珈琲の楽しみ方

珈琲を淹れて、飲む。

 

ゆっくり、本当に少しづつお湯を入れて、じっくり蒸らすようにつくるのがよい。そう思っていたけれど、よく行くカフェの店主にお湯を入れる時間を聞いたら、それほどゆっくりでなくて驚いた。何度のお湯を何ミリリットルくらい。その教えに忠実に、試してみる。

 

同じ豆でも、お湯の温度や淹れ方によって、味が変わるという。だから、同じ味の珈琲を複数回淹れられる自信がない。機械のように同じ動きで淹れたとしても、昨日と今日とでは焙煎してからの時間が違うのだから、味は違ってしまう。

 

だからなのか、淹れて、口にして、あ、今日のは苦いな、とか、今日のは酸味が強いな、とか、その違いに気づくなんてことは、ない。

 

昔は、インスタントコーヒーを好んで飲んでいた。お湯を入れるだけですぐつくれるし、それなりにおいしい。それこそ毎回同じ味だ。ずっと、ネスカフェのエクセラだけがぶがぶ飲んでいて、それでは能がないから、そろそろ違うものにしてみよう。そう思って、ちょっとパッケージがカッコいい香味焙煎にしてみたり。それくらいの違いを楽しむ工夫はしていたけれど、本当に味わっていたかと聞かれると疑わしい。

 

だからその反動なのか、いまは時間をかけて淹れたコーヒーに、味以上の贅沢を感じる。ちょっと手間をかけて、自分が淹れたんだ。そういう能動的行為の結果が目の前にあって、それを味わうのだから、何も考えずにがぶっと飲み干してしまうのはもったいない。きっとそういうことなんだろう。

 

どこの産地の豆が好みで、どこの産地はそうでもないか、そういうことはあまり問題じゃない。正直、どうでもいい。ちょっと前に飲んだノルウェーの珈琲は自分には酸味が強くて、あまり好みでないかな、と思ったのがせいぜいだ。

 

好きだと思える珈琲が飲めるカフェに出会えたし、そこで豆を買えば家でもおいしい珈琲が飲める。それよりも、珈琲を飲む時間をさらに有意義にしてくれる、「手間をかけて淹れるという行為」そのものを楽しむことを、習慣にしたい。

 

 

鬼は逃げる

今日が今年最後の営業日だと知り、自宅近くの本屋に立ち寄った。今年、脅威が社会を覆う真っ只中に誕生したこの本屋さんに、自分は何度も救われた。身近にこういうセレクト本屋があることが暮らしに潤いを与えてくれることに、驚いた。まさかそんな暮らしができるとは思わなかった。

 

今年1月に参加したワークショップ(※)でお会いした詩人のウチダゴウさんの詩集を手に取った。「みせのなまえをかんがえる」をテーマとしたそのワークショップでは、「未来の自分が言って恥ずかしくなるようなことばにしない」「高すぎる目標を示唆することばにしない」など、ことばを選ぶ際の注意事項を学んだ。そのときのウチダゴウさんの、ゆっくりと朗読したときの感情の起伏を、思い出しながら読んでいる。どうやって読んだら、この言葉が自分の身体の中の空間にすっぽりとはまるだろうか、と考えながら読んでいる。

 

あのワークショップから、もうすぐ1年なのか。あのとき考えた「みせのなまえ」は、いまも机の目の前に貼ってある。その名前のお店を、夢物語でなく、本当に実現させてやろうと、割と真剣に考えている。同時に、こうして本を読むことで心がちょっと潤ったストーリーを、他人に伝え、共有する、そんな営みのことを。

 

鬼は逃げる

鬼は逃げる

 

 

(※) 

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大人のOB訪問

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管理組合のサポートをしているコーポラティブハウスの臨時総会に出席した後、仙川へ。用を済ませた後、つつじが丘駅にある啓文堂書店に立ち寄った。小さい書房のフェアがあるというのでチラ見する。

 

小さい書房の本にはお気に入りが多く、いわゆる一人出版社というものの存在を意識したのも、この出版社が最初だと思う。いまは一人で出版社を運営するといってもそう珍しいことではないのかもしれないけれど、たくさんの社員を抱える大手出版社が多数あるなかで一人出版社が成立しているという事実は、もっと自由な仕事への取り組み方があるのだという勇気を与えてくれる。

