W:WALG -win a losing game-

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win a losing game.

 

「逆転勝ち」をテーマにしたこの腕時計にひかれたのは、大学生の時だ。新宿のヨドバシカメラ時計館で、ひとめぼれしたのだったと記憶している。当時からなんとなく腕時計が好きで、かっこいいものをと探しているなかで見つけたのは、剣をモチーフにしたシャープなシルエットと赤紫の文字盤が印象的な時計だった。

 

リコーエレメックスのHPを見てももう販売していない。だから充電がまったくできなくなってしまったいま、その修理方法を探ろうにも、どうしてよいか分からない。街の時計屋さんに持って行って、こういう充電式の腕時計なんですけどどうしたらよいでしょうか、と言ったら、修理してくれるのだろうか。特殊すぎて、手に負えないと言われてしまいそうで怖い。それでも、直してまた腕に嵌めたいと思うくらいには、気に入っている腕時計だ。

 

 

振り返れば自分の人生、思ったことが思った通りに叶ったということ、選択したことが大正解だったという実感を持ったことが、あまりない。こうだ、と思ったその通りに進むように自分という船の舵を握ってきたつもりだけれど、行き止まっては別の方向へ転換し、を繰り返していまに至っている、といった方が近い。でもそれはいまの進路に進んだことを後悔しているということでは決してなく、結果として選んだその道が、自分にとって正しかったのだと納得するために、その道の良いところを後付けで探すような、そんな感覚だ。あぁ、おれはもうダメだ、とその場にへたり込んだりしなかったからこそ、いまこうして動いていられるのだとも思う。

 

そんな自分の人生が、また5年10年と進んでいき、いまとは別の環境に身を置いているとしても、それはこれまでの積み重ねの結果であり、これまでが無駄だったということにはならないだろう。これまでが負け戦だったとは言わないが、「こうだったらいいなぁ」という自分の理想像にはとうてい達していないので(それは周りの環境に対してではなく、特に自身の仕事をこなす能力に対して)、これから先、徐々にその力を携えて、自分に自信を持って、他人に対して委縮するようなことがなくなって、自分の想い通りに動くことができるようになれば、それはれっきとした「逆転勝ち」ではないだろうか。

 

win a losing game. 

 

逆転勝ちを手にするその瞬間のために、まだ動きを止めたままにはしたくない。その瞬間、ひとめぼれをしたあの時と同じように、剣のように鋭く時を刻んでいる、そんな時計であってほしい。

 

当事者のその先に想いを巡らせるやさしさ

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この週末はなるべく家で過ごそう、ひとまず事務所に行かなければ進まないような仕事はなさそうだし(もしかしたらあるのか・・・?やるべき業務が山積していることは確かです)、と思いながら今日を過ごしている。外は、暖かかった冬に来なかった分遅れてやってきたかのような雪。ひんやりとした空気が、まぁこういうときだし、家にいなさいよ、と言っているように感じる。雪よ。この際どんな魔法を使っても構わないから、蔓延しているらしいウイルスをやっつけてくれないだろうか。その真っ白な姿からは清潔感を感じるから、悪者を洗浄してくれるんじゃないか。冷たい雪のその低温で、悪者を凍らせて死滅させることができるんじゃないか(北海道でも蔓延しているんだから、それはないのか・・・)。

 

 

昨日は、振り込みや買い物など用があったので近所を歩いた。そして結局、いつものカフェに寄ってしまった。一駅分だったし、電車は使わなかった。こういうときでも、いつもどおりを提供する、という彼女の信念を感じた気がした。

 

夕方からイベントを予定していて、朝までは、換気をしたり、客と客との間隔をあけたり、というように配慮したうえで、それでも楽しい時間を提供できてたらという想いでいたようだ。けれど、朝、店をオープンさせたときに外を歩く人から向けられた「えっ、こんなときに、やるの?」という視線にびくっとし、ただごとではないと感じたという。なんかこう、言葉では言い表せないようなピリピリした空気を察知し、そうか、イベントに参加する当事者は「いいよいいよ、注意するから。やろうよ」と言ったとしても、例えばそのまわりの家族が心配するといったことがあるのかもしれない。そう考えたら・・・ということで、朝、中止を決めたのだそうだ。

 

