風呂に入る×読む

別々の作業を同時に行い、それぞれに対応できるような心身を鍛える。そうした「複合力」をつけることが大人にとって重要だということを、知った。一つのことに集中するのも良いけれど、そうしていると使わない身体や脳の部位がでてくる。その使わない部分を暇だと考えて、その暇をなくそうとしてみる。そうして、身体に複数のことを同時にこなせるようなキャパシティをつくる。要は、行動・思考の量を増やしても音を上げない身体をもった大人になりたい。

 

著者が普段から実践している複合行動を読みながら、では自分にとっての複合行動はなんだろうと考える。そして、あぁ、意識してやっていることといえばこれだ、というのが、「風呂に入りながら本を読む」ということだ。

 

浴槽につかりながら、本を読む。読む本は、毎日違う。風呂に入る前に本棚の前に立ち、さてどれを読もう、と考える。1~2分。この時間がまず楽しかったりする。そして本を選び、湯船に入る。浴槽にふたをして、そのうえにバスタオルを置いて、その上に本とひじをのせて。身体があたたまっていて気持ち良い分、心なしか文字情報がすんなり頭に入る気がする。

 

ずいぶん前、これで文庫本を湯船に沈めてブヨブヨにしてしまった。そういうことがあると紙の本と風呂とは相性が悪いと気づくのだけれど、いまはもうそのときはそのとき、と諦めている。それよりいまは本なしに風呂に入ると退屈で仕方ないと感じるようになってしまった。これも習慣の力なのか。

 

これは一つの例だけれど、こうした複合行動をもっと意識して、柔軟な心身を身に着けたいと思う。

 

AI時代対応 大人の知的習慣 「複合力」こそが究極の効率化である

AI時代対応 大人の知的習慣 「複合力」こそが究極の効率化である

 

 

 

クリスマス会と絵本

11月。もう年末が近づいている。こういうとき、一年間なにひとつ進歩がないじゃないか自分は!と思わずにいられない。そのくらい、自分が成長したという時間がなくて、焦る。仕事で大きなこと(小さなことでもいいのだけれど)を成し遂げたという達成感も、いうほどはない。みんなそういうものなのだろうか、自分だけなんじゃないか、と不安にかられる。

 

 

去年、管理組合の運営サポートをさせてもらっているコーポラティブハウス恒例のクリスマス会で、プレゼント交換用のプレゼントに絵本を選んだ。去年出会った絵本専門店で、表紙の絵の迫力にしびれて、プレゼントにいいんじゃないかと思った。「Michi」立体的に交差する「道」を歩く少年の絵が素敵だ。

 

その絵本作家さんの新しい本が出たということを、これまた好きで良く行く谷中の本屋さんのSNSで知って、去年のクリスマス会を思い出した。もうすぐ一年経つ。

 

「わたしの お気に入りの コートの ポケットの中の お城の・・・」「の」でつながれた言葉がどんどん広がりを見せ、大きなストーリーを展開するという。どうやって物語が紡がれていくのか、まだ読んでもいないのに、読んだ瞬間のことを想像してドキドキしている。

 

その作家さんのSNSのアカウントを見ていたら、私の好きなイラストレーターも彼のことをフォローしていて、驚いた。こうやって「好き」はいつもつながっている。「好き」と思うものが同じだということが、こんなにうれしいのだと知ったのは、割と最近のことだ。

  

Michi (福音館の単行本)

Michi (福音館の単行本)

 

Uber Eats

Uber Eatsのことを意識したのは割と最近のことだけれど、街中で四角いかごを背負って颯爽と自転車を走らせる人を本当によく見かけるようになった。今日も自宅近くで一人、事務所近くで一人、すれ違った。それだけ需要があるということなのだろう。自宅にこもりたいなんて時は誰にでもある。誰ともコミュニケーションをとらず、スマホだけで注文を完結させ、少ししたら自宅に食べ物が届く。確かに便利だし、試してみようという気にもなる。

 

そんな思いから何の気なしにアプリをインストールしてみる。見てみると、確かに自宅近くのファーストフードからレストラン、カフェ、ケーキ屋まで、いろいろなお店が対応している。これはすごい。・・・と思うのだけれど、やはり今一つ「じゃぁ注文しちゃおう」という気持ちにならない。その理由の一つを他人から聞いて、なるほどと手を打った。

 

