呼吸する本

「呼吸」をテーマとした本屋。息を吸って吐くような、特別でない読書をすすめる本屋。そんな「読み手」目線での呼吸の他に、もう一つの視点がある。それが、本の視点。

 

 

自宅の壁面本棚が徐々に本で埋まっていくのを見ていると、もしもっと本が増えていって、本棚が足りなくなったらどうしよう、という不安が当然やってくる。一番自然なのは本棚を増設することだけれど、せっかくの光を取り込む吹抜、不用意に本棚を増やして空間を埋めるようなことはなるべくしたくない。

 

次に考えるのは、本棚はもうこれ以上増やさないと先に決めてしまって、その中で本を増やしたり減らしたりする、というもの。新しく増える分、読まなくなった本は手放すから、フロー型の蔵書になる。それも良いのだけれど、だんだん手放して良いと思える本が少なくなってくる一方、新しい本はどんどん増える。結果、器を先に決めてしまうというのにも限界がありそう。

 

頭の中のさまざまな妄想を経てたどり着いたのが、ドライエリア(地下住戸なのでバルコニーではなくドライエリア)に本棚を置くというもの。つまり、屋外本棚。材質は無垢の木ではなくスチールか?それともウッドデッキで使うようなハードウッドか?いずれにしても、本を置く場所を部屋の中に限定するからいけないのだ、と気づいた瞬間、視界が開けたような快感を覚えた。

 

 

本は紙でできているから、雨が降れば当然濡れて、ふにゃふにゃになるかもしれない(自宅のドライエリアは半分は上階のスラブが屋根になっているので、直接雨がかかるわけではないが)。雨でなくても、湿気が多ければ変形もする。本にとって水は大敵、というのが常識だと思っていたけれど、いや別にそれでもいいんじゃないの?と思いさえすれば、何の問題もないじゃないかと気づいた。普段風呂で湯船につかりながら、手で表紙を多少濡らしながらも本を読んでいるじゃないか、だいたい。

 

 

理想の本屋がある。アメリカはオハイにある「バーツブックス」。一軒家のこの本屋は、パラソルの下に本棚があるなど、完全に外気に触れた屋外本屋。「オハイの雨はまっすぐに落ちるので、決して本は濡れないの」という店番の言葉からは潔さがにじみ出ている。閉店中もコインを壁の穴にいれれば本を取ることができるという、無人直売所のようなしくみ。こういう信用によって成り立っているところにも、憧れる。

 

世界で最も美しい書店

世界で最も美しい書店

  • 作者:清水 玲奈
  • 発売日: 2013/02/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

外気に触れて、本がふやける。紙は反れ、変色するかもしれない。しかしそれを、本の「呼吸」だと思えば、さらに本に愛着を感じることができないだろうか。本の呼吸を可視化した本屋。もしそんな本屋があったら、行ってみたいと思う。

 

本屋 呼吸

いつか本屋をやりたい。そんなささやかな夢がある。といっても、四六時中本を読んでいるようないわゆる「本の虫」ではなく、当たり前のように難しい本も読めるような人間ではない自分がやるのだから、「こんなに良い本がありますよ、だからぜひ読んでくださいな」と他人に読書をおしつけるようなことはしたくない。読んでほしいけれど、自分自身はそれほど読むわけではない。そんな矛盾した気持ちを抱えながら、でももし自分がこれまで体験した楽しかったこと、感動したこと、興奮したことなどを他人に伝えることができるのなら。自分の正直な想いを本を通して届けたいと思う。

 

すでに世の中にはさまざまな面白い本屋さんがたくさんある。だからいまさら、自分が新しい何かを発信できるとはとうてい思えない。品ぞろえに関しては特に何の変哲もないけれど、自宅近くにあって敷居も低く、気軽に入れる本屋もあれば、たまに行ってみたいと思うような荘厳な本屋もある。今日久しぶりに顔を出した大好きな本屋さんは、明日で実店舗を閉めるのだそう。しかし店主は新たなチャレンジをしようとしている。読書の楽しさを伝えることが目的であるならば、店舗を持ってお客さんを待つ、という従来の本屋の形にとらわれる必要はない。売らなくたっていい。貸したっていいし、シェアしたっていい。そのステージはネットだっていいし、移動式だっていい。とにかくその方法はたくさんある。

 

