Season10-1 贖罪

シーズン10 第1話「贖罪」

 

いま、法科大学院で法律を学んでいる学生を支援する仕事をしている。そこで感じるのは、弁護士は、権利を侵害されて困っている人、期せずして刑事事件の加害者になってしまった人、トラブルに巻き込まれてしまった法人等に対して、手を差し伸べる重要な役割を担っているということ。はたから見たら「〇〇が悪いに決まってる」と思うようなことも、問題点をじっくり検討すると別の状況が明らかになるかもしれない。他者の意見、見解に惑わされずに、クライアントの利益を導く道を探る。難しいけれど、意義のある仕事だ。

 

「贖罪」は、15年前に女性を殺害した罪に問われ、刑を終えた城戸が、冤罪を主張して自殺するという話。当時、被害者につきまとっていた城戸に注意した神戸のことを「絶対に許さない」と言い残して。右京と神戸による捜査により、城戸が冤罪であることが分かる。サブタイトルの「贖罪」には、冤罪をつくり出してしまってなお逃げ続ける関係者に、贖罪の場を与えようとする右京の執念と、15年前に法廷で偽証した神戸の自責の念の、二つの意味が含まれているように思える。冤罪をつくり出さないために。法律を真に学ぶことは、そのためになくてはならない。

 

妙典・塩焼と蕎麦屋

14年間、市川市妙典に住んでいた。大学を卒業して社会人になったときに、実家から引越してきた街が妙典だ。それから一度職場を変え、ずいぶん長い間お世話になった。川を越えるとすぐ都内という便利さと、それでも川を越えない分都内から外れたのどかな空気をあわせもった、快適な街だった。そこに14年間住んでいながら、一度も行ったことのない飲食店というのが実はたくさんあって、そのうちの一つ、塩焼の蕎麦屋「長寿庵」は、妙典を離れてから通うようになった。以前はこういう老舗感のただよう蕎麦屋はなんだか入りずらかったのだけれど、大人になった。

 

いまは月に2~3日ほど、本屋の仕事で妙典に行っている。昼食は長寿庵で蕎麦を食べている。今日は、たまには違うものにしてみようと思って五目中華そばを注文した。蕎麦屋でラーメンを食べたのはたぶん初めて。具だくさんで、素朴な味で、美味しかった。単品の普通ライスも大盛りだ。

 

いまは、妙典駅を降りて南の塩焼の方に歩き始めるともう口の中が蕎麦モードになる。なんで住んでいるときに通わなかったのだろう、と思うと本当に悔しい。

 

二足の草鞋

二足の草鞋を履く。素敵な言葉だと思う。二本の刀を操る二刀流、と表現しても良いだろう。

 

本業と呼べるものの他に、別の生業を持つ人。そもそも決まったひとつの「本業」と呼ぶものがなく、複数の生業を持つ人。一つのことの専門家であることの例えとして「職人」という言葉があるけれど、その対極にあるような人。一つのことにこだわらずに手を広げる。それはたまに「二兎を追うものは一兎を得ず」という言葉で表現されるようにネガティブな意味を持つことがある。しかしいま私はこの言葉を前向きにとらえている。最初から一兎しか追わずにいるより、二兎を追った方が良い。一兎しか追わなかったら一兎しか得られないけれど、三、四、五兎を追ったら一兎を得るかもしれない。

 

自分の仕事の話だ。昔は「わたしの仕事は端的に言って、これだ」というものを見つけて、その分野での専門家、プロになることを目指していた。しかし社会人になって10年が過ぎ、15年が過ぎ、専門技能と呼べるものが自分にはないのではないか、という不安に襲われることになる。であれば、この分野、という大きめの核は持つものの、その中で複数のことを学びながら取り組んでみよう、というように方針転換するようになった。基本、行き当たりばったりな人生だ。

 

これまで経験してきた仕事を全て忘れて一からやり直すつもりは、ない。リセットはしない。建築、住宅、インテリア、本、というように扱う対象が変わっても、それらを通して暮らしを快適にするサポートをしたいという想いはつながっていて、地続きだ。ビシッと区切ってさぁ気を取り直して、という感覚はあまり持っていない。いままでやってきたことも、最近始めたことも、一緒に続けていく。二足でも三足でも草鞋を履いて、自由に動きまわれるようでありたい。