そのお店の人じゃない、どこのだれだか分からない人が届けてくるという事実。そこにどうしても安心感が感じられず、身構えてしまう。それが本心なのかもしれない。便利である一方、自分と信頼関係があるわけではない人が届けてくるということに、不安を感じる。そんなこと言ったら、街の飲食店でご飯食べることなんてできないじゃないか、と言われるとそれまでだけれど、でもそれとも違う何かがある。たぶん自分とは相性が合わない、ただそれだけなのだと思う。アマゾンはOKで、クロネコヤマトはOKで、Uber EatsはNG、そんな理由、うまく説明できない。

 

このサービスが消費者に求められる本質は、「スマホ操作一つで注文が完結する」便利さにあるのだと思っている。店に足を運ぶ時間も、店員さんに対して注文を口にするコミュニケーションの時間も、必要ない。そういう時間を「コスト」だと感じる人、コミュニケーションを「労力」だと感じる人にとっては、こんな夢のようなサービスはないだろう。

 

一方で自分は。行きつけのカフェに毎週末行く、その動機の90%は、おいしいコーヒーを飲むということではなく、その空間に身を置き、店主夫婦としゃべり、その時間を楽しむことだったりする。つまりコミュニケーション自体が目的になっている。もちろん人と会うのが億劫だと感じる時だってないわけではないけれど、自分の場合、外で食事をする(初めての店は除く)動機の大半は、そのお店に行くこと自体に目的がある。自分にとってコミュニケーションは基本的に負担ではなく、欲しいものだから。

 

だから、スマホ画面をスクロールしていって、ふと毎週末行っているカフェの名前が出てきた時も、「お、注文できるんだ」と一瞬驚きはしたけれど、「いいね、じゃぁ自宅で注文しちゃおう」とは思えず、スルーした。だって、ここで注文したんじゃぁ、店主のいつもの屈託のない笑顔を見ることができないじゃないか。

 

求めるものが二極化している。一つは極限までの省コスト化。手続きに要する時間をなるべくなくす。スマホだけで賃貸借契約までできる、内覧しないで、敷金礼金だけでなく仲介手数料も無料。そんな部屋探しを「夢のようだ」と思う人もいるだろう。もう一つはまったく逆で、コミュニケーションを楽しむこと。例えば自分の好きな手作り市やマルシェ。つくり手に会い、話を聞きながら、直接買う。そのフェイストゥフェイスに意味があるのであって、作り手に直接リスペクトを表明できることに買い手として嬉しさを感じるのであって、そこは絶対に無駄な時間ではない。気に入って使っている箸を作家さんになおしてもらうのに、箸を郵送することもできるけれど、そうはあまりしたくなく、手作り市など会える時に持っていって直接依頼したい。そういうコミュニケーションは、スマホ決済によってカットしたくない。

 

大切なのは、自分はどっちということではなくて、両方をメリハリつけて求めることだと思う。コストを省きたい買い物についてはとことん省く。そうして自分の大切な時間とお金を守る。そのうえで、これは時間をかけて、相手としゃべりながら消費するのだ、というものを確保する。そのメリハリが、自分には必要だ。

 

修復して使う

一昨日の「なんでもベスト3」の続き。いま、自分の身のまわりで「なおして使いたいもの」が3つある。それが靴、腕時計、箸だ。

 

 

買い替えるのではなく、修復して使う。その魅力に気づいたのは割と最近のことだ。いままでは、新しく買うことで新しい気持ちにもなると感じていたし、多少なりとも作り手の売り上げにも貢献するだろう、とも思っていた。しかしその考えがだんだんと変わり、愛着をもって使っていたものをさらに使い続けるための方法として、「なおす」という行為を見直すようになった。

 

 

靴は、negroniのスニーカー。履き心地の良さにびっくりして、以来ずっと履いている。デパートで気軽にラバーソールの交換を依頼できるので、何度かお世話になっている。そしていま、またラバーソールが傷んできているので、交換しようと思っている。その際には、劣化したひもの交換などもお願いしようと思っている。

 

http://negroni.jp/

 

 

腕時計は、大学生の時に買ってからずっと大切に持っているものだ。リコーエレメックスの「WALG」というもので、剣をモチーフにしたデザインに鋭さを感じ、惹かれた。社会人になってからもしばらく使っていた充電式の腕時計なのだが、あるときから、何度どれだけ充電しても動かなくなってしまった。専用の台に乗っけて充電するタイプのもので、時計屋さんに持って行って充電池を交換する、というものではなさそう。だからどうやってなおすのか、不明。正直なおせるのかどうかも、不明。だけどちゃんとなおして、また腕にはめたい。そうしてなおす方法を、調べている。