自分が本屋をやるならば、それを通して何を伝えたいか。そう考えた時に、キーワードがすっと頭に浮かんだ。「呼吸」だ。人間が息を吸って吐くのと同じように、無意識に、当たり前のように本を読むライフスタイルを、一人でも多くの人と共有したい。「私は読書家です」なんて自慢したくはない。どんなに頑張って本を読んでも、それよりもっとたくさん読んでいる人は世の中にたくさんいる。そもそも、本を読むことは「頑張ってすること」ではない。小学生の時、「読書の時間」があって本を読むことを強制されたことがあった。その時の嫌な思い出が残ってしまうと、読書は苦痛でしかない。そうじゃなくて、無理に読むものではないんだよ。本当に読みたいと思ったら、人から「もういいよ、そろそろやめたほうがいいよ」と言われたって読むでしょ。それが読書でしょう。と、いまなら言える。そんな呼吸するような読書をすすめる本屋が、あったらいいなぁ。

 

Z:蔵書票 -zoshohyo-

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蔵書票を、つくった。自分が手にする本との付き合い方を深く考えるきっかけとなる出会いだった。3年前の話だ。

 

一筆箋やポストカード、封緘紙に包み紙など。たくさんの紙文具をつくる作家「久奈屋」を知ったのは、4年前の夏ごろ。味のある絵が特徴で、初めて見るのにどこか懐かしさを感じるような、不思議な絵だ。ホームページで猫が描かれた蔵書票を見つけ、はて蔵書票とは?と調べた結果、どうやら本に貼ることで「これは自分の本ですよ」ということを示すのが目的なのだと知った。

 

これは自分の本だ。紙片を貼ることで、そのことを他人にアピールする。そう言うとちょっとニュアンスが違って聞こえる。どこか「いいだろう、この本持ってるんだぜ」と他人に自慢する人間のように感じて嫌なのだけれど、でも目を閉じて自分の胸に手を当てて考えると、そういう気持ちがあることは否定できない。自分はこんなに難解な本を読めるオトナなのだ。自分はこんなに面白い本を読んで目を潤ませ、心臓を震わせる感動屋なのだ。こんなにたくさんの知識を本から吸収して仕事にいかしているんだ。そういう自慢をしたいのかもしれない。若者が本を読まなくなって久しい、なんて言われるけれど、自分はその「若者」にカテゴライズされるのではなく、当たり前のように本をむさぼるオトナですよ、ということを言い張りたい。その誇示の気持ちが形になったのが、この蔵書票なんじゃないかと思っている。

 

 

「サルスベリ」と「太陽」。自分だけの、世界にひとつだけのオリジナル蔵書票を久奈屋につくってもらうにあたり、リクエストしたテーマはこの2つだった。なぜか。それを正直に話すのはちょっとばかり恥ずかしいのだけれど、一言でいうと「本を読む人=父親」が頭に浮かんだから。

 

昔から実家の父の本棚には岩波新書がずらっと並び、その荘厳な姿に感動した。これくらいたくさんの情報を自身の知恵に変換できるようなオトナになりたい、と大学生の時に思った。私にとっての、たくさんの本を読む人は父なのだ。

 

一方、自宅や先祖の墓地には昔からサルスベリがあって、父がよく「サルスベリが」と口にしていたのを覚えていた。樹木の名前を知らない無知な自分が割と小さいころから知っていたのが、つるつるした幹が特徴のサルスベリだった。むしろ、小さく、しかし夏に爛漫と咲く花の様子のことは、特に記憶にない。そんな小さいころの思い出があって、「父が良く口にしていたサルスベリ」というように樹木のイメージが頭に刻まれた。

 

空気を吸うのと同じように、当たり前のように本をたくさん読む人間になりたい。父のように。そう思ったら、サルスベリが、夏の太陽に向かって堂々と花を咲かせる姿が鮮明に目に浮かんだ。蔵書票のテーマはこれしかないと思った。キーワードとその想いを伝えたら、最高にかっこいい絵を描いてくれた。太陽に向かってじわじわと伸びるようなサルスベリの幹を、知識を吸収しながら成長していく自分自身に重ねる。

 

気がつけば、どの本に貼ったか覚えきれないほどたくさんの本に蔵書票を貼った。しかしまだ、これから出会うであろう本にもどんどん貼りたい。「これは自分の本だ」と他人に言い張ろうと思うくらい好きな本に、まだまだ出会える予感がある。なので、どんどん増し刷りしてもらわなければならない。

 