 

並んだ本を眺めながら、まだ読んでいない数冊を手に取ってパラパラとページをめくる。「大人のOB訪問」さまざまな仕事をしている人目線での社会が描かれていて、特に配達員のツラい現状が目に留まり、思わずレジに運んだ。

 

他人の仕事を通して知る社会。他人の仕事を通して知る他人の生き方。自分の生き方と比較しては、自分はこうあらねばならないぞと背中を叩く。いつも、他人の生き方と比べて、このままでいいんだと安心したり、このままじゃいけないと軌道修正したりを繰り返している。

 

大人のOB訪問

大人のOB訪問

  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

大人のOB訪問 第2巻

大人のOB訪問 第2巻

  • 発売日: 2018/10/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

自分を導いた「何か大いなるもの」

休日。誰もいない部屋で、特にああしようこうしようと決めない、無為な時間を過ごす。仕事に精を出すことも大事なのだろうけれど、自分はどうやらそこまで頑張れないようだ。やらなきゃと思うことはある。自分がやらなければ、結果として不利益を被るクライアントがいて、自分も後悔する。だから、多少身体は悲鳴をあげていても、動く。そういう日もある。でも、当然そうでない日も、ある。今日がまさにそういう日のようだ。仕事はする。けれど、どうしてもそうできない日もあるということを、まず自分が自分に対して認めてあげたい。

 

自由が丘に引っ越してきて、8か月が経った。年末になればだいぶ落ち着くだろうと思っていたけれど、バイオリズムのようにその波はまたやってきて、社会を混乱させている。誰の言葉を信じて、誰の言葉に従ったら、他人に会ったり移動したりすることに罪悪感を覚えるような事態から抜け出せるのか。この際「思考停止だ」なんて聞き飽きたような言葉で罵倒されたっていいから、誰かに確固たる「正解」を導き出して教えてほしい。でもこうして思考停止の波も広がっていく。

 

高校時代。自分は絶対に大学には行かないと決めていた。行って卒業するまで勉強を続ける学力がないかもしれないと思っていたし、行って卒業するまで勉強を続ける気力は絶対にないと思っていた。それが、行くことになった。結果、後悔はしていないけれど、当時の自分の気持ちを正確に表すとすれば、「まわりの友達、皆が大学に行くと言うし、高校全体が『当然行くでしょ?』という空気で、その空気に飲み込まれた」という感じだ。地元で割と進学校であったことは入学する前から知っていただろうに。

 

その空気に飲み込まれた結果、大学を有意義に過ごし、勉強をして、仲間も得て、卒業して、就職して、いま仕事を続けている。いまの自分の状況は、たぶん大学に行って勉強していなかったらなかっただろう。ということは、いまの自分の仕事、いまの自分の人生は、自分が積極的に選んだのではなく、環境という海を泳いだ結果たどり着いたに過ぎないということだ。それにしても・・・高校時代の自分を飲み込んだ空気をつくり出したのは誰?

 

自分の人生は、自分が「こうしたい」という希望に沿って自分で選ぶものだ。他人の言うことに従うのではなくて、自分で考えて自分で決めるものだ。確かにその通りなのだけれど、そう考え続ける限り、「もしかしたら自分の意志以外の、何か大いなるものによって誘導されているのかもしれない」ということに気づかない。いまの自分は、過去に起きた「何か大いなるものによる波」に乗ったことでできている。そう気づけた瞬間、何も躍起になって自分の道を模索しようとしなくていいんじゃないか、と気が楽になったと同時に、その「何か大いなるもの」の正体は何かを考えることが、「思考停止」から脱却する術なんじゃないかと思った。

本を売る側のハードル

「ふだんは建築会社、週末のみ本屋を開く」というネット記事を見て、楽天の卸売サービスのことを知った。

 

foyerbook.wixsite.com

 

本屋が新刊を取り寄せるには「取次」と呼ばれる業者と契約を結ぶ必要がある。そしてそこには、高額な保証金やノルマが必要だったり、と決して低くないハードルがあった。

 

この「ホワイエ」というサービスでは、新刊1冊からでも取り寄せることができて、保証金もかからない。本屋に限らず、極端に言うと世のすべての小売店(カフェでも雑貨屋でも文房具屋でも花屋でも)で少ない冊数から本を扱うことができる。

 

本屋が少なくっているとか、書籍が売れなくなっているとか、そういう問題を考えるときに、店側が本を売るためのハードルが低くなれば、いろいろなところで本を手に取ることができるのではないか。そういう視点での取り組みを今日知り、感銘を受けた。そういう仕組みがあったのか!