行き過ぎた「不謹慎だ」「自粛しなさいよ」には疑問もあるけれど、そうもいっていられないくらいの非常事態だということは、ここ数日の政府からの発表を聞いて分かる。自分も、イベントを予定通りやりますというSNSを見たときは、一瞬「やるんだ」と驚いたというのが正直な気持ちだ。でも、配慮はしていることを知って、楽しめることをちゃんとやりましょう、という気概も感じたし、だから応援しようとも思った。そこへきての、ギリギリでの中止を決断。彼女のその言葉から、これまで経験したことがないことがいま身のまわりで起きているということと、本当のやさしさってそういうことなのかもしれないということを、感じた。

 

いまは、「予定通りイベントを決行しようとする人に対して『なにしてんだ!こんなときに』と責める意見」と、「身の安全を第一に考えて自粛しましょうという流れに対して『そこまでする必要はない、周囲に流されているだけで思考停止だ、経済がまわらないことによる損害をどうしてくれるんだ』と主張する意見」とがぶつかり合ってケンカしている状況なんじゃないかと思う。ときには汚い言葉で罵り合って、お互いギスギスして、そのケンカに参加しているつもりはなくても、いつの間にか心が疲弊している。そういうときに、疲れた心を救ってくれるヒントは、彼女の決断を後押しした「当事者のその先の人に想いを巡らせる」やさしさにあるんじゃないかと思った。

解決していく喜び、片づける快感

4月に引越しをする。いままでにないくらい買うものがあったり、準備することがあったりと、やることは多い。何をする必要があるのか、それを順番に考えていくのは決して得意ではなく、どちらかというと億劫に感じるくらいなのだけれど、それでも、一つ一つコトが進んでいくと楽しく感じる。必要な家電を買った。大切な記念品をつくるための打合せをした(これは本当に楽しかった)。そして、大事な家族や仲間と会った。ここ数日間~数週間、片づけるべきことは片づけて、そして楽しい時間を過ごすことができた。

 

「ひとつずつ解決していく喜び、片づける快感」を仕事でももたらすことができれば、もっと仕事を楽しく、スムーズに進めることができるのかもしれない。このところ、楽しそうに仕事をしてないなぁ自分は、と思う。もっと楽しそうに仕事しようよ。ひとつずつだけれど確実に倒れていくドミノのように、片づけたときの快感を次のアクションへの力に変えて、やるべきことをどんどんこなしていく。そうやって本来は仕事をすべきなんじゃないか。そう思った。

 

 

自分の言葉の一歩先を読むこと

「自分の行動の一手先や二手先を想像したほうがいいです」風俗嬢に恋をしたというお悩み相談にびしっと応える著者は、なんと自分と同い年。そんな彼の言葉を読みながら、自分の未熟さ、自分の考えの浅さを知る。それを言ったことで相手はどんなことを思うだろうか。もしかしたら自分が思い描いているようなことと違うとらえ方をするのではないか。そうやって、自分が言葉を発するその一歩先を具体的に想像できるかどうかが、大人であるかどうかとイコールなんじゃないかと、最近は思うようになった。

 

それは、言葉を発した後で後悔することがこのところ多いからだ。なんとなく頭に思い浮かんだ言葉を口にしたくて、その言葉の本当の意味がどうであるか、その言葉がいまの状況に適したものか、を吟味することを怠る。そうして口から出た言葉は、たいてい相手を不快にさせ、誤解させる。だから自分の場合、もうちょっと言葉の重みを考えた方がいい。・・・とは言いつつ、最適な言葉はなにかとあれこれと考えることが結果として沈黙につながり、「分からないんだったら『分からない』と言えばいいのに」と相手を別の意味で不快にさせることもあるから、ことはそう簡単ではない。

 

自分の場合、例えば本で読んで知った語彙とか、言葉の言い回しとかそういうことを、日常生活の中でふと「いまこれを使うときなんじゃないか」と思い浮かんだときに、それを言葉にしなければ気が済まなくなる。それを言葉にすることで、「あ、こいつ、言葉知っているな」と思われたい。そんなちょっとの背伸びした気持ちが、その言葉が本当にふさわしいかを検討する力を、なくしてしまう。もっと丁寧に、冷静に、言葉を「選んで」口にすることを習慣にしなければ。

 