 

ウズウズとムズムズ

手帳を買った。4月始まりの手帳を使うようになったのは比較的最近だけれど、手帳自体は社会人になった頃からずっと同じものを使っている。高橋書店のフェルテだ。ずっと表紙が黒だったけれどここ数年は深みのあるブルー。偶然だけれど、スマホカバーとも色が近く、手帳にスマホと並べているだけでもなんだか様になっているように見える。

 

手帳を買ったばかりの頃の、スケジュールをはやく書き込みたいウズウズ感がたまらない。その一方で、3~4月の、古い方と新しい方の2冊を持っていないと古い方に書いたことを検索できないムズムズ感も避けがたい。ウズウズとムズムズ、両方がせめぎあう何とも身体がかゆい3月だ。

1週間に1回

昼間、確定申告書類の作成で籠っていた。なんとか書き終わって一安心。

 

夕方前にジョギング。ここ最近は1週間に1回くらいの頻度になっている。しかしそれでも、走らないまま何週間も過ぎてしまうよりはましである。一時期は少しの距離でもいいから毎日走ろう、と意気込んでいた。結果としてそれよりハードルを下げた形だけれど、1週間に1回でも続けることに意味があるといまは思っている。

 

そもそも、毎日走ろうとしたら、それこそつらくなって続かない。走っているときの、苦しいけれど適度に心地よい時間が好きだから走っているのだ。その「好きで走っている」という感覚を、苦行にはしたくない。

 

やはりというべきか、すぐにバテていつもの1周を走り終えるのがやっとだった。1週間に1度だっていい。それを何週間も、何か月も、何年も続けたその先に、楽しさが待ち構えているという期待感があるから。

 

初めての自営で

初めての自営業、初めての確定申告書を書いている。説明書をゆっくり読みながら、間違えないようにそっと書いていく。こういう書類は予期しないところで書き損じしそうで怖い。びくびくしながら書くので、なかなか思うように進まない。自然と筆圧がいつもより弱くなる。

 

帳簿というほどではないけれど、自営を初めてからの売上記録は簡易にとってあるので、ひとまず書けないということはなさそうだ。あとは用語をきちんと理解すること、記録したことをきちんと申告書に落とし込むことが大事である。

 

全国の自営業者はこれを毎年やっているのかと思うと、尊敬せずにはいられない。自分も、丁寧に書いて慣れていかなければならない。

 

 

日曜日にカフェ

毎日通っている都内の大通り沿いに喫茶店が2軒ある。どちらも、朝ゆっくり過ごすときに頼りになる存在だ。今朝、いつもよりちょっと早い時間にコーヒーを飲もうと立ち寄ったら、開いていなかった。ドアを見ると、日曜日は10時からとある。そうか、今日は日曜日か。じゃぁもう一軒、と向かいの喫茶店に行ったら、こちらは日曜定休日。そう来たか。仕方なく少し歩いてたどり着いたハンバーガーショップは、8時から。時計を見ると7時50分。中途半端だ。仕方なくちょっと遠回りしてゆっくり歩きながら時間をつぶした。

 

いつも当たり前のようにそこでコーヒーを飲んでいたけれど、休日はそんなに需要が減ってしまうのか。まぁ、自分だって休日に立ち寄ったのは初めてだったのだから、とやかく言えない。休日にカフェに行こうとするときは、注意しなければならない。

 

ねこはるすばん

割と大事にしていたけれど、まぁ欲しければまた買えばいいし、すごく良い本だから他の人にもぜひ知ってほしい、と思って手放した絵本がある。妙典での一日本屋。一日だけとはいえ、初めて自分の実店舗を持てたような気がして、気持ちも高ぶったのだろう。なるべく手に取りやすいようにと、定価1,500円の本に500円くらいの値をつけて本棚に置いたら、すぐに売れた。数日経って、手持ち古本の価格設定について冷静に考えたり他人の意見を聞いたりする機会があり、ちょっと安く売りすぎたのではないかと、少し後悔した。最終的に読みたい人の手に渡ったのだから、結果はオーライなのだが。

 

「ねこはるすばん」。主人公の猫がとてつもなくキュートだ。人間には見えていないだけで、猫のまわりの世界は人間の想像以上に広いのかもしれない。人間と猫とでは枠組みがそもそも違うという可能性に、気づかせてくれる。