 

売り手側に足かせがあったのでは、それは衰退してしまうのもやむを得ない。しかし、こういう前向きな取り組みがあれば、きっと気軽に(極端な話、自分でも、すぐにでも)本を売るという行為ができるようになる。「本は本屋で買う」と視野を狭めるのではなくて、いろんなお店で本を見て、買う、ということが当たり前になったらいいなぁ。

 

ポストコロナ期を生きる

しばらくサボっていたジョギングを。尊敬する松浦弥太郎さんに影響を受けて「毎朝少しづつでもジョギングをしよう」と思うものの、ここ2週間ほどは眠さ、気だるさに我慢できず、二度寝をしてしまった。走りはじめてしまえば、爽快感が身体を包んでくれるのは分かっているし、どんなにゆっくり寝ていても必ず起きなければならない瞬間は訪れて、その瞬間には、あぁ二度寝なんてしなければよかったと後悔することも分かっている。走ることによるメリットはいくらでも挙げられ、走らないことによるデメリットもまた同じように挙げられるのに、どうしたものか。自分の身体は自分にとってメリットが大きい方の行動をとるようにできているのだとすると、結局のところ「寒い中を走り始めることによる苦痛」が「走ることによる快感」を上回るのだろう。そればかりは身体がそう思っているのだから仕方がない。地道に、少しづつ習慣にしていこうと覚悟を決め、週末で時間のある日曜日、久しぶりにシューズを履いた。

 

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

  • 作者:弥太郎, 松浦
  • 発売日: 2017/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

とにかく30分は走り続けよう、そう決めて走り出した道中。自分のこと、これからの仕事のことなどを、苦しさを紛らわせながら考える。

 

 

内田樹編「ポストコロナ期を生きるきみたちへ」をいま読んでいる。主に中学生高校生を想定読者として、この時期と、これからの時期をどう生きるべきかを教えるテキストが並ぶ。まだ途中であるが、読んで印象に残っているのが、後藤正文と山崎雅弘の文章だ。

 

後藤正文は言わずと知れたASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカルだ。大学時代に大学近くのTSUTAYAでよく「遥か彼方」がかかっていて、Bメロのスタッカートの効いたギターフレーズに心躍ったのを覚えている。多感な時期に音楽のかっこよさを教えてくれた立役者の一人だ。その彼が「芸術、アートというのは、特定の才能を持った一部の天才だけが表現できるものでは決してなく、誰もが自信をもって表現できるものだと思う」と言ってくれる。のめりこむようなものがなく、自分には何か価値のあるものを創造する能力がないのだとあきらめていた自分にとって、こんな希望のある言葉はないだろう。例えば自分は中学時代、技術の授業が大好きで、特に木材加工は大好きだったではないか。大工という仕事に憧れて、木を切ったり鉋で削ったりしてモノをつくることが、こんなに楽しいのかと驚いたではないか。その時につくったラックや椅子は、それは子供が授業でつくったものに過ぎず、ため息がでるくらい低品質であったけれど、つくっているときの楽しさ、熱中具合は、いまの自分も学ぶべきだと伝えてくれる。

 

趣味でもいいから、なにかモノをつくりたい。楽しく、自分で作品をつくりたい。最近はそう考えている。それが具体的に何なのか、よく分からないけれど、手作り作家さんが丹精込めてモノに命を吹き込むように、自分も熱中して何かモノをつくるという行為を、中学時代の授業までで終わらせずに再開させたい。

 

戦史・紛争史研究家の山崎雅弘は、これからを生きる上で「自分の頭で考えること」の重要性を説く。新型コロナウイルスの蔓延によって、主導者でさえ「どうすることが正解か」が分からないような問題があることや、頼りになるリーダーも判断を誤るということが、明らかになった。そんなときに、リーダーの言うことを無条件に飲み込んで従うのではなくて、自分で考えて違うと思ったら反抗することも大事だと言う。分かりきったただ一つの正解があるような問題ではないのだから、「不正解」を選んでしまったこと自体を責めても仕方ない。それよりも、自分だったらどうすべきだと思うか、という主体的な考えを持つことが大事である。学校で教えてくれる「正解を導くまでの過程」ではなく、「正解がない問題(もしくは誰も正解が分からない問題)を考える過程」が大切だということが、今回の危機によって明確になった。