 

 

そして箸。2年くらい前に手づくり市で出会った作家さんの箸だ。自分よりやや年下であろう女性がつくったというその箸は、自然で、飽きの来ないデザイン。正直箸なんて消耗品だから汚くなったらすぐ買い替えるものだ、だから何だっていい、くらいにしか思っていなかったけれど、それもつまらないとなぁとも思ったから、思い切って買ったのが最初。使い心地はすごく良い。しかしやはり先の塗装は徐々に薄くなり、頭の漆も剥がれてきた。そのことを作家さんに相談したら、お直しも出きますよ、という返事。そうか、その手があったか、と思わず手を叩いた。箸をなおしてもらい、また使う。なんて素敵な体験だろうか。

 

https://yomoyanoume.amebaownd.com/

 

 

これら3つを思い浮かべていたら、どれも「自分の身に触れるもの」であることに気づいて、わぁ、ってなった。歩く時の足を包み、腕にくっつけ、そして食べ物と一緒に口に含む。そういう「触れるもの」であるからこそ、自分の身体が許すものを大切に使いたい。傷んだら、買い替えるのではなく、修理して再度使う。自分の身体が無意識に「修復してまた触れること」を選んだのかもしれないと思った瞬間、それらへの愛着が倍増したように感じた。

 

どんな夢も叶えるバンドができたよ

なんでもベスト3。自分の好きな物について、興味のあることについて、3つに絞るとしたら何があるか。考えるだけでも面白い。

 

好きなバンドベスト3。LUNA SEAとTHE YELLOW MONKEYは外せない。というかこの2バンドだけでいい。3だったら、あとはGLAYか。この3バンドは自分の中で別格だ。

 

LUNA SEAで好きな曲ベスト3は?「STORM」「TONIGHT」「Sweetest Coma Again」かな、いまなら。王道+ちょっとひねる。でも「Sweetest Coma Again」は昔から大好き。聴くたび、震える。

 

THE YELLOW MONKEYで好きな曲ベスト3は?「JAM」と「球根」の2大巨頭。これに「SO YOUNG」が加わってベスト3だと思っていたけれど、今回「DAN DAN」を聴いて、「SO YOUNG」をMステで聴いた時の衝撃を超えたんじゃないかと思っている。とにかく楽しそうに演奏している4人が本当にうらやましい。

 

「どんな痛みにも耐えるあなたに会えたよ」そんなん言われたら、辛いことがあったって、逃げずに、耐えなきゃダメなんだ、って思っちゃうじゃないか。でも「始まったばかりでそんな気にしないでいいよ」とも言う。まぁ、気にしなくていいか。

 


THE YELLOW MONKEY – DANDAN (Official Music Video)

 

読み続けることを目的とした本選び

自分と本との関わり方について、考えている。

 

家具屋さんに本棚をつくってもらってから、本を買うハードルが格段と低くなった。要は本を受け入れる容器がかなり大きくなったわけで、本屋で多少なりとも気になった本は、まぁいいか、場所ならあるし、と思って買うようになった。これはいい変化だと自分では思っている。

 

「本棚がいっぱいになるまで本を買うこと」自体が目的になっていることに気づいたのは、割と最近のことだ。そうすることで、本棚をつくってくれた家具屋さんも喜んでくれるんじゃないか。本でいっぱいになった本棚を眺めることで、自分の心が満たされるんじゃないか。そう思うようになっていた。仕事帰り、特にこれといったものがなくても事務所近くの本屋に寄ることが増えたのも、なにか面白そうな本があったら見繕って、本棚を埋めたい、という欲望が頭にちらつくから。そうやって、「この本棚が埋まるくらいのたくさんの本を買い、読んでいる自分」に酔いたがっていた。そしてその酔いがさめているのかいないのか、ふと冷静に本棚に並ぶ本を眺めながら、その大半の内容が頭に残っていないんじゃないかと気づいて、少しぞっとした。これじゃぁ「読んでいる」のではなく「買っている」「置いている」だけだ。

 