「闘病」という言葉は好きじゃない。闘いととらえると、勝つか負けるかの二択になってしまう。死ぬこと=負け、になってしまう。家族から「負けるな」と言われると銃を構えた敵兵に竹ヤリで突撃させられるような気持になる・・・。彼の言葉を聞くと、病を背負う人に対する安易な態度が逆に相手を苦しめることにもなりかねないのだと分かる。自分の視点と相手の視点は違って当然。自分が良かれと思ってした言動が、相手の視点からすると苦行である、なんてこともある。そういうことに気づかずにこれまで来たのだとすると、それは恐ろしいことだなぁと思う。

 

なんで僕に聞くんだろう。

なんで僕に聞くんだろう。

  • 作者:幡野 広志
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本
 

 

君のいない部屋

4月に引っ越すにあたって、自宅の壁面本棚と机、椅子を家具屋さんに引き上げてもらった。メンテナンスをしてもらい、椅子も座面の布を貼り替えてもらい、新居に新しく納めてもらう。約3年半、本と、私の体重を支えてくれた本棚と机に感謝をしつつ、しばしのお別れ。来月、生まれ変わった相棒との再会を、楽しみにしている。

 

その相棒がいなくなり、広く感じられる部屋の中心で、これを書いている。本棚があった壁はいまは一面の白。寂しいはずなのに、一方で清々しさも感じている。昼間、本棚がなくなった直後の部屋の明るさと言ったら、なかった。別にいままで日差しを遮っていたわけでもないのだけれど、いなくなって明るさを感じるということは、いままで日差しをたっぷり身体で浴びていたのではないかと思う。「色が変わりましたね」家具屋さんにそう言われ、毎日見ている自分は気づかないけれど、きっと時を経て、褪せたのだろう。

 

殺風景になったともいえるこの部屋で、数年前の自分だったら、もともとそこに本が積んであったように、一度クローゼットにしまった本を引っ張り出しては床に並べていたんじゃないかと思う。本棚がない分、縦に積む量には限界があるけれど、いままで本が現にあったのだから、と床に本を置いていただろう。その方が、読みたいときに読めるし。

 

けれどいまは、そうしたくない。本を探すのに時間はかかるけれど、しばらくはクローゼットにしまって目に見えない状態で過ごすのも良いだろう。「いままであったモノがなくなったことで生まれた空間」の存在を、身体で感じたい。そこに余白ができたからといって、これまでなかった別のものを置くなんて野暮なことはしたくない。「埋めようと思ったら埋められるのだけれど、埋めないことでそこにある余白の空間」を大事にしたいと思った。

 

Title

荻窪にある本屋「Title」の店主、辻山良雄さんの連載記事を読んだ。「Title」という本屋さんの存在は、人から聞いたのか、本屋特集の雑誌で見たのか、定かではないけれど、知ってはいた。けれど、まだお店には行ったことがない。

 

https://www.gentosha.jp/article/15053/

 

状況が状況なだけに、不安になり、報道に惑わされ、驚かされ、怖い思いをさせられる。そんななかで、トイレットペーパーが消えたドラッグストアの店頭で、憤慨するよりも無力感に襲われたというのを読んで、本屋さんが本屋さんとして担う役割はこういうことなんじゃないか、という自分の想いが、明確に言葉に現わされたのを感じた。

 

自分はこうした行為に抗うために、本を売っているのではなかったか。一人一人が考えて行動するためには、その人に戻るための本が必要である。 

 

街の本屋さんは、こうした途方もない夢を持ち、信念を持ち、本を売っている。一方、その本屋を訪れる自分も、そこに並ぶ本を眺めて、その本屋ならではの唯一無二な選書を味わい、これからの自分を形成してくれる一冊と目が合う瞬間が来るのを期待しながら本を眺める。「これだ」という一冊と目が合った瞬間が何ともいえない快感である。その快感を得たいという欲望だけが、本屋へ足を運ぶ動機だと言ってもいいのかもしれない。きっとこの荻窪の小さい本屋さんでも、そんな快感を与えてくれる一冊が待っているに違いない。

 

 

日曜日。午前中管理組合の総会に出席した後、事務所近くの本屋に立ち寄ったら、これまで自分のアンテナに引っかからなかったこの本と目が合い、迷わず手に取った。一人一人が考えて行動する世の中になるために本を売る、そんな自分にとって壮大なことを考える彼自身はどうやって考えているのか、知りたかった。

 