 

自分は、ちゃんと自分の頭で考えているだろうか。政府の考えを批判するだけで建設的な代替案を示さない意見に「ただ言ってるだけじゃないか。政府だってちゃんと考えてやってるじゃないか」と無条件に受け入れてはいないか。「まず批判ありき」の考えは好きではないけれど、「政府はちゃんとやっているはず」という過度な期待は、避けるべきだ。どんなに自信満々に言っているように見えても、「どうしていいか本当は分からないけれど分かっているふりをしている」のかもしれない。でも、誰も正解が分からないような初めての出来事が起きていることは確かだ。だから、〇〇が言っていることが正解だ、と周りの意見に飲み込まれるのではなくて、本当に正解かどうかを自身で検証すること、もしくは検証しようとする態度を持ち続けることが、いまの自分に必要だと思った。

 

 

 

早いうちにふくらはぎの痛みに襲われて、想像を上回るほどのペースダウン。でもしばらくサボっていたツケを清算し、必ず30分間走ると決めたので、多少はムリしようと走り続ける。駒沢公園を一周し、帰るころには痛みや苦しさはピークを超えて、ランナーズハイに。これでまた筋肉痛が現れて苦労するんだろう。だから少しづつでも、毎日走らなきゃダメなんだ。

 

本を抱えて会いにいく

自宅近くのお気に入りの本屋で、今日も1冊本を買う。「本を抱えて会いにいく」シンプルなつくりのこの本、ページをパラパラとめくってみると、そこに著者の生々しいくらいの正直さがにじみ出ていることが、なんとなくだけれど分かる。「音楽のことはずっとすきだ」「職種は営業。学生時代、ぼんやりと考えている中でこれだけは嫌だと感じていたものだった」気づいたら手に取ってレジに向かっていた。自分のことを覚えてくれた店主と目が合う。「お、今日はこの本ですか。お目が高い」そう思われていることを期待しつつ、自分が手に取る本に自分は何を期待しているのだろうかと考えた。

 

読みながら、そうそう、こういう言葉のリズムが心地良いの、と膝を叩くような瞬間に遭遇すること。そして、自分もこういう文章を書きたいという欲望を掻き立ててくれること。さらに、自分がこういう文章を書いて表現することのハードルは、実は思うほど高くなくて、勝手に「高レベルな検閲を経てつくられる崇高なる文章」というイメージを自分に植え付けているに過ぎないのだと教えてくれること。これが、私が傍らに置きたいと思う本に求めることなんだ。今日、そのことに気づいた。

 

「本を抱えて会いに行く」橋本亮二 十七時退勤社

 

 

どの本を買うかももちろん重要だけれど、どこの本屋で買うかも同じくらい重要なこと。そのことを、身近な人から聞いて知った。大型書店で気になる作家の新しい絵本を偶然見つけ、てっきりそこで買うのかと思ったら、「〇〇で売ってるだろうからそこで買いたい。だからいまは買わない」と言う。大型書店での、目の前にあるそれはサイン本。サイン本は確かに欲しいけれど、でもそれ以上に、大型書店ではなく、選りすぐりの絵本を扱う小さな本屋で買いたいのだとか。大型書店が悪いとかそういうことではなく(大型書店だからこその醍醐味だってある(※))、それが好きな本屋との付き合い方なのだろう。

 

彼女にとってのその本屋は、先に書いた自宅近くの私のお気に入りの本屋。気に入った絵本を買うならこの本屋で。そうすることで、好きな本屋を買い支えたい。自分以外の誰かでさえそう思うような立派な本屋さんが、身近にあってよかった。扉を開け、店主と目が合う瞬間を想像しながら、これって実はすごい幸せなことなんじゃないか、と思う。

 

(※)