本を読んで得た情報、知恵を自分の血肉にすることも大事だけれど、本は読む時間の心地よさそのものに意味がある。だから読み終わった後に内容を覚えていることは必ずしも重要ではない。そういう意見に以前ふれて、なるほどそれもその通り、と思った。だから例えば小説は、読んでいる時のハラハラドキドキ感を楽しむことを大事にしているし、読み終わってしばらくしてストーリーが思い出せなくても、まぁいいやと思うようにはしている。だけどそれだけでは何か物足りないとも思う。やっぱり読んだことによって読む前とは違う、成長した自分になっているようでありたい。

 

買う本を選ぶ一つの大きな基準として「何年たっても飽きずに読むことができる本か」「ずっと本棚に置いておけるくらい情報が経年劣化しない、普遍的な本か」というのを掲げてきた。本屋でも自然とその基準でもってふるいにかけ、本を手に取ってきた。そうすることで、本がむやみに増えるのを避けてきた。けれどそう考えるのもちょっと視野が狭いのではないか、もっと自由に選んだらいいんじゃないか、と気づいた。おとといのことだ。

 

何年も読み続けることを目的とした読書、何年も読み続けることを最初から前提とした読書なんて、そもそも面白くない。もちろんずっと読み続けられる価値のある本に出会うことは大事だし、100冊の本を斜め読みして何も残らないよりは有意義だとは思う。けれど、最初からそれを目指して、それに値する本だけを手に取ろうとしていたら、出会いのチャンスを少なくしてしまう。時間の経過とともに社会は変わり、本の内容もどんどん新しくなる。いままで「こうすべき」と言われていたことが、新しい技術やアイデアが生まれることによって、古くなることもある。少し前まではこう言われていたけれど、別の視点からいまはそうではないという考えが常識、ということもある。だから、ずっと腐らない本を手に取ることを目指すより、いま自分に与えるべきなんじゃないかと思う本を、自分のアンテナが感知する信号を信用して読むことが大事なんだと思った。

 

だいたい、ずっと何年も読み続けられる本かどうかなんて、本屋でパラパラめくって見た程度では分からないんじゃないか。これこそはと思っても、帰って読むころには熱も冷めて、そんなに面白くなかったな、ということが実際にはある。自分が設定していた基準も、なんて曖昧なんだろう。

 

ある本がずっと読み続けられる本かどうかを判断するのは、最新の類似本を読んでみて、他にも同じことを言っていそうな本を複数読んでみて、それらの本に代替できないということを検証してからだ。そう気づいてから、読み続けることを目的とした本選びは、やめようと思った。

本のリレー

岡本仁「果てしない本の話」を読んでいる。少し前に「続々 果てしない本の話」を読んでその構成に惹かれ、今日本屋でその前編を偶然見つけ、手に取った。本にまつわるエッセイで、ある本から別のある本へ、リレーのようにバトンがつながっていく。美術に建築、音楽と、さまざまなジャンルを縦横無尽に行き来する本のリレーに、読んでいる方も興奮してくる。きっと、広範囲にわたっての好奇心があって、好き嫌いなく(嫌いなものも嫌いであると認めたうえで)たくさんの本を読んできているのだと思う。

 

実際の出来事と、関連する本とを結びつける作業を面白いと感じるようになったのはいつからだろう。そんな折にこのエッセイを読んで、自分もそうやって出来事と本とを結びつける文章を、書きたいという想いを強くした。しかしそのためには、日ごろから習慣のように本を読むこととと、その本にまつわる出来事を記憶しておく必要がある。読んだというストックが少ないとバトンをつなぐ相手がいなくなって終わってしまう。また、なにかいいことがあったなぁとその時は印象に残っていても、3日経って忘れてしまったら文字にすることができない。意外とハードルは、高い。

 

リレーのようにストーリーがつながっていく、ということから伊坂幸太郎「ラッシュライフ」を思い出す。ちょっと間抜けな泥棒。宗教にのめりこむ青年。不倫相手との再婚を企む女性。野良犬を拾う無職の男。4人のそれぞれの物語が少しづつ交差して、ある人の出来事が別のある人の出来事を支えているということが徐々に分かってくる。村上春樹の「1Q84」で初めて別の主人公の話が交互に進むという手法を知り、そのあとで「ラッシュライフ」を読んだから、4つもの話がどう収束するのだろうという期待が過度に膨らんだのはよくなかった。もっと予備知識なく、あまり期待することなく読んでいたら、もっとそのスリリングな展開にドキドキできたかもしれない。