 

今日、久しぶりに行った妙典の本屋で何気なく絵本コーナーを見たら、手放したそれが目に入り、やっぱりこれは自分の本棚に必要だと思い、買った。ほくほくの気分のまま店を後にして、用事の前にもう少し時間があったので別の本屋にも立ち寄ったら、そこにもあった。しかも、発売1周年記念の書き下ろしmini絵本がついている。さっき買った本にはついてなかったのに・・・。これが書店の力関係の差なのか。

 

 

靴の修理

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修理に出していた靴が帰ってきた。送ったのが昨年末だったから、約2か月弱ぶりだ。ソールを交換したのはもちろん、かかとの内側のやぶれも補修してもらったので、まるで新品のようなきれいさ。使っていた分エイジング感があるから新品よりむしろフィット感がある。

 

こうして修理することで長く履ける靴に出会えるのは本当に嬉しいことだ。スーツの時以外は毎日このスニーカーで外を歩いている。初めて百貨店で出会って買った、その時の履き心地が良かったのがきっかけだ。靴と言えばこれ、というモノに出会えて良かった。

 

あと4足持っているこのスニーカー。それぞれが少しづつ劣化してきていて、これらも順次修理していかなければならない。最新のモデルも魅力的なのだけれど、古くなったらすぐ新しいものに替える、というのではなく、ちょっとづつでも、いまあるものを修理しながら使っていくことに、楽しさを見出したい。

 

so tender…

ここ最近、ラストのサビ直前の間奏の音が頭の中に鳴り響いている。美しい音だ。

 

自分にとって大切な、大好きなロックバンドは、休み休みゆっくりと活動していくものなのかもしれない。もう待つことに対する落胆だとか、そういう気持ちは起きなくなった。そういうものだ。むしろ、この休みがあるからこそ、いまでも最高の興奮をもらえているのだ。

 

歌うのがここまで辛そうなRYUICHIは初めて見た。この約2年間のツアーは苦しかったのだろうと想像する。もう急かしたりしませんから、どうかゆっくり休んでください。

 


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引越しを身軽に

大好きな雑誌「&プレミアム」のバックナンバーをパラパラと眺めていて、引越しの多い人生を送る人のヒストリーが目に留まり、読んだ。2~3年ごとに何らかの転機があって住居を替える生活を見ていると、身軽で本当にうらやましいなぁと思う。

 

私は昔から自分を定住志向だと思っていて、住む場所を変えるのにはそれなりの労力がかかるから、頻繁に引越すことへの躊躇があった。だから、そうならないようにという観点で住む家を選んできた。ただ、慎重に吟味してきたのかというとちょっと違う。これまでの引越しを振り返ると、数ある選択肢の中から厳選してここ、と決めるのではなく、ここしか考えられない、という住まいに自然とたどり着いた。そういう意味では、これまでの引越しにそれほどのストレスはなかったのかもしれない。

 

従前の家に対する未練は多かった。より良い暮らしになるからと思って引越したものの、残っても良かったのではないか、残っていればもっと楽しいことがあったのではないか、という考えもよぎった。大局的に見ると自分の引越しヒストリーを後悔したことはないけれど、もし引越さなかったら・・・という仮定で思うことはいろいろある。もし自分が住み替えに対するためらいが一切なく、遊牧民のようにその都度最適な住処を探して旅するように暮らす生活ができたら、もっと気楽に生きることができたのに、と思う。

 

雑誌に登場する人に共通するのは、状況の変化に応じて住まいを変えることに対するためらいのなさだ。仕事が変わった。体調を崩した。良い物件の紹介を受けた。手狭になった。さまざまな理由があるけれど、それらの状況を受け入れてかつ快適に暮らすための住み替えを、フットワーク軽く行っている。これが自分だったら、「いまの家に居続けるにはどう工夫するか」と考えるだろう。賃貸だったら敷金礼金だって引越し費用だってかかるし、住民票も移さなければならない。住み替えることによって生まれる作業・コストに目が行きがちだ。

 

ただ一方で、「そこを我慢して得られるものは本当か?」と問うことも大事だと最近気づいた。そこに居続けようとすることは、状況の変化による流れをせき止める行為ではないか、と。何か大事なものを得るチャンスを逃すことになるかもしれない。