手創り市ONLINE

手創り市ONLINEで買い物をした。毎月雑司ヶ谷の鬼子母神と大鳥神社で開催されているこのイベント、好きな手作り作家さんが参加することも多く、楽しいのでよく顔を出す。このところ中止が続いていたが、今月はオンラインという初めての試み。参加者が皆インスタグラムやウェブショップなどを使いながら作品を発表する。いつもそこへ「行って」作家さんと直接「話をして」作品を手にするというプロセスが、今回はまったくない。だから果たして手創り市として成り立つのか、それではただそれぞれの作家さんがそれぞれ単独で売っているに過ぎないんじゃないかという不安が終始あった。しかし手創り市ONLINEのインスタグラム公式アカウントの投稿やストーリーを見て、その不安は払しょくされた。

 

単独で売っていたら気づかなかったであろう作家さんの作品を知ることができた。なにより今回一番の発見だったのは、会場を歩いて見てまわっていたらもしかしたら気づかないかもしれない作品の良さが、写真を通してより濃く、鮮明に分かったことだ。例えば照明木工作品の町田電子木工(https://www.instagram.com/machidenmiyake/)。暗闇でライトをつけたときの幻想的な様子は、昼間外でそれを見たのでは分からない。夜寝るとき、枕元にこんなものがあったら、楽しいだろうなぁ、と想像がふくらんだ。

 

もちろん実物で見た方が素材感も伝わるし、写真のように光の影響で実際の色と違って見えたりすることもない。しかし、魅せるための写真だからこそその作品の良さをストレートに感じることができる。これは良い発見だと思った。

 

大ファンのbandaiyaさん(https://www.instagram.com/bandaiya50/)のリネンバンダナを、ONLINE開始前に色とデザインを決めて、すぐに連絡して、手に入れた。これで1週間分のバンダナは揃ったから、1週間毎日違うものをポケットに忍ばせることもできる。べつに人に見せるものじゃないけれど、手にしているものに対するちょっとしたこだわりがあると、それだけでなんとなく気分が軽やかになる気がするから、不思議だ。

 

住む街の、知らない場所

引越しをしてから初めての、楽天ブックのコンビニ店頭受け取りを利用した。この街を住む街として活用していることを改めて実感する。

 

自宅から一番近いファミリーマートなのだけれど、駅や職場とは逆方向にあるので、初めて入った。受け取りを済ませ、ふと前をみると、いい感じのパン屋さんがある。コンビニ店頭受け取りを利用しなかったら気づかなかったかもしれない。小ぢんまりとした店内にはすでに数人のお客さんがいるようで、店の外に一人待っている人がいた。きっと繁盛しているに違いない。そう思いながら、でも並ぶ気にもなれず、また今度来てみようと思いながらあとにした。

 

仕事でこの街に来るようになって8年。それでも知らないところはたくさんある。もっと街を知っててもよいくらいだ。いまだに仕事で近くの人に「あそこ、知ってるでしょ?●●の道をまっすぐ行って・・・」と説明されてもちんぷんかんぷんであることが多い。もっと道を覚えなさいよ、と他人にも言われる。でも覚えられない。覚えたいという気持ちはあるのだけれど、積極的に覚えようとすると億劫になる。

 

何度も行くお気に入りのお店、一度立ち寄って良かったと思ったお店、緑豊かな落ち着きスポット・・・。いま現在知っているものの中で最大限楽しもうとするのは、悪いことではないのだろうけれど、成長がないとも言える。これまで知らなかったものを知り、自分の行動範囲が広がる。その楽しさを味わえる自分でありたい。

 

 

好きなものを「推す」だけ

自分が好きなものや、おすすめしたいものを、他人に伝えること。そう言えば、何も特別な技術ではないと分かる。「私は彼のこの部分が大好きです」「私はこの住宅のここが住みやすくていいと思います」プライベートで自分の好きなものに共感してもらえれば嬉しいし、仕事であれば、自分が提供するサービスの良いところを積極的にアピールして、共感してもらうことがなにより大切だ。そのことを「推す」という一言で表現する。プライベートでも、仕事でも、何かを「推す」力が実は求められているんじゃないかと思った。

 

■好きなところは「3ポイント推し」(P99)

あれもこれもと言いたいことを並べるのではなくて、3つに絞って伝える。しかも最後の1つは変化球で「その角度からきたか!」と驚くような視点で。3つに限定することで話の輪郭が明確になり、相手の聞き応えが増す。