好きな本を店先に並べ、買ってもらいたいという気持ちは、この商売をする上でのなくてはならない〈もと〉である。そして個人店では、そうした気持ちがストレートに表れているほうが、来る人の共感を得やすい。多くの人が個人店に求めているのは、本を利用したビジネスではなく、本そのものに対するパッションだからだ。

 

そうか、自分は本屋に行くことで、その本屋が発するパッションを受け止めたいんだ。もともと買いたい本があるのなら、行かなくたってネットショップで気軽に買える。それでもお店に足を運びたいと思うのは、そこへ行ったらそこにしかなさそうな本があると思うからだ。そこでしか嗅げない匂いみたいなものがあって、そこでしか感じられない手触りがあって、店主との雑談だって、イベントという体験だってあるからだ。そういう自分にとっての特別な本屋がいくつかあれば、自分のことを考えることのできる自分になれる。多少道に迷うことがあっても必ず自分を取り戻せる自分になれる。そう思った。

 

本屋、はじめました 増補版 (ちくま文庫)

本屋、はじめました 増補版 (ちくま文庫)

 

 

心の余白

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各地でいろいろなイベントが中止になっていたりして、「集まって楽しもう」というムードでなくなってきている。感染のリスクがある以上、それを防ぐためにはやむを得ない、という運営者の苦渋の判断なのであろうから、それ自体を非難はできない。イベントを楽しみにしていた側は、残念だけれど、被害が拡大しないための措置と受け止めて、じっとしているしかない。自分は4月に控えている大事なライブが中止になってしまわないか正直のところ気が気でないけれど、もし1か月経っても事態が収束せず、もっと安静が必要な状況だったら、仮に彼らが中止の判断をしたとしても、責めるつもりはない。演ってくれるのなら、きちんと対策したうえで、行く。行って、楽しみたい。

 

昨日はあっちの情報、今日はあっちの情報、というように情報に振り回されて、皆が前へならえで同じ行動をする、というのに触れると、なんだか居心地が悪くなる。トイレットペーパーが店頭から消えているなんて話を知人から聞いて、そんな誤情報に振り回される人がそんなにいるのか、と他人事のように思っていたけれど、今日いつも買い物しているスーパーに行ったら本当にトイレットペーパーがなくてびっくりした。よく買うお手頃価格の乾麺もなかった。2011年3月11日夕方の、あの日あの時のコンビニか、ここは(※)?

 

身のまわりの経済が目に見えて足踏みしている様子を見ると、そうなってしまう理由も分かる反面、いや、もっと元気に、こういうときでも供給者が安心できるように消費を続けられないものかとも思う。手作り作家さんが集まるイベントが中止されるということは、手作り作家さんが作品を見てもらう機会が奪われるということだ。誰のせいでもないこの結果を、作家さんはどう受け止めたらいい?

 

数日前までの自分は正直、中止しなかったイベントに対して「安全を考えて中止した方がよかったんじゃないのか?」と思っていた。けれど運営者の方に視点を変えると、作家さんのために開催に踏み切った、という勇気ある決断だったのかもしれないと気づける。受け取る側の視点だけでは気づけないことがある、ということに気づいた。

 

そんなムードではあったけれど、今日も(リスクが高いとされている)電車に乗って遊びに行って、素敵な作家さんの作品を、買った。こういうものを楽しむ余裕が、いままでの自分にはなかったのかもしれない。ただなんとなく、部屋にいるのを眺めて、かわいらしいなぁ、とぼんやり考える時間が、さらに自分の心に余白をもたらしてくれるんじゃないかと期待している。そして、こういうときでも身のまわりの経済を動かす一人でありたいと思っている。

 

※ 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

FUGLEN浅草

気になっていたけれどなかなか行けていなかったカフェに、行ってみた。休日だし、場所柄もあるし、きっと満席で、座れないんだろうなぁという予感は、店内に入って確信に変わる。それでも思いのほか落胆しなかったのは、ここに実際に来て、建物を眺めて、店内に足を踏み入れて、店内の家具を見て、コーヒーを飲んだり談笑したりしている客を姿を見さえすれば、目的の過半は達成することができたと感じたからだ。他人に聞かれて「知ってはいますが、行ったことはありません」と答えるのもなんだか恥ずかしい。「行きました」と言いたい。それだけの理由です。

 

北欧の家具が並ぶ内装がきれい。浅草ということもあってか、客も外国人が心なしか多い。意識の高い人が集まる外国のカフェに迷い込んだような気分だ。店員さんが運ぶワッフルに目を奪われる。ちょっと落ち着いたころに、また来て、その時はワッフルを食べよう。