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大型書店に感じる壮大さ

昼間、少し仕事で小石川へ。帰りにメトロエム後楽園にある本屋に立ち寄る。仕事でもプライベートでも、後楽園に来たときはちょっとでも寄り道したい本屋だ。

 

松浦弥太郎さんの新刊をさっそく買う。日常のささいな出来事や、自分なりの小さなルールの中にも、しあわせを感じられる要素はたくさんあるのだということに気づいた。その小さなしあわせを少しづつでも多くしていくことが、心にゆとりを持たせて、成熟した大人になるために必要なのだと思う。

 

なくなったら困る100のしあわせ

なくなったら困る100のしあわせ

  • 作者:松浦弥太郎
  • 発売日: 2020/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

あと気になっていた猫の本を。猫ありきの、猫に翻弄される生活。悪くない。うらやましい。

 

猫のいる家に帰りたい

猫のいる家に帰りたい

  • 作者:仁尾 智
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

そのあと思い立って大手町の丸善に、町田尚子さんの原画展を見に。「ねこはるすばん」の原画は絵本で見るそれをはるかに上回る迫力で、登場する猫の可愛さも2倍増し。おとなしく留守番しているかと思いきや・・・そんな猫の自由な行動に自分も翻弄されたい、と思う。

 

そのまま3階フロアの文庫新書コーナー、建築専門書コーナーを巡ったところでバテバテになった。一通り棚を眺めようと思っても一日はかかりそうな広さ。たいていは見きれずに終わる。しかし、普段よく行く本屋では絶対に置いていないだろうという本がたくさんあって、思いがけない発見ができる。これが大型書店の醍醐味だ。小さな本屋には小さな本屋ならではの宇宙があって好きなのだけれど、この壮大なスケール感は、大型書店でしか味わえない。

 

ずっと気になっていた文庫と、初めて見る建築の本を買った。建築家による美しい和風住宅の工夫を読む。日本において、暮らしを包み込む器たる住宅の事例を見ながら、自分にとっての暮らしのポリシーとは何だろうか、と考える。

 

メトロエム後楽園の本屋も丸善だと気づいたのは、ついさっきだ。どうせ自分ひとり本を買わなくたって十分に経営は成り立つんだろう。それよりは、一冊一冊を丁寧に売る本屋を買い支えたい。なんて思ったりもするけれど、やっぱり自分には大型書店も必要なのだ。

 

和MODERN 12 窓と、住まう。

和MODERN 12 窓と、住まう。

 

  

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

  • 作者:西村 佳哲
  • 発売日: 2009/02/01
  • メディア: 文庫
 

 

浦安でマヨネーズを買う

美容院に行くために妙典へ。その帰り、浦安にある好きなお店に立ち寄った。目的はマヨネーズを買うこと。このお店で知ったマヨネーズがおいしくて、このお店ではマヨネーズを買うとだいたい決めている。自由が丘に引っ越してから、自宅近くのセレクトショップでも扱っていることを知り、これでなくなったらすぐ買うことができる!と喜んだのもつかの間、品切れたのか商品替えなのかよくわからないけれど、最近お店から消えてしまった。このマヨネーズに飢えていたところだったので、せっかくだから買いに行こうということで、久しぶりに浦安の街を歩いた。

 

instagramの投稿を眺めては、店主がお客さんに愛されているお店ってこういうお店のことを言うんだな、と思っていたけれど、今日その愛される理由がなんとなく分かった気がした。お店に入って目的のマヨネーズがあることに安堵し、マヨネーズと、あとそれだけじゃ物足りないからとちょっとお菓子も手に取り、買った。店主に、このマヨネーズお好きなんですか?と聞かれたので、はい、と語気強めにこのマヨネーズのファンであることを伝える。少し前、緊急事態宣言中だったか、その時はオンラインショップでマヨネーズを買ったことなどを話すと、注文したことを覚えていたらしい。さりげなく名前をきく自然な会話の流れ。マスクで口元は隠れていても、細めた目からはちきれんばかりの満面の笑みがうかがえる。来ていただいてありがとうございます。その感謝の言葉を、そのまま返したいとすら思う。

 

ネットショップでも取り扱ってます。わざわざ来なくてもネット上で買えるようになってます。それでもお店に来て買う理由って何ですか。ないとは思うけれど、もしそう聞かれることがあったら、照れずに、こうこたえたい。直接来て買わないと、覚えてもらえないじゃないですか。そのお店が好きであると同時に、そのお店から好かれたいじゃないですか、と。

