傍観者効果

先日、事務所から帰る途中の電車内でのことだった。終電の数本前で車内は比較的混んでいた。7人掛けの座席の中央付近に立ってイヤホンで音楽を聴きながら本を読んでいたら、視界の隅の方で何かが床に向かって動いた。周囲の人の視線が集中する。嫌な予感がした。ふと見ると、若い男が通路を横切るように、うつぶせになって寝ていた。どうやら相当酔っぱらっているらしく、自分の斜め後ろの座席に座っていたものの、そのまま前につんのめるように倒れたらしい。周囲はきょとんとし、困惑している様子だった。

 

自分も後で冷静に思い返すと本当に情けなくて仕方ないのだけれど、こういうときにとっさに動く勇気がない。少し離れた隣での出来事であったことと、音楽を聴いていたこと、本に集中していたことから、しばらくの間無視していた。本当に勘弁してくれ、誰か起こして次の駅で降ろしてやってくれ、なんて思いながら。本当に恥ずかしいのだけれど。

 

自分の目の前に座っていたカップルが動いたのは、その時だった。立ち上がって寝ている男の方に向かい、大丈夫ですか、と背中をさすっている。さすがにこれ以上無視し続けるのは不自然だ。そして、彼らの行動に、自分も動く勇気がでた。「手伝いましょうか」という他の方の声も聞こえる中、全然目を覚まさない男を彼と持ち上げ、次の駅で降ろした。駅員さんに話をしたらすぐにお巡りさんを呼んでくれ、なんとか引き渡すことができた。後の電車も残っていたから、問題なく帰ることもできた。

 

それにしても。さっと動いたカップルのおかげで、自分もそれに背中を押されるように対応することができた。逆に言うと、彼らがいなかったら、彼らのように対応する人がもしもいなくて、周囲の皆が面倒くさがって対応することを拒んでいたら、自分もその対応を拒む一人となっていたかもしれない。そう思うと、ぞっとした。「お兄さん、これ、水、プレゼント」目の前の自販機で水を買い、差し出した彼を見て、一方でしりごみして、あろうことか無視を決めつけていた自分が、情けなく感じられた。

 

カップルの行動に勇気づけられ、まぁ状況にもよるだろうけれど、これからは動くべきだと思ったら動こう、と思った。と同時に、傍観者となりうる自分も目に浮かぶ。ふと、相棒でそんなストーリーがあったな、と思い出す。

 

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殺人現場に居合わせた通行人の誰もが、被害者に見向きもしない。防犯カメラの映像を客観的に見て「なんで無視するんだ」「警察くらい呼んだらいいのに」と非難するのは簡単だ。だけど、いざ自分がそういう場面に遭遇したら、きちんと動けるだろうか。面倒ごとは御免だと、傍観してしまわないだろうか。もっというと、無視してそこから離れようとしてしまわないだろうか。少なくとも自分には、「自分は違う」と胸を張って、人を非難できる自信はない。ただ、自分はそうじゃない人間でありたい、とは思う。