 

https://fuglen-asakusa.business.site/

 

 

「ノルウェーのコーヒーって、どうなんですか?苦いんですか」

「いやいや、逆ですね。酸味が強い感じ」

 

結局は自宅近くのいつものカフェに落ち着く。ここでコーヒーを飲んでいると、別に都内のしゃれたカフェなんて知らなくたっていいや、と思えてしまう。さっき行ってきました、諦めました、と店主に愚痴を言ったら、ノルウェーのコーヒーのことを教えてくれた。そうか、じゃぁなおのこと、ここで苦めのコーヒーを楽しんでいればいいや、と思ってしまった自分は、新しいものを味わおうとする好奇心というものがないのか。

 

読めなくなったら、書けば良い

本を読めなくなったときというのは、他人の言葉に耳を傾けることができなくなったとき。他人の言葉を受け入れられないくらい自分に余裕がないときとも言える。それかもしくは、自分のこころが欲している言葉になかなか出会えずに歯がゆい思いを繰り返しているうちに、そういう言葉にはもう出会えないんじゃないか、という諦めが自身を覆っている、そういう状態なのかもしれない。若松英輔「本を読めなくなった人のための読書論」を読んで、そういう状態になってしまう自分の姿を思いうかべ、おののいた。

 

幸いなのか、自分はまだ「一時期本を全く読めなくなったんだ」と振り返るような過去はなく、ちょっとづつではあるけれど時間があればページをめくる、ということが習慣になっているけれど、それでももちろん読む気がないときは、ある。眠い朝の電車内とか。それがもっと長いスパンで、読めないときがくるのだとしたら・・・。そういうときは、この本が教えてくれたように、無理に読もうとするのではなく、書くと良い。自分を救ってくれる言葉に出会えないと嘆くのなら、自分の正直な想いを、書けば良い。書くということが、誰のためでもなく自分のために大事なことなのだということに気づいた。

 

本を読めなくなった人のための読書論

本を読めなくなった人のための読書論

  • 作者:若松 英輔
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「楽しく仕事をしたい」「落ち着いて仕事をしたい」自分でそう思えば思うほど、そうはいかない現実にイライラし、落ち込んでしまう。他人から「もっと楽しそうに仕事しなさいよ」「もっと落ち着いてしゃべりなさい」と言われるたびに、こころの中では「そんなこと、言われなくても分かってるよ」「分かりきったことをくどくどと・・・」とつい反抗してしまう。そんな自分に気づいて、また落ち込む。負のスパイラルだ。

 

自分で選んでやっている仕事であるにもかかわらず、楽しくできていないのだとしたら、その原因は周りにあるのではなく、自分にある。そんなこと、誰に言われなくても分かるだろうに。自分のオトナとしての器量のなさを、人や環境のせいにしてはいけない。人や環境に問題があるのだとしたら、それを変えられるのは自分しかいないだろうに。もしくは、人や環境がそのままであっても、こころを波立たせないように自分をコントロールするしかないだろうに。

 

心を波立たせない

「それは抵抗のつもりなのか。だとしたら下らない抵抗だな」

 

自分では抵抗だとは思っていなかったのだけれど、指摘されて冷静に振り返ると、そうか、抵抗していたのか自分は、と気づいた。そして、落ち込んだ。

 

確かに、そこに気遣いはなかった。イライラし、ついその感情が態度に出てしまった。不機嫌になる自分が嫌だったから、さあ上機嫌に、上機嫌に、と意識して、上機嫌になるための本も読みながら出社して、結果がこれだ。意識しているつもりが全然実行できていない。

 

本音を言えば、「そう言われて傷ついています、自分は」ということを相手に伝えたいという想いがあった。もしそのことに気づいてもらえなかったら、これからも傷つくようなことを言われ続ける可能性があるから。何を言われても心を波立たせないように自分が変わればよいのだけれど、それができない以上、「傷つきます」を伝えなければならない。そうでなければこれからも楽しく仕事をしていくことができない。そう思ってしまった。しかしその態度が結果として、場の空気を悪くし、相手を不愉快にさせ、自分も落ち込むことになった。全然いいことない。

 

心を波立たせないようにしましょう。いつもおだやかでいましょう。自分のペースでていねいに暮らしましょう。これが大変なことがおきても乗り越えるためのコツなのです。

(松浦弥太郎「孤独を生きる言葉」河出書房新社)