 

「ラッシュライフ」を読んでいたのを鮮明に覚えているのは、事務所近くのガレット屋さんで、夜、事務所を抜け出して休憩していたときのことだ。一度行っただけで顔を覚えてくれて、二度目には「この間来てくださいましたね」と声をかけてくれたその店員さんは、聞くと小説を読むのが好きで、自分がその時手にしていた「ラッシュライフ」に興味をもっていた。「伊坂幸太郎。私、好きでよく読んでるんです」そんな好きな本の話を店員さんにすることなんてあまりなかったから、少し緊張した。彼女はその代わりと言わんばかりに、天童荒太「家族狩り」をオススメしてくれた。オススメされた、というとちょっとニュアンスが違う。オススメはしません、読むと暗い気持ちになりますから。だけど人間の本質を知れるような気がして、いいですよ。そう丁寧に教えてくれたことで完全に自分はノックアウトされ、このお店の大ファンになった。

 

あれから何年経ったんだ?しばらく行かないうちにその店員さんはお店を辞めてしまい、またしばらく経ったら閉店してしまった。自分がお店の売り上げに貢献できなかったことを悔やみながら、本棚に置かれた文庫本を眺める。第三部「贈られた手」まで来ているが、まだ読み終わっていない。彼女の言う通り、暗い気持ちなることを無意識に避けているのだろうか。読みたいという気持ちはあっても読めないということが現実にあることを、この本で思い知った。

 

果てしのない本の話

果てしのない本の話

 

  

ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)

 

  

贈られた手―家族狩り〈第3部〉 (新潮文庫)

贈られた手―家族狩り〈第3部〉 (新潮文庫)

 

 

ALL STANDARD IS YOU

twitterは、リアルタイムで起きている出来事を手っ取り早く知る手段としてすごく重宝する一方、ある記事に対する主張とそれに対する反論というように議論がなされ、それが、ある時は口の悪い言葉で交わされるので、見ていて気持ちが悪くなることが多い。だったら見なければいいのに、といつも自分に言ってはアカウントをつくることも閲覧することも遠ざけるのだけれど、でもたまに見てしまうからいけない。

 

この3日間は台風関連のニュースで気が滅入っていた。自分の力ではどうすることもできない、そんな出来事に対してテンションが下がるこの感じ、いい加減何とかならないだろうか。今日もだからtwitterのリアルタイム検索はやめようと思って、ふとトレンドを見たら、そこに「GLAY」の文字が。そうか、今日は幕張メッセでテレビ朝日のドリームフェスタをやってるんだ。このあとはLUNA SEAか。何を演奏するんだろう・・・と連休最後の夜、少しわくわくしながらリアルタイムの報告を待っていた。

 

GLAYのセットリストをチラ見して、その報告者が驚きながらツイートしているのと同じように、自分も胸が躍った。アルバムも通して彼らのことを知っているファンじゃないと知らないであろう曲をたくさん演奏していた。なかでも「ALL STANDARD IS YOU」は自分にとっても特別な曲で、この曲を演ったというのを知って、彼らの気迫を感じた。18曲も詰め込んだモンスターのようなアルバム「ONE LOVE」が世に出たのは、調べたら2001年。18年も前になるのか。そのアルバムの1曲目を飾る大好きな曲。きっと観客は生唾をのんで彼らの演奏の渦の中を泳いでいたに違いない。

 

静まり返り、ピアノだけの演奏の中、「あなたの・・・」縛りの8連続の言葉をつぶやく。そしてギターとベースが加わって爆発する。何も知らずにこの曲を聴いて、この瞬間に鳥肌が立たない人がいるだろうか。「あなたの・・・」縛りの言葉を頑張って順番通りに暗記したのは、その言葉があまりに美しいからだ。今日も、その言葉を順番通りに頭の中で反芻する。そう思える人がいる自分の幸福を想わない日はない。

 

 

あなたの 優しさ降らない日はない

あなたの 夢を見ない日はない

あなたの 空が曇る日はない

あなたの 歌が届かない日はない

 

あなたの 温もり求めない日はない

あなたの 未来支えない日はない

あなたの 道を照らさない日はない

あなたの 笑顔に酔わない日はない

 

(GLAY / ALL STANDARD IS YOU)

 

遠くにあるのはきっとキレイな月

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191013163921j:plain

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191013202915j:plain

 

自然の脅威を前にすると、人間って無力なんだなぁとつくづく思う。どれだけ前もって警戒していたって、災害は起きる。「過去にない規模の台風が上陸しましたが、死者はゼロでした」とニュースで流れるなんてことは、ありえないのか?