 

■誰もが知ることを推すときは自分の体験を絡める(P122)

自分の体験談は唯一無二。ありきたりでない自分だけのストーリーとあわせて話すことで、「それでそれで?」と思ってもらえる。

 

■凡才だからこそ、報われない天才の苦しみが理解でき、それを一般人にも共感できる形で伝達できる、そんな中間の存在になれる(P214)

例えば自分はクリエイターにはなれないけれど、どれだけすごいクリエイターがいて、その作品がどれだけ素晴らしいかを、他人に共感してもらえるように噛み砕いて伝えることはできる。そういう中間の存在こそ、自分が担える役割なのではと思ったばかりではなかったか。

 

日曜日、ちょっと駅前に出かけて、いつもの本屋でふと目に入った本のタイトルが目をひいた。「推す」ということを、もっと堂々とやっていきたい。

 

好きなものを「推す」だけ。共感される文章術

好きなものを「推す」だけ。共感される文章術

  • 作者:Jini
  • 発売日: 2020/05/01
  • メディア: 単行本
 

 

Y:THE YELLOW MONKEY

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自分が覚えている最初の記憶、それはテレビの音楽番組で「球根」を歌っている姿だったと思う。それよりも前の曲、例えば「楽園」だったり「SPARK」だったり、これらの曲も知ってはいたのだと思うけれど、「球根」の時ほどの衝撃は受けなかったのだろう。長い髪を振り乱し、眉間にしわをよせながら、ギターをかきむしりながら叫ぶ。その姿のかっこよさとサビの高揚感は、当時中学生の子供が味わったことのないものだった。

 

2016年。再集結後の彼らは15年前から衰えることなく、むしろいまが一番かっこいいんじゃないか、という素敵なバンドの年の取り方をしていて、嬉しかった。身勝手だけれど、「あの頃の方がかっこよかったなあ。いまはちょっと違うなぁ」とは思いたくない。だからいまの、年をとったなりの堂々とした立ち振る舞いで、しかし若いころのエロい曲も歌ってしまう、そんな彼らが好きだ。

 

 

彼らにとって初めてとなるドームツアー。その最後を飾る東京ドーム公演が、延期となった。「中止」ではなく「延期」としてくれたところに、彼らの優しさ、強さを感じたけれど、その直前に、この公演を最後に表立った活動を休止し、充電期間に入るということをニュースを通して知ったので、複雑な気持ちでいる。彼らが再始動後の活動をきちんと締めくくるということを、社会は許してくれなかった。振替公演は決まるのか、それが社会的に歓迎されるのはどれくらい先になるのか。霧で覆われたように前が見えないいまの状況にこのイベントが重なってしまった不運。自分は、ひとまずチケットをなくさず手元に置いておき、彼らへのリスペクトを表明することもできるから、まぁいいか。

 

渾身のアルバム「9999」を聴きながら、大好きなロックバンドがいまもかっこよく居続けていてくれる幸運を想う。「ボナペティ」他未収録曲とツアーアルバムを含む完全版は本棚に大切に置いている。ボナペティ=どうぞ召し上がれ。そんな軽く、おもてなしするように曲を作り続ける彼らと一緒に、この苦難を乗り越えたい。

 

「ものづくり」をしたいから、手紙を書いた

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クリエイターにとって「ものづくり」は自分を表現する手段であり、現実的なことを言えば生活する糧である。つくることに誇りを持っているからこそ、哲学のある素敵なものができるのだと思う。自分の手を動かすことで、いままでになかった新しい「もの」を生み出す。それを楽しむ他人がいて、また新しい何かが生まれる。昨日より今日、今日より明日がほんの少し楽しくなる。そうやって進歩しているという実感が、ものを生み出すエネルギーになっているんじゃないかと思っている。自分の身近にもかっこいいものをつくるクリエイターさんがいて、「ものづくり」に対して疼いているのを感じる。つくれる人って、いいなぁと思う。

 

 

翻って自分は、「ものづくり」に憧れていたのはせいぜい中学高校生くらいまで。中学の授業に「技術・家庭」があって、「技術」が大好きだった。木材加工が一番楽しかった。金属加工もやった記憶があるけれど、それはそうでもなかった。硬く冷たい鉄を切るときの怖さはあっても、木材を切るときのそれはおどろくほどなかった。座面が蓋になっていて開けるとモノを入れることができるスツールをつくったのだけれど、それはいまも実家の部屋に置いてある。細部を見るととにかく雑で、手先が器用とはとても言えない生徒だったなぁと思う。でもそれなりに楽しく「ものづくり」を学んだ。その楽しさをそのまま学びのモチベーションへと変えて、何かちょっとしたきっかけがあったら、今頃大工さんになっていたかもしれない。小学生の時に抱いていた将来の夢だ。