 

urayasumarkets.net

自分の体と健康に目を向ける

自分にとって健康とは何かということを、深く考えるきっかけになった一冊に出会った。

 

ここで「出会った」と言うと、本屋で手に取ってピンと来て思わず買ってしまった、というような姿を想像するかもしれないけれど、正確にはそうではない。少し前に新刊で買った美しい装丁の本を読み終わらないうちに、その本には前作があることを知り、その前作が同じく美しい装丁で、迷わず買って2冊の「モノとしての本」を味わいながら本棚に置いてしばらくが経った。ふと気になった読み始めたら、自分の体に敬意を抱き、声に耳を傾けようと思うようになった。序章を読んだだけで、これは自分にとっての数少ない一生大事な本になるだろうという予感がした。こんなことは、そうない。

 

生まれた時から与えられた心や体に最大限の敬意を払いながら、その人にとっての調和を、人生というプロセスの中で実現していくこと。そういう考え方のほうが、より長期的な視点に立った体の見方ではないかと次第に思うようになっていった。

 

人間の体は、調和と不調和の間を行ったり来たりしながら、常に変化する場なのだ。全体のバランスを取りながら、その根底に働く「調和の力」を信じ、体の中の未知なる深い泉から「いのちの力」を引き出す必要がある。それが、人の「全体性を取り戻す」ことにほかならない。

 

すぐれた芸術は医療であり、すぐれた医療は芸術である。

 

自分の体が発する不調の声を感じずに日々を過ごせる状態。私は自分にとっての健康をこう定義する。

 

これまでを振り返って、自分が最も健康だったと思うのは、中学高校時代だろう。部活で剣道に勤しんでいるときは特に。毎朝早く起きるのも苦痛でなかったし、毎朝朝食をとって、同じ時間に家を出て、中学時代は20分、高校時代は40分、自転車をこいで学校へ行くのに「面倒くささ」を一切感じなかったと思う。体調も良く、風邪をひいて休むことなんて年に1回あるかないかだったのではないか。体の声に耳を傾けようという意識がまるでなかったから、たぶん体が自分に悲鳴をあげることがなかったのだと思う。

 

そのかわり、高校3年で部活動を辞めて以降は最悪だった。運動能力の衰えが分かりやすいくらいに感じられた。大学に入って食生活が乱れてからは朝食をとることが億劫になり、やがて食べないことが当たり前になる。空腹で昼にドカ食いする社会人営業マンは「昼に何を食べようか」が一日の最大の関心事である一方、食後は眠く、体は重く、仕事の効率は明らかに悪かった。

 

そしていま、なかば習慣になりつつあるストレスにも「まぁそういうもんだ」と半分開き直りながら向き合い、仕事をしている。やりがいは、ある。自分の果たすべき役割も、ある。けれど心から健康かと言えるかと聞かれると、違う気がする。体は声をあげている。その声を抑えるために自分がどう働いたら良いのか、正解はまだ分からないけれど、この本を時間をかけて読むことで、自分の体を心から尊敬する姿勢が身について、おのずと健康に向かうための選択肢を選べるようになれるんじゃないかと思う。

 

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—

いのちを呼びさますもの —ひとのこころとからだ—

  • 作者:稲葉俊郎
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本
 

 

いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―

いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―

  • 作者:稲葉俊郎
  • 発売日: 2020/07/02
  • メディア: 単行本
 

 

適切な世界の適切ならざる私

連休最終日。せっかくの休みを有意義に使おうと、ふと思い立ってDIYで本棚をつくった。つくったといっても、コンクリートブロックと板を近くのホームセンターで買って、積んだだけだ。DIYと言えないくらいのDIYだ。ドライエリアに置く本棚なので、外部用塗装は必要だろうということで、キシラデコールを塗ったのがせいぜいの日曜大工的作業だった。おおざっぱだし、においは立ち込めるし、すぐは乾かないし、あたふたしながらだったけれど、でも一応は形になったと思う。コンクリート壁にコンクリートブロックが映えて、ほどよい粗さのある本棚になったと思っている。

 