 

一晩過ぎると、まるで何事もなかったかのように穏やかに日がやってくる。行けないだろうなぁとなかば諦めていた相模原に、遊びに行けてしまった。こうやっていつも日常の危機は、その恐ろしさを一日で忘れさせてしまう。

 

この、やたらきれいな満月はなんなんだ。まるで昨日の胸のざわつきを帳消しにするかのような、恐ろしいほどに輝いた満月は。

 

遠くにあるのはきっとキレイな月

(THE YELLOW MONKEY/Changes Far Away)

台風の目

非常に大きな台風19号が上陸している最中、これを書いている。今日は一日家から出ていない。出るのさえも怖い。大きな川に挟まれているような場所にある自宅エリアのことを、昨日は他人に「人間の住む場所じゃないじゃないか」と言われてたじろいだ。そんな場所を気に入って自分は13年住んでいるのだが・・・。

 

いまのいまは、気味が悪いくらい静か。レーダーを見るともう通過したようにも見える。でも台風の目に入っているだけかもしれない。まだ油断はできなさそう。

 

こんなに一当事者として台風を恐れ、避難することも真剣に考えたのは、初めてかもしれない。市内の内陸の方は避難勧告が出た。自宅に関しては、浸水の心配もなさそうだし、窓ガラスも大丈夫そうだ。ガラスに貼るほどの段ボールが家になく、また養生テープやガムテープもなかったのでどうしようかと思っていたけれど、なんとかなりそう。それよりも、河川の氾濫や土砂崩れ、竜巻、ダムの緊急放流などのニュースを見て、落ち込むというサイクルに陥っている。仕事で携わっている住宅の入居者、無事であれば良いのだけれど・・・。

 

こういうときは、無事を祈って家でじっとしていよう。とりあえず現状、家にいるのが一番安全っぽい。

 

ドイツビール

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191006192355j:plain

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191006194226j:plain

 

半年ほど前に偶然再会した大学時代の友人と、久しぶりに食事。彼はどこか突拍子のないことを行動に起こす。ブラジリアン柔術の稽古で週2で自由が丘に通い、今日は広尾で試合だったのだとか。真っ黒に焼けた彼の身体は引き締まり、ケンカでもしようものなら絞め殺されるんじゃないかという、そんな強さをにじませている。それと穏やかな表情とのギャップに、戸惑う。

 

中目黒でドイツビールを飲む。こういうときはちょっと多く飲んでもいいだろうと思うのだけれど、でもすぐ酔い、目が充血し、頭がいたくなり、眠気が襲ってくる。やっぱり自分を過信してはいけないと思った。ゆっくり飲んでたっぷりしゃべってたらいいんだ、と改めて思った。

 

シメはコーヒー。下戸にはこれがいい。栃木へのドライブ&コーヒー屋台巡り計画、楽しみにしている。

電子書籍にはいまだに慣れない

読み始めたのはいつだったか、何年前だったか、もう忘れてしまった。もしかしたら単行本が出てすぐだったのかもしれない。でも単行本では買わず、電子書籍で読み始めたことは覚えている。i Pad mini で楽天koboを試そうと思い立ち、じゃあ小説でもと思ってダウンロードしたんじゃなかったか。

 

最初こそスリリングな展開で幕を開けるも、だんだん読み進められなくなってきた。私はそれをいまでも「紙の本と電子書籍との決定的な違い」のせいにしている。画面だとなんだか目が疲れてずっと見ていられない気がする。残りページ数宇の感覚がないので読み進めている実感がわかない。ページをめくる時のほんのちょっとのロード時間に退屈する。などなど。

 

そんなわけで、割と序盤で読むのをやめ、そのまま数年が経ち、あるとき本屋で文庫本を見つけ、結局はそれを買った。それをさらに時間をかけて読み、ようやく読み終わった。時間こそかかったけれど、でもやっぱり本がいい。

 