 

残念ながら大工さんへの夢は潰えて、もっと川上の職業であり総合力を必要とする「建築家」になることも、大学生のときに自分の能力の低さにげんなりし、諦めた。どう頑張ってもダメだと思った。都市計画の授業に真剣に耳を傾けながら、いつしか「ものづくり」への憧れを忘れていった。

 

いま、建築設計事務所にて住宅の企画コーディネートをやりながら、ふと自分の「ものづくり」に対する想いを振り返る。自分は木を切ったり削ったりして家具をつくることもできなければ、革を縫って財布をつくることもできない。絵を描くこともできなければ、パソコン上でイラストを描くこともできない。建築をつくるいまの仕事こそ大きな「ものづくり」じゃないかと言われれば確かにそうだけれど、実際に設計しているのは設計スタッフだし、つくっているのは建設会社さんだ。大きな声では言えないが、自分が「つくってるんだぜぇ」と胸を張れるかというと、そこまでの実感は正直それほどない。何もできないじゃないか。「ものづくり」はできないのか自分は?

 

何もi Phoneのような世界中の人が使うスケールの大きいもののことを言っているのではない。家とか車とか、時間や労力を要するものを作りたいと言っているのでもない。小さなものでも、目の届く範囲を循環する程度でも良いから、いま世に無いものを、自分の手で新しく生み出すことはできないのか?・・・

 

なんて考えていたら、さっき、感謝を伝える「手紙」を書いていたことに気づいた。そうだ、手紙だって「もの」だ。自分の正直な気持ちをコトバに変えて、書いて、贈る。これだって「ものづくり」と言っていいんじゃないか。そう思った瞬間に、昔もっていた「ものづくりをしたい」という気持ちが、ふわっと自分の身体の中に舞い戻ってきたように感じた。

 

そして、本当は順番が逆なのかもしれない、手紙を書いたことで「ものづくり」への憧れを思い出したのではなく、実は「ものづくりをしたい」という気持ちが心の隅に残っていたから、手が動き、手紙を書いたのかもしれない。そう思った。

 

壁面本棚、戻ってくる

壁面本棚が、戻ってきた。新居への引越しにあたり、家具屋さんに預かってもらっていた。一度は状況を見て延期してもらい、今週末、設置してもらった。

 

今度は吹抜の壁に設置するため、天井に突っ張るのではなく、壁に固定した。吹抜の途中までの高さになるので、中途半端感が出てしまうかなと少し心配だったけれど、部屋もそれほど大きくないし、圧迫感も中途半端感もなく、ちょうどよいのではないかと思う。しかしこれで将来夢がさらに膨らみ、そのまま上に積んで天井までの壁面本棚にしようとすると、それこそ吹抜を通して居室に光を導く窓をふさいでしまう。壁一面の本棚という憧れは正直あるのだけれど、そこは慎重に考えたい。というより、本棚ありきで考えるのではなく、もうすでにこれだけの量の棚があるのだから、無尽蔵に蔵書を増やすのではなく、新しい本を手に入れたら少しづつ蔵書を減らすとか、新陳代謝も考えなければと思う。

 

本棚が戻ってきたことで、これでようやく新居での生活が本格的にスタートしたような、そんな清々しい気持ちでいる。

 

情報の線引き

他人のことを批判したり中傷したり、といった意見が主にネット上で繰り広げられているのを見ると、うんざりしてしまう。別にいまに始まったことではないけれど、このところ特にそういう言葉に自分の気分が支配されているのを強く感じる。

 

「だったら、そういう言葉を見なければいい」その通りだ。見なくてもいいものを興味本位で覗いてしまうからいけないんだ。気分が悪くなることを分かっていて、でもほんのちょっとの好奇心がやってきて、ちょっとだけ、と見てしまうからいけない。取り入れるべき情報と、距離を置くべき情報。それらをきちんと線引きすることが大切だ。

 

yahooニュースのコメント欄とtwitterのトレンド。さしあたって、この二つを見ないと決めよう。いままでは見て損することが多かった。

 