 

どちらが良いかという絶対的な答えはなく、人によっても状況によっても違う。けれど、「住み続けることに価値があるんだ」と頑なになるのではなくて、サラっと移り住む心身の身軽さも必要だよな、と思った。

 

20220213

ジョギング。最近は1週間に一度くらいのペースになりつつある。でも普段から無理して続けようとしたら続かないから、まぁ良いペースなのかもしれない。

 

昼前に雨がぽつぽつと降り始めてきたので、本降りにならないうちに走り終える。相変わらず寒い。コース1周を走り終えて若干体が温まってきたくらいがちょうどよい。1周でバテてしまうのは仕方ない。気持ちよければ、それで良い。

 

コースのゴール地点にあるパン屋でクリームパンを買う。これを食べたらプラマイゼロじゃないか、なんて邪念はもう捨て去った。走った分、確実にプラスだ。

 

猛読

本を売る仕事をしているから、本を読むことのメリットをしゃべることはそれなりにできる。自分自身、こんな体験をしたよ、とか、こんないいことがあったよ、とか。だいたいが嬉しい出来事であったから、その出来事を他人と共有できるともっと嬉しい。それが本屋をやっている動機の一つとなっている。

 

一方で、本を読むことには栄養だけでなく、逆のもの、つまり「毒」もあると感じている。その毒に目をつぶっていたら、本当に楽しい読書はできないではないか。毒があることも知った上で、栄養をたっぷりと取り入れる。その姿勢が大事なのではないか。

 

例えば・・・本を読んで新しい知見を得る。それ自体は良いことだけれど、その知見は絶対に正しいと信じ込み、それを行動に移せば必ず成功すると疑わなかったらどうだろう。ちょっと冷静に考えたら「自分には適さない」と気づくようなことも、「この本に書かれていることは絶対に正しいんだ」と思うと気づけない。それだといわゆる「思考停止」になってしまう。インプットはしているけれど、その適切性を検証していない。それは時として、インプットしないことよりも危険だと思う。

 

本をたくさん読んで、「自分は博学だ」と慢心してしまうのも良くない。年間500冊とか1,000冊とか読むことを自慢する人がいるとして、それ自体にどんな優位性があるのだろう。読まない人に比べたら知識の量も多いだろうし、豊かな時間を過ごしているとは思うけれど、この世の中にあまたある本の例えば0.01%を読んだところでたかが知れている。だったら、何か縁があって自分に近づいてきた本を、繰り返しテキストを読んで、そらんじることができるくらいになった方がよっぽど楽しい。たくさん読むことが読書だと思う人にとって本は毒だと思う。

 

読む行為には時として毒がつきまとう。「猛毒」という側面を意識したうえで、夢中になって「猛読」する人間でありたい。

 

旅の終わり

店番をしている本屋で音楽を聴く。好きなCDを持ってきて、音楽をかけて良いというのが店番の特権だ。

 

かけたのはハンバート ハンバートのアルバム。先週とは違うものを。「旅の終わり」が特に好き。さっそく盛り上がるメロディに胸を高鳴らせる。

 


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歌詞カードを見たら違う原題が書いてあった。YouTubeの概要欄にはアイルランド民謡とある。美しいメロディだ。

 

カツ丼

好きなミュージシャンが好きな食べ物の話をしているのを聞くと、途端にそれを真似したくなるのだから、つくづく自分は単純で他人に流されやすいのだと思う。「カツ丼好きだよねー。日本全国のカツ丼を食べたいよね」と彼は言っていた。カツ丼を嫌いだという人はいないと思うけれど、でも「一番好きな食べ物」にノミネートしたことはこれまでなかった。本当に心から美味しいもの、と意識してこなかった。

 

昼ご飯に何を食べよう、と考えながら歩いていて、昨日はうどんを食べたから、今日は米にしよう、じゃぁカツ丼にしよう、と思い立って、イオンのフードコートでカツ丼を食べた。そりゃぁ美味いに決まっている。外れるわけがない。「好きな食べ物は何ですか」と聞かれたときの返事は、その時の気分や体調によって変わるかもしれないけれど、その選択肢の中に今日、カツ丼が加わった。好きなミュージシャンの影響は受けやすいタチだ。