ぶっきらぼうで、口が悪く、雑に生きているようで、たまにいいことを言う相葉時之に、「チルドレン」の陣内さんが重なる。冷静沈着、相葉時之に嫌気を感じながらも見捨てることができずに優しく包み込む井ノ原悠は、さしずめ「魔王」の安藤か。ちょっとした仲間の間違いからとんでもない連中と関わることになり、様々なアクションシーンを経て、壮大な規模の悪と戦うはめになる。最後、銀行の貸金庫が重要な舞台になるのだけれど、序盤を読んだのが数年前だったためほとんど覚えておらず、読み終わってから改めて序盤だけ読み返したら、その前フリが出てきていたのに驚いた。そうか、最初に伏線があって、最後に回収されるつくりになっていたのか。伏線に気づかず(覚えておらず)面白さを自ら半減させてしまったパターンだ。

 

「阿部和重×伊坂幸太郎」という共著スタイルだったけれど、自分にとっては、好きな伊坂幸太郎小説として存分に楽しめた。これを機会に、阿部和重作品も読みたい。

 

キャプテンサンダーボルト 上 (文春文庫)

キャプテンサンダーボルト 上 (文春文庫)

 

  

キャプテンサンダーボルト 下 (文春文庫)

キャプテンサンダーボルト 下 (文春文庫)

 

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

V:ヴィンセント -vincent-

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191005145040j:plain

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20191005145225j:plain

 

テレビ神奈川(tvk)の音楽バラエティ番組「sakusaku」を、youtubeで投稿されているのを毎日観ていたのは、10年くらい前のことだ。

 

千葉県民で神奈川のローカルテレビ局になじみがなく、そもそも自宅にテレビがなかったものだから、テレビでリアルタイムで観るなんてことはできなかった。だから最初にハマったきっかけはすっかり忘れてしまったけれど、黒幕さんが操る「白井ヴィンセント」が毎日早口で隣に座る女の子とマシンガントークを繰り広げる様は、シンプルなトーク番組でありながら楽しくて仕方なかった。ローカル番組ならではのシュールな進行。くだらないと言ってしまえばそれで終わりのようなことを真剣に笑い合ってしゃべる。そんな「面白いくだらなさ」が良かった。

 

ヴィンセントがとにかく可愛い。にこやかに笑っていて、大きな帽子が様になっていて、そして雪駄の裏を見せながら座る。黒幕さんがたまに手を持ち上げるたびに、立ち上がって宙に浮かぶのも可愛らしい。そして、オリジナルの曲をたくさんつくり、「みんなでうたおう」と言って素敵な曲を世に放ってきた。「相模原のうた(ハードロックバージョン)」とか「船橋のうた(オアシス風)」とか「多摩のうた(オレンジレンジっぽい)」とか、いまでも頭に残っていて、ふと脳内に流れることがある。

 

この番組がきっかけで、中村優ちゃんの大ファンになり(いまジョギングを続けるモチベーションになっている)、三原勇希ちゃんの可愛さにドキドキし、トミタ栞ちゃんの実家がラーメン屋だと知ったときには有給休暇を利用して飛騨高山までドライブし、ラーメンを食べた(突然のご本人登場にびっくりしすぎて緊張しすぎて、声をかけることもできず店をあとにしてしまったのはいまだに悔やまれる)。そしてヴィンセントの、おもしろおかしくしゃべる上機嫌さに、あこがれた。「みんなしてスマホをヒョヒョヒョヒョしやがって」といって頑なにスマホに反対していたから、当時自分もスマホをもたないことに自信をもつことができた。自分の好きなことについてはいくらでもしゃべっていられる、それくらい「好きなもの」があることが、人生を楽しむために必要だということも知った。何気ないトークのなかに、いまの自分を確実に形づくるようなものがあったのだと思う。

 

U:内田樹 -Uchida Tatsuru-

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20190929160816j:plain

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20190929160924j:plain

 

恥ずかしながら、というべきか、遅ればせながら、というべきか。学生時代は全く本を読まないダメな学生だった。そのときは多分読書のことを「勉強のためにやらなければならない義務」くらいに重くとらえていて、本の内容が頭に入ってこないことにイライラして、苦手意識をもっていたのだと思う。だから読めない自分に腹も立ったし、それで逆に拗ねて、読まなくたって死にはしない、なんて開き直っていたんじゃないかと思う。いまはその反動もあってか、人並みに読むようになったとは感じているし、昔ほど読書に対して身構えることもなくなったから、一冊の中で数行分の「いいこと」が頭に入れば儲けものくらいに思えるようになった。これが小さいころから読書少年だったら、もしかしたらこうはならなかったかもしれないから、結果オーライかもしれない。