なにも自分から罵詈雑言が飛び交う汚い川に身を投じる必要はない。きれいな水が流れている川を自分は知っているはずだし、そこでぷかぷかと浮かんでいれば、少なくとも汚い言葉に気分を害することはないと分かっているだろうに。

 

 

ここまで自分の気持ちが情報に左右されるなんて、思っていなかった。もっとどっしりと構えてていいはずだろう、と思う。そんな自分の弱さに、時にしたたかに生き抜いていく自信をなくす。

 

この正直な気持ちを言葉に変えて、残すこと。それが、自分がブログを書く、自分にとっての意義なのだと思った。

 

X:数学 -x-

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決まった一つの答えがあり、その答えにたどり着けば正解、という明確なゴールがあるから。そうやって好きな理由を言葉で言い表すことが当時できたかというと疑問だけれど、いくつかある教科のなかでは、算数が好きな少年だった。難しめの問題を解くことができたときの快感もあっただろう。また、算数の問題が解けることが、勉強のできる頭のいい男子の象徴のようでもあっただろう。女子にモテる。そう思っていたかもしれない。

 

普通科と理数科を置いている高校へ通った。身の程知らずな自分は中学時代、理数科にあこがれたものの、記憶によると北辰テストでこてんぱんにやられて、自分には理数科に進む学力がないことを思い知らされた。結果、普通科に通うことになるのだが、県立高校では割と珍しい、2年次から文系コースと理系コースに分かれるというカリキュラムで、もともと国語や社会など文系科目が苦手で、数学や物理化学が比較的好きであったから、迷うことなく理系コースを選んだ。早いうちから好き嫌いを表明できて、好きな科目を多めに勉強できたという点で、高校選びに後悔はしていない。

 

大人になり、いわゆる勉強・研究としての数学とは離れることとなったけれど、理系コースで数学を勉強してきたことが、はたしていまの自分に価値を与えているのだろうかと、ふと考える時がある。例えば微分積分の考え方は経営にとって必要だったりする。寸法を求めるのに三平方の定理や三角関数を用いることもときどきある。でも、残念ながら二乗してマイナスになる数字が登場したこともなければ、連立方程式を解くようにして未知数xとyを求めるような機会も、記憶する限り、ない。ではそれだけか?もっとなにか、根源的なことで仕事をスムーズに進めることができる考え方のようなものを、実は気づいていないだけで、身につけているのではないか?その正体が、分からない。

 

一方で、数学を切り口にいままでにないような仕事をつくっている人もいる。自分の「好き」や「得意」「興味がある」を掘り下げるその深さが原動力となって、新しい仕事を生む時代だと思う。

 

本当に自分が担うべき役割は何だろう。何をすることで自分は社会に自分という資源を役立たせることができるのだろう。その解xは、もしかしたらひとつじゃないのかもしれないし、ないのかもしれない。一生解けないのかもしれない。しかし、その不明瞭なものに向かって、あーでもないこーでもないと考えるプロセスを数学と呼ぶのであれば、自分はいままさに数学をしている最中だ。

 

アスパラガス

「アスパラガス」って、どういうガスなの?という問いに、はっとする。そうか、ガスか、、、。

 

いや、アスパラガスはそういう野菜だから。ガスじゃないんだよ。

 

だってさ、みんな「アスパラ」って呼ぶじゃない。てことは、アスパラ・ガスってことでしょ?

 

・・・そう言えば、そうだね。東京ガス。京葉ガス。アスパラガス。

 

そうだね。きっと、アスパラガスの茎(?)から、特別なガスが出ているんだよ。それが、あのシャキシャキした歯ごたえの秘訣なんじゃないかな。きゅうりでもなく、大根でもなく、ゴボウでもなく、長ネギでもなく、アスパラガスだからこその、あのシャキシャキした歯ごたえなんじゃないかな。噛んだ瞬間に、口の中に、実際にそれを感じる人はいないのかもしれないけれど、特別なガスが放出されるんじゃないかな。もしくは、栽培するときに、肥料と一緒に特別なガスをかけてやると、あのシャキシャキした歯ごたえが特徴の、あの野菜ができるんじゃないかな。その秘密のガスをたっぷりと浴びて誕生した野菜のことを人は、アスパラガスと呼ぶんじゃないかな。

 

 