部屋のなかの本棚が本でいっぱいになっていき、本を買うのを控えていま手元にある本を読むことに時間を割こうと思って1~2週間がたつ。それはそれで大切なのだけれど、今日こうして本棚を新しくつくってしまったら、本を収容できるキャパシティがさらに広がった気がして、またさらに新刊の購買意欲が増してきてしまった。結果、夜ご飯を食べた後近くの本屋を2件はしごし、また何冊か買ってしまった。本を買うことに対する心理的ハードルの高低は、本棚に置くことができる量に左右されるのだ。

 

以前、トークイベントで会い、新刊を買い、サインまでしてもらった(※)、女性詩人の文庫があったので手に取った。どこか浮世離れしたような雰囲気を感じさせながらも、それを堂々とひけらかすのではなく、そこに恥ずかしさを感じながらも自身をきちんと受けとめたうえで丁寧に言葉を生み出していく。コンプレックスを感じているのかと思いきや、言葉で自らを表現するということについては堂々としている。すごい華奢な感じの方なのではというのは私の勝手な想像で、その裏腹、強くて美しい方なんだろうなとも思う。

 

確かに私は飛べず踊れずの一少女。だが、ひとたび活字の海に身をまかせれば、水をふるわせ、踊る。それこそ足になろう、ふくらはぎになろう、五本指の貝殻で踏みしめよう、指のさきまでことばとなろう。まなざしの四肢を引き寄せて、共に舞う。ロンドだ。

 

言葉を生み出して、それを読んだほかの人が何かを感じてくれるかもしれない。そういう言葉の力を、言葉を絞り出すという行為の尊さを、もっと自分は信じて良いのではないかと、彼女の言葉を読んでいると思う。

 

適切な世界の適切ならざる私 (ちくま文庫)

適切な世界の適切ならざる私 (ちくま文庫)

 

 

(※) 

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イワンの馬鹿

「お金から自由になろう」「お金にしばられるな」そういう言葉をいまはよく聞く。たいていそういうことは「お金をたくさん持っているであろう(稼いでいるように見える)」人が言うものだから、これまであまり真剣に受けてめていなかった。それができたら苦労はしない。たくさん稼いでいる人が言ったって説得力ないでしょう、というよいうに。

 

しかし、言っていることの意味は、分かる。「〇〇したいけれど、お金がないからできない」というのは、できない自分を慰める言い訳にすぎなくなっている。お金をそれほどかけずに食べること、移動すること、居住することは、いまは「他人と共有する」ことで簡単にできるようになった。また、お金をかけるのだけれど、自己資金ではなく他人に借りる、という選択肢も、クラウドファンディングによって可能になった。物的な担保を提供するのではなく、情熱を示して信用を得ることで他人にサポートしてもらうことが、いまではポピュラーな手法になった。お金が足りないという事実を免罪符にして、実行できない自分を甘やかすのはもうやめましょうよ、と言われたら、そうだよねと納得できる。

 

 

「イワンの馬鹿」を読んで、「お金」の有無は生きていく上での豊かさとは無関係なのだろうということを改めて感じた。トルストイの名作を、アノニマ・スタジオの美しい装丁の本で味わう。絵本作家のハンス・フィッシャーによる挿画もきれい。お金そのものに絶対的な価値があるのではなくて、ある人にとっては不要なものになりうるのだということがよく分かる。お金の価値は、お金以外の価値あるものと交換することができることにこそある、ということが良くわかる。手にたこをつくって、自らの手でつくり出すことの尊さを、かみしめることができた気がした。

 

イワンの馬鹿

イワンの馬鹿

 

 

再開

朝、事務所に行く前に時間があるのだから、走ることを習慣にしよう。そう思って走り出したのが数か月前。しかしそれも三日坊主で長くは続かず、結局は起きては二度寝を繰り返していた。それじゃまずいと思い、ジョギングを再開したのが、昨日。距離こそ短いけれど、続けることが大事だからと自分に言い聞かせる。

 