 

つらかったり、苦しかったり、

それこそ泣きたくなったり、

もうだめだと思ったり、

そんなことはしょっちゅうだけど、

そんなふうに何かあるたびに、

ふっとちからを抜いて、

何度も立ち返る場所というか部屋のよう。

それが、

いつも笑顔でいること。

にこやかでおだやかでいること。

いちばん大切なこと、手放したくないこと、

眉間にしわが一本入ったら、二本に増やすのではなく、

無理にでもしわを伸ばす。

(松浦弥太郎「泣きたくなったあなたへ」 PHP研究所)

 

心を波立たせない。表に出さない。仕事のスピードは落ちるかもしれないけれど、気にせず、深呼吸して、落ち着いて、丁寧に、ひとつづつ片づけていく。

 

心を波立たせることで、不機嫌になることで、イライラを表明することで、結果として自分が損をするということを思い知ること。

 

自分の幼稚さに眩暈がするけれど、過ぎたことは仕方ない。同じことを繰り返さないように。

 

 

孤独を生きる言葉

孤独を生きる言葉

  • 作者:松浦弥太郎
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/12/25
  • メディア: 単行本
 

 

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

  • 作者:松浦 弥太郎
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2017/04/18
  • メディア: 単行本
 

 

ぼくとわたしと本のこと

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大学に入学した頃、卒業するまでに岩波新書を100冊読むという計画をたてた。均すと年間25冊。1か月に2冊のペースだ。当時の自分にはかなり高いハードルだったけれど、そうでもしないと本を読まない、頭の悪い大人になってしまいそうな気がしたから、やろうという気力が湧いた。

 

なぜ岩波新書なのかと言うと、それは自宅の父の本棚に並んだ大量の岩波新書を見て感動したからだ。昔は表紙が赤ではなく、青であったり黄色であったりしたらしい。父が読んでいたという、色褪せたものも並んだその本棚を見て、小中高と図書室で本を借りた記憶がほとんどない自分は劣等感を感じた。大学生たるものそうであってはいけない、と一人意気込んだ。

 

その目標は、大学生活を謳歌するなかでいつのまにかうやむやになり、「本をたくさん読んだゾ」という実感もたいしてないまま、卒業した。結局何冊読んだのかも覚えていない。典型的な三日坊主だが、でも、本は読むべきものだということ、「学生が本を読まなくなった」と世間で言われて肩身が狭かった中でも自分はまだ読もうとする意識は高い方だということ、それでも何か目標を持たなければ全く読まないままズルズルいってしまうこと、その3つは大学時代に知ることができた。

 

 

夜、事務所にて。仕事がなかなかはかどらない。そういえば、今日は昼ご飯を食べるのを忘れた。いや、忘れたというのはうそだ。食べに出かけるのが億劫なくらい、目の前の業務の波におぼれていた。だから腹が減ったので、息抜きもかねて外へ。ラーメンを食べた後、立ち寄った駅前の本屋で、平積みにされたそれに真っ先に目が合って、心奪われた。

 

カバーがない。背表紙にはバーコードも定価表示もない。あるのは白地に、本を持つ男性と女性の絵。背表紙は、女の子に本を渡す男の子の絵だろうか。無防備な表紙が本屋のほこりをわずかに帯びていて、新刊であるにも関わらずエイジング感を感じたくらいだ。そんな美しい装丁もさることながら、自由が丘の大学の教授と21人のゼミ生が著者、というのが面白い。大学生の「いま」に触れられると思ったし、なにより、自由が丘で働く自分が自由が丘の本屋で自由が丘の大学生がつくった本を手に取るという、街に媒介されたストーリーに、自ら飛び込みたいと思った。

 

いまの大学生の、正直なまでの「いま」が詰まっている。昔は本を読まない少年だった、そんな言葉に出会っては、あぁ自分だけじゃないんだ、と安心する。自分の本棚をつくりたいという欲望の話を読んでまた、いまの自分と同じことを十数年年下が考えていることに安心する。末尾に「本書に登場する本・雑誌」という一覧があり、その中に自分の好きな作家の本が複数あることに気づいては、自分の選書もあながち間違っていないんだ、と安心する。自分のこれまでの本との付き合い方を認めてくれて、「それでいいんだよ」と肩をたたいてくれる、そんな本だ。