アスパラガスがたっぷり入ったスパゲティを食べた。大きく切ったアスパラガスの、そのシャキシャキした歯ごたえ(何回目だ)に、舌がとろけそうになる。きっと、目に見えず、肌で感じることのできない、特別なガスのおかげなんだ。

 

吹抜と壁面本棚

新居は、1階と地下1階のメゾネット(二層)構造。今度は吹抜に面する壁に、壁面本棚を設置する。置いたら部屋がどうなるだろう、きっとさらに引き締まるんじゃないだろうか、なんて想像をしながら過ごしている。

 

楽しみである一方、新たな問題も発生した。ほんとうに贅沢すぎる悩みなのだけれど、吹抜の壁であるがゆえに、さらに上に本棚を足して、2層分の壁面本棚にしたい、という夢がふくらんでくる。いままでは2.4mの天井いっぱいの本棚だったけれど、今度はさらに上に空間がある。この空間を、同じように本棚で埋めたらまた荘厳だろうなぁ、と思ってしまうのだ。

 

しかしここで、設計者側、といったら怒られるけれど、住戸の設計コンセプトから考えると、この吹抜は地下のリビングに光を導く大切な空間であり、自分も最も気に入っているポイントだ。ダイニングでくつろいでいる時、ふと斜め上を見ると縦長のFIX窓を通して隣家の大木や空が見える。光も、この景色も、なるべく犠牲にしたくない。天井まで続く壁面本棚という憧れはもちろんあるけれど、それと吹抜を通して光を感じる住まいの快適性とを天秤にかけて、それでも自分は本棚を選ぶだろうか。いまの自分の答えは、ノー。壁面本棚ありきで設計したし、将来二層分まで増やせたらいいなぁという想いは最初からあったけれど、いざ実際に住んでみると、増やすことがなんだか罪のようにも思えてしまうのだ。

 

なぜ天井までの大きな本棚にしたいのかと自分の心にたずねると、「かっこいいですね」「これだけの本棚に入っているたくさんの本を読む人なんですね」と他人に思われたいから、という答えが返ってきた。結局、他人の目線を気にしているだけじゃないかと思った瞬間、まぁ他人から良く思われたいという気持ちが本を読むモチベーションになるというのも否定はしないけれど、なんだか気が抜けてしまい、もっと住まいとして居心地の良いようにつくろうよ、という至極当然な結論にたどり着いた。そこに「居る」自分が気持ちよいかどうかを優先して決めようよ、と。

 

といいながら、考えもコロコロ変わる最近だ。数日後には全く逆のことを心に決めているかもしれない。

 

学芸大学と本屋

古本屋の街というと、神保町。そこで古本を探してまわるほど、古本が、また古本屋が、好きというわけではない。単純に、古本よりは新刊本の方が好きだ。いまの作家さんが書いたいまの話を味わいたいという気持ちからだ。古本が決して嫌いなわけではない。時を経ても褪せない良本もたくさんあると思うし、これまでもお世話にはなっている。けれど、古本屋で感じるワクワクは、新刊書を扱う本屋で感じるそれほどではないように思う。

 

そんな自分が、ひょんなきっかけで店に入り、好きになったのが、「古書 流浪堂」。店先には昔の生活雑誌が並んでいる。店内に入ると、建築関係の本から文庫本・新書まで、幅広く置いている。そして奥には小さなギャラリーがあり、定期的に個展も行っている。いまでこそギャラリー併設なんて珍しくもないけれど、その、従来の古本屋の枠を超えたところに、面白さを感じた。あるときのギャラリーで置いていた絵はがきは、いまも手元にあり、さて誰に手紙を書いて贈ろうかと迷っている。

 

流浪堂を出た後は、「BOOK AND SONS」の扉を、勇気を出して開ける。ちょっと敷居の高い、ビジュアルブック専門の本屋だ。一冊一冊が高めだから、気を引き締めて、よく吟味して、買う。ちょっとめげているときとか、財布が心配なときは、申し訳ないけれど立ち寄らないようにしている。立ち寄って、迷ったあげく買わない、ということはなるべくしたくないからだ。

 

そのあとはその足で「SUNNY BOY BOOKS」へ行く。とにかく小さな本屋さん。でもその中には宇宙がある。好きな作家さんのイラストが表紙を飾っている素敵な本に出会ったのも、確かここだった。吉祥寺の画廊で偶然出会った、1年365日毎日ブローチをつくって展示販売した作家さんが、定期的に個展をしているというのも魅力だ。うまく言葉であらわすことができないのだけれど、なんでだか「ちょっと寄ってみようか」という気持ちにさせてくれる本屋さんだ。