きっかけは、子供のころから好きで読んでいた格闘漫画「バキ」だ。「グラップラー刃牙」の後半、地下闘技場トーナメントあたりから、「バキ」の最凶死刑囚篇あたりまで、本当に繰り返し読んでいた。愚地独歩に憧れ、花山薫に憧れ、渋川剛気に憧れ、烈海王に憧れた。強さとは何か?を教えてくれたバキを最近読み返し、ふと目に留まったのが、21世紀に宮本武蔵がよみがえる、その彼の鼓動を感じた愚地克己が、独歩が、オリバが、鎬昴昇が、紅葉が、本部以蔵が、それぞれに特訓を始めるというシーン。事前に危機を察知するまでに武を極めた渋川までもが、何かを予感している。強い男の象徴である彼らが何かを察知して、身体を酷使していないと胸騒ぎが収まらない。そんな状況の描写を見て、身体を動かすことによる快感をよく知っているのに、身体を動かしたあとの一日がより楽しく、快適で、頭も(勘違いかもしれないけれど)よく働くということをよく知っているのに、それでも「面倒くさい」の一言で片づけてしまう自分が情けなくて、それじゃだめだろう、と強く思った。そして、身体を動かした。昨日今日と二日間走り、快感がまた身体に戻ってきたのを感じた。「バキ」のおかげだ。

 

走りながら、自分は武神・愚地独歩だ。出来損ないの養子だけれど天才、愚地克己だ。そうやって憧れを頭に強くイメージしながら、走る。そうありたいと願いながら。これが続けるためのモチベーションになれば。

 

 

積読しないように

本を読むのが好きと言うよりも、本屋で本を買うことが好きなのかもしれない。最近は特にそう感じる。

 

手元にある本のほとんどは読み終わっていなくて、大半の本はちょっと読んだだけで、一部の本はまだ開いてすらいない。そんな付き合い方もあるだろう、それも読書だ、なんて悠長に考えていたけれど、さすがに「ただそこにあるだけ」の本がたまってくると、そうは言っていられない。無理にとは言わないけれど、買った以上は読まなければ。しばらくは、新しい本を買うよりも手元にある本を読むことに時間を費やそうと思う。

 

本を買うことに関してはリミッターを解除していて、気になったらとりあえず買おうと決めている。けれど、いまはちょっとセーブして、気になって手に取ったものの本棚に置いたままになっている本を、味わいたい。

 

「積読」なんてもったいないこと、しないよ自分は、と昔は思っていたのに、いままさにそれをしていることに気づいた。次から次へと新しい本に手をのばす時期と、手にした本をじっくり読む時期。たぶんそれが交互にやってくる。そういうバイオリズムのようなものがあるのだろう。

赤飯の記憶

赤飯は自分にとってごちそうだ。普段なんでもないときに、ただ食べたいからという理由で食べられるものではない。特別な時に、特別な理由をつけて、満を持して食べるものだ。そう思っていた。それが最近は、ふと思い立った時に気兼ねなく食べられるものに変わった。ちなみにここには、コンビニで買える赤飯おにぎりは含まれない。あれはあれで好きだけれど。

 

よく聞かれる「好きな食べ物は?」という質問に「赤飯です!」と答えていたのを、よく覚えているのが高校時代。自己紹介で珍回答をしてクラスメイトの心をかっさらおうと目論んでいた、下心まるだしの高校時代だ。でも実際にカレーやラーメンなどの定番を差し置いて赤飯をおいしいと思っていたのは、それよりもっと小さいころ、実家近くの夏祭りだっただろうか、公園で炊いたアツアツの赤飯を掌にのせてもらい、豪快にかぶりついて食べた記憶があるからだ。茶碗と箸で食べるのと比べると野蛮でワイルド、今だと不衛生だとつい思ってしまうけれど、子供のころはあれが夏祭りを彩る一大イベントだった。

 

赤飯を買えるお店が、自宅の近くにあってよかった。心からそう思える。事務所近くに引っ越す前から、駅から事務所まで歩く途中にある「蜂の家」で赤飯を扱っていることは知っていた。ここの赤飯もおいしい。引っ越したあと、つい最近知ったのが、自由が丘ひかり街にある「大文字」。ここの赤飯も本当においしい。ささげの豆感が強くて、あぁ、赤飯を食べているんだ、という充足感で満たされる。

 

赤飯がふだんの食べものになったことで、子供のころの「特別なイベントの時に食べる特別なもの」という感動はなくなってしまったのかもしれない。けれど、心の満足を与えてくれる食べ物に出会う、重要なきっかけとなる思い出であることは間違いない。

 

たべるたのしみ

たべるたのしみ