 

そしていま、自分が本を読むためのモチベーションとなっているのが、彼の著書かもしれない。彼の本を、彼の思考を、きちんと理解して自分の頭の中で再現することができたら、もっと自分の仕事の効率も上がると思うし、人生も豊かになると思う。身のまわりで起こっていることに対して、自分は傍観者と決め込んでただ眺めているのではなくて、自分だったらこう考える、という自分なりの意見を持つことが大事だということを、いつも教えてくれる。そして、頭で考えないのは論外だけれど、では頭で考えたらいいのかというとそうでもなく、それだけではダメで、身体を健全な状態に保つことが大切だということも、教えてもらった。彼のいうところの武道的身体、自分にとっては中学高校時代に剣道部で培ってきた力のこと。人生で自分にふりかかってくるリスクから身を護るために自分はどう対処するかということは、剣道を修練してきた自分だったら当然考えるべきことだ。中学高校時代、練習が嫌で嫌で仕方なくて、でも強くなりたくて、でもなかなか強くなれなくて悔しくて、がむしゃらに稽古をしていたあの頃の自分の動きも、大人になったいまを丁寧に生きるために大切なことだったのだと、いまになって感じる。

 

「教育とは基本的におせっかいである」本を読むといつも印象的で、刺激的な命題に出会える。サービスがあって、それに満足したから対価を与える。提供者がいてお客がいて、「どうぞ」「ありがとう」がビジネスになる。そういう商取引だけでは説明し得ない社会の仕組みの中を自分はいま生きている。そういう、商取引では説明できない「どうぞ」「ありがとう」を、もっと意識して感じたいと思う。

 

空想絵画

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20190928155854j:plain

 

以前イベントで知り、好きになった絵描きさんが初めて個展を行うということで、東林間のギャラリーへ行ってきた。そのギャラリーは、家族の紹介で知った小さな家。住宅地に入り、本当にここであっているのかと不安になりかけたところで突如、現れた。家族と一緒でなかったら、本当に入っていいのだろうかと躊躇するくらいに、普通の家だ。

 

「ライブペイント」イベント会場で大きなキャンバスに絵を描き始め、その日のうちに完成させる。周囲の視線という、集中力を削ぐであろうものがあるにもかかわらず、黙々とキャンバスに色をつけていく。背中には撮影自由、むしろ大歓迎という貼り紙を貼っている。そのいさぎよさに感動したのがきっかけだった。「空想絵画物語」という名前のとおり、彼の絵は、いったいどういう世界なんだろう、と空想させる。夢の世界にいるかのような、ふわっと心が浮き上がるような気持ちになる。絵を見ている時くらい、現実の色眼鏡を外して自由にイメージするのもいいなぁと思う。

 

小さなギャラリーの壁全面をふさぐように並んだ絵は、混沌としている。絵描きさんが、ヴィレッジヴァンガードとか、ドン・キホーテとかが好きで、そういう店のような雑多感を出したかったのだという。月並みな表現だけれど、たくさんある絵の中から宝物を探り出すような、そんな感覚だった。もっと踏み込んで言うと、他の人はもしかしたら関心を持たないかもしれないけれど、自分だけはその絵の良さが分かる、自分だけがその絵をきちんと読み解くことができる、そんな一枚を探しているような感覚だった。読書が、自分だけが読み解くことのできる一冊に出会うための営みであるということと一緒だなぁ、と思い、それを教えてくれた本をふと思い出した。

 

私たちが手にしなければならないのは、世に広く知られた本ではない。「私」だけが読み解くことができる世界にただ一冊の本なのである。

(若松英輔「言葉の贈り物」亜紀書房)

 

出会ったのは、手紙をポストに投函しようとする謎の男の絵。自宅の本棚に置いてしっくりくるであろう予感というか確信があった。「何考えてるのか分かんないよ」もしかしたら他人にはそう思われるかもしれないけれど、でも筆まめで、直筆の手紙でコミュニケーションをとる、そんな男性像にあこがれている。そんなあこがれを、あこがれで終わらせないために、椅子に座って本棚を見た時に一番よく見える場所に置いたら、ちょうど「自分にとっての読書とは」を教えてくれた本があって、わぁ、ってなった。

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20190928212257j:plain

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20190928212430j:plain