賛否両論

いつもの美容院でマスターとしゃべる。1か月に一度は会うのでそう豊富に話題があるわけではないけれど、それでも彼としゃべっていると話題が尽きることがない。

 

 

新潮45でLGBTに関する特別企画があり、その意見が度を越えた言葉の暴力であるとして、店頭から新潮社の本を当面置かないことを決めた本屋がある。その本屋さんの、きっとものすごく勇気を振り絞って決断したであろう行動に、賛否両論があって驚いた。和歌山県の小さな一書店が、特定の出版社の本を訳あって置きません、とただ言ったに過ぎないのに。

 

表現するのは自由、というのは分かる。それを読み手が取捨選択するのも自由、というのも分かる。そしてそれと同じように、本屋さんだって売る本を自由に選べる、と私は思っている。だから、本を提供する立場である本屋さんが、自分の考えに反する意見の本を排除するのはいかがなものか、そうやってさまざまな意見に触れる機会を奪う本屋だったらなくて結構、という意見を見ると、本当にそうか?と疑問に感じる。

 

そこまで自分は町の本屋さんに求めるだろうか?欲しい本があって