 

ここは神保町ではないけれど、本屋から本屋へ、ぶらぶらと散歩するように歩いてまわるのが、楽しい。おっと、それらのちょうど中間地点にある、無口で謙虚なお姉さんが出迎えてくれる週末限定カフェも、忘れてはならない風景だ。

 

逆ソクラテスとPK

自宅では、SNSサーフィンというデジタルと、本を読むというアナログを、なんとなく自分でバランスをとりながら行っている。

 

SNSサーフィンは、いま自宅でまだインターネット回線の引き込みができておらず、スマホの4Gに頼っている。先日の引越し完了後、月末は通信制限に悩まされていたので、いまはまだよいものの、節制しながら使っている。

 

空いた時間は本を読んでいることが割と多い。「読書」というとかっこつけたイメージがあって、ちょっと違う気がする。ただ本を読んでいるだけ。読書=本を読むことだろう、と言われればその通りなのだけれど、自分の頭の中では「本を読むこと」と「読書」との間には少し溝がある。読書は、読んだ内容が自分の中にしみわたって、未来の自分の血肉になる、投資のようなもの。でも、そんなに意気込んでいるわけでは決してなくて、ただぼんやり本の中の世界を、表現はきれいではないけれど、舐めまわしているような、そんな感じだ。

 

伊坂幸太郎の新刊「逆ソクラテス」を買った。単行本の装丁がすごくきれい。表紙の絵に心を持っていかれ、持ち帰ってじっくり見ていた。junaida氏の絵だと気づいたのは、しばらくたってからだった。どおりでどこかで見たことあるような、懐かしい印象の絵だと思ったわけだ。

 

まだ読み始めていないし、どんな内容なのかさっぱり分からない。広告の文章を読んでもどんなストーリーなのかつかめない。そのドキドキ感が、たまらない。

 

一緒に買ったのが、文庫版の「PK」。昔、新刊で出た時に単行本を買って読んだのだけれど、すごく面白かった半面、後半の難解さ、スケールの大きさに気おされた記憶がある。数年前、蔵書を整理したタイミングで手放してしまい、それからしばらくたっていたのだけれど、文庫版を見つけて久しぶりに思い出し、ストーリーは忘れたものの面白かった記憶だけは残っていたので、もう一度読もうと手に取った。大事なPK(ペナルティキック)に臨むサッカー選手。子供に「悪さをすると次郎君みたいになっちゃうぞ」と脅す作家の父親。逆境に挑む大臣。落下する子供を救う新人議員。それぞれのストーリーが並列で続く。スリリングなストーリー展開で、自宅時間を過ごすのにちょうどよい。

 

未来のことは決まっているわけではない。いまの自分たちの感情の積み重ねが、未来が明るいか暗いかを決める。ひとりひとりの小さな行動がドミノのように倒れていき、その結果として未来がある。そういう考えに触れて、いまの自分の感情を少しでも良い方向へコントロールしさえすれば、そしてその考えが伝播すれば、こういう状況でも、未来は明るくなるんじゃないかと思った。

 

「臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する」自分も、他人から感じた勇気を自分の勇気に変えて、次へとパスできるような、そんな人間でありたい。間一髪で子供を救ったヒーローを見ていた少年が、将来、勇気を試される場面で彼に触発され、力を発揮するのと同じように。

 

ふと、部屋に並べていた本を眺めていたら、「PK」の文庫本が目に入った。あれ、確かいまかばんにいれたままのはずだけれど・・・パラパラとページをめくると、見覚えのない栞。やられた。すでに手元にあることに気づかずに2冊目を買ってしまったのだ。買ったのはいつだ?数か月前?いや、もしかしたら1年以上前かもしれない。そのときもきっと本屋で文庫本を見つけて「ストーリー忘れちゃったし、久しぶりに読み返そう」なんて思っちゃったんだろう。ストーリーだけでなく、読み返すために買ったことまで忘れるとは・・・。

 

同じ表紙の2冊の文庫本を眺めながら、「まぁ、そんなことも、あるある」と無理やり自分に言い聞かせる。いやいや、ないない。と心の中の自分が言う。

 

逆ソクラテス

逆ソクラテス

 

  

PK (講談社文庫)

PK (講談社文庫)