 

岩波新書を100冊読むなんて無茶をして挫折し、それでも「じゃぁもういい、本なんて知るか!」とそっぽを向かずに済んだ、大学時代が懐かしい。

 

ぼくとわたしと本のこと

ぼくとわたしと本のこと

  • 作者:高原純一,SUN KNOWS
  • 出版社/メーカー: センジュ出版
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本
 

 

水準

森田真生「数学の贈り物」を湯船につかりながら読む。自分より少し年下の独立研究者が、アインシュタインやデカルトなどの先達の言葉を用いながら、静かに語る。膨大な知識・知恵を得て考えているのだろうと思わせる言葉に触れ、自分も同じように考え抜かなければ、と思う。

 

先人の涙ぐましい努力が生み出した技術をただ便利に消費しているばかりでは、一向に「それが生み出されたとき」の水準以上の思考ができるようにはならないだろう。

 

片手に収まるこの美しく洗練されたコンピュータを生み出したのと同じくらいの情熱と意志と知恵を、僕らがこの技術に見合う存在に生まれ変わるために注ぐことができれば、世界はきっといまよりずっと、生きがいのある場所に変わっていくだろう。

 

スマホをただ漫然と消費するのではなくて、それによって得られる便利さを、自分をさらに成長させるためのエネルギーに転嫁させなければならない。そう思った。

 

 

仕事ではポカもする。自分ではそんな意図は全くないのに、結果として不誠実ととらえられるようなことをしてしまう。いつだって、仕事に対する「自己評価」よりも低いリアクションに、悩まされる。いまこの状況から逃げ出したい、かっこ悪いと思われたっていいや、と思ったことがこれまで何度あっただろう。

 

それでも最終的に逃げないということを選択してきたのは(逃げたこともあったかもしれない・・・)、逃げるのが恥ずかしいからでもなければ、怖いからでもない(恥ずかしいし、怖いけれど)。逃げる、つまり、もうどうだっていいや、という気分に任せて投げ出すことが、相手が一番望まないことだろうと思うからだ。

 

自分が逃げても誰も困らないなら、逃げる。あと、自分がどうあがいても相手にとって不幸になると確信してしまったら、逃げる。それ以外なら、できる限り誠実に、相手が望む結果になるよう、動く。

 

仕事とは、そうやって自分の身体や頭をはたらかせて、相手に幸せを感じてもらって、その結果、ありがとうと言ってもらうための営みなのだといまは思う。

 

スマホのような革新的な技術を生み出したかつての先人の努力の結晶を使って、その水準以上の思考をし、その技術を使うにふさわしい自分になろうとするように。仕事を通して、どうしたらありがとうと言ってもらえるのか、先人の水準以上の思考力で考えようとしなければならない。

 

数学の贈り物

数学の贈り物

  • 作者:森田真生
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 単行本
 

 

1か月に一度の散髪

今年初めての美容院。ちょっと髪が伸びすぎて、うっとうしと感じるようになったからだ。

 

尊敬する松浦弥太郎さんが「2週間に一度散髪する」ことを意識しているということを知って以来、自分も、まぁ2週間に一度とまではいかないまでも、1~1.5か月に一度、髪を切ることを習慣にしようと思うようになった。髪が短い方がさっぱりしていて過ごしやすいという理由もあるけれど、それよりも、社会人として最低限の身だしなみを頭から整えておこうという気持ちが強い。こうして、まだ見ぬ尊敬する他人に少しでも近づきたいと行動に移す。

 

マスターに会ったのは社会人になってすぐだから、もうすぐ14年になる。それから定期的に会って、他愛のない話をしながら、髪を切ってもらっている。改めて、贅沢で貴重な時間なのだということを知った。問題は、4月に引っ越したら散髪をどうするのか、ということだ。いままで千葉から都内まで通っていたその通勤時間を、職場近くに引っ越すことで大幅に減らせるという点が大きなメリットなのに、1~1.5か月に一度、いままで通勤に要した時間を使って千葉まで散髪に行くのもどうなんだろう。若干の不安はあるけれど、今現在、引っ越し先で新しい散髪屋を探すより、いままで通りしれっと、「あ、どうも」なんて言いながらいつもの美容院へ行く方が自分にとって自然だと感じている。そう思えるのはきっと、社会人になってからこれまでの約14年間、髪を切り続けてくれたこの美容院が、清潔で、アットホームで、楽しくて居心地の良い時間を与えてくれるからに他ならない。「住む街を変えたら美容院を変えるのは当然。新しい美容院を開拓することで新しい美容師を知り、視野が広がる」そういう考えもあるのだろうけれど、いまの自分にはどうもしっくりこない。

