されていた小説をまとめたものだという。年月を経て複数の短編が1冊になる、という過程に、著者のストーリーメイキングのすごさを感じる。ある人の行動が別の人を助け、またある人は別の人に助けられる。正論ばかりを振りかざすのではなく、場が和んだことを糸口にして解決させていく。そうやって優しさがあふれる社会になったらいいのに、と思う(いや、実はすでにそうなっていて、自分が気づいていないだけなのかもしれない)。

 

 

F:ファランドール -farandole-

大学時代、クラシックギターのアンサンブルサークルに所属していた。クラシックの曲を楽譜化し、部員皆で3パートに分かれて演奏する。あの頃は気楽で、でも真剣で、楽しかった。

 

当時、後輩が引っ張ってきて演奏していた曲で、思い出深い曲がある。それがビゼーの「ファランドール」だ。冒頭の荘厳さあふれるメロディから、飛び跳ねるような軽快なリズムに移り変わるのが印象的なこの曲、後輩の演奏を聴いて一瞬で虜になった。クラシックギターで弾けるようになりたいと思って練習したのを思い出す。

 

独特のリズムで気味悪ささえ美しい「ハバネラ」も好きだけれど、「ファランドール」はもっと好きだ。同じ作曲家であるビゼーのセンスにほれぼれする。クラシックギターのアンサンブルでこの曲を選ぶ後輩も、選曲センスにあふれている。

 

20年くらい前に流行ったDA PUMPの「Com'on! Be My Girl!」の間奏に、このファランドールが流れていると知ったのは、実は今日。ファランドールについて書こうと思っていろいろ調べていたらその事実にたどり着いた。20年前に聴いて何とも思わなかったのか!と驚くけれど、それはそれで面白い。2種類の民謡を組み合わせてできた曲だというのも、今日知った。民謡始まりの曲だったのか・・・。

 

思考の枠組み

「他人のことは変えられない。変えられるのは自分だけだ」そのような言葉を聞いて、無理やり他人を変えようと考えるのをやめた。もう何年も前のことだ。

 

例えば、よくしゃべる人と話をしているとき。相手の話が長くて退屈になることは誰にでもあるだろう。そういうとき、退屈している自分の苦痛だけを取り出して、「あぁ、話長いな。退屈していることに気づいてないのかな。そういう相手のことを考えない人って、嫌なんだよな。早く終わらないかな」とイライラするのでは、進歩がない。それであれば、「うわ、すごいしゃべるな。自分にはとてもできない。この人はたくさんのことを伝えられるくらい聡明な人なんだな」と相手をアゲておいて、「聞き上手」な自分であろうとする方が、精神的にも良い。要は、よくしゃべる相手を黙らせようとするのではなく、自分を気持ちよく聞く人間に変えてしまうのだ。

 

思考の枠組みをちょっと変えるだけで、感じ方は変えられる。結果、要らぬストレスに惑わされずに済む。そういう気持ちの切り替えって、大事なんだなと思った。

 

ときがわで古本市

 

実家のすぐ近く、ときがわ町で行われた古本市に参加してきた。畑の真ん中にシートを広げ、本を並べて売る。いつにも増して気持ち良いと思ったのは、たぶん土に触れながらのイベントだったからだと思う。大学卒業まで過ごした実家での暮らしを思い出した。

 

と同時に、場所は都内でなければならない理由はなく、例え畑の中であっても魅力のあるイベントを企画することができれば人を集められるのだと知った。これを機に、地元で何かコトを起こすことができないか、考えていきたい。

 

流山で本屋

プロジェクトの打合せで流山へ。流鉄流山線に乗るのは今日で2回目。この仕事の縁がなかったら乗っていなかったし、今後も乗る機会がなかったかもしれない。都心に近い千葉のローカル鉄道。自動改札はなく、切符を持ってホームに入り、出る駅では箱に切符を置くだけ。平和な空気が流れる駅舎を出て、向かうのは駅舎すぐ隣のコミュニティスペース。ここで約3週間、本屋をやることになった。縁を結んでくださった方々に感謝。

 

流山線流山駅周辺は、昔は本屋や地元出版社があったがいまはほとんど廃業してしまったそう。そんな書店難民エリアとなるこの場所で、本屋をやる。やるからには、一日だけの出張本屋、なんて言わずに、一定期間(といっても3週間程度なのだが)、ちゃんと根ざして、立ち寄る方に喜んでもらえるような本屋にしたい。レイアウトなどイメージは固まりつつあるけれど、まだまだ考えるべきことは多い。でも心配よりも、楽しみという気持ちの方が大きい。