 

「やっぱりイエモンですよねぇ」閉店間際で他にお客さんがいないからだろう、自分のために好きな音楽をかけてくれた。「球根」を聴くと必ず身体に流れる電流で、シャンプーをしてもらっている自分の頭が動かないように必死に止める。「最近本は何を?」「松浦弥太郎さんの本を。これなんですけどね。」「へぇ、いいですねぇ。40歳はとうに過ぎちゃったけど。よし、買おう」松浦弥太郎さんのように素直で正直、他人が喜ぶようなことをさらっと口にしてくれるこのマスターがかっこいいと思うから、松浦弥太郎さんがそうであるように、せめて一か月に一度、髪を切ってもらうことを習慣にして、その贅沢で貴重な時間をこれからも味わい続けたいと思う。

 

40歳のためのこれから術 幸せな人生をていねいに歩むために

40歳のためのこれから術 幸せな人生をていねいに歩むために

  • 作者:松浦 弥太郎
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2012/11/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

レジ袋

毎週末、スーパーで1週間分の食材をまとめて買う。レジに並ぶと、袋はいかがしますか、と店員さんに聞かれるので、最近は聞かれる前に、「大きい袋、1枚(たまに2枚)お願いします」と言う。以前はレジ袋は無料だったけれど、いまは有料だ。マイバッグを持ってくるなどして袋の供給を減らそうというものだ。袋にだって原価はかかっているのだから。

 

毎回マイバッグをかばんに入れるのを忘れては、1枚袋を買っていた。が、昨日は忘れずにマイバッグを持っていくことができた。袋はいりません、と答えるちょっとした優越感。しかしその日はお米5キロを買った。お米など大きくて重いものを入れる袋は通常無料だ。「お米用の袋はおつけしてよろしいですか?」律義に店員さんに聞かれ、もしかしたらかばんの中に入るかもしれないからそれすらもいらないんじゃないか、と思ったけれど、お言葉に甘えて受け取った。結局はかばんに入ったから、お米用の袋もいらなかったことになる。不要だと思ったら、たとえ無料だろうが受け取る必要はない。

 

スーパーでは袋が有料というのも珍しくないのに、本屋で買った本を入れる袋が有料だという話は聞いたことがない。本屋の利益率の低さにのけぞったカリスマ書店員さんが、袋を有料にするシステムを本屋に導入したらどれだけ経費が削減できるのだろうか、と提起する。マイバッグを持っていき「袋はいりません」なんてかっこつけるまでもなく、本は剥き出しで手に持っていても、脇に挟んでいても、様になる。ぜんぜんかっこわるくない。「袋はいりません」を本屋でも口癖にしたいと心から思った。

 

本当に袋が必要なら、たとえ有料だとしても買うだろう。本屋こそ、袋を有料にすべきじゃないか。

 

小脇に抱えて様になるのは、断然、水菜より本である。

 

本屋の新井

本屋の新井

  • 作者:新井 見枝香
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/10/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本を贈る


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ずいぶん長い間、本屋で何度も見かけては目をそらし、を繰り返していた。手に取らなかった理由を言葉で説明するのは難しい。ある時は手持ち不足で。ある時は別の本が目的だったから。そしてある時は・・・自分にとって大事な本としての匂いがするのだけれど、期待が大きいがゆえに、読んでがっかりするのが怖かった、と言うと正確だろうか。

 

そして今回、ようやく迎えいれた。結局は楽天ブックスで。これまで目にしてきた街の本屋さんには本当に申し訳ない。別の本を買うから、ということで許してほしい。

 

島田潤一郎さんの「本は読者のもの」を読みながら、自分への、他人への、贈り物としての本を考える。考えながら、両手の指先が触れている表紙の紙質の良さを感じる。そうだ、情報を得るための本、ではなく、モノとしての本、物質としての本が好きだから、人は本を読むのではないかと思った。大事にずっと手元に置いておきたくなるような、手で触っていたくなるような、そんな本を、自分は自分に贈りたいし、他人にもプレゼントしたい。そう思った。

 

本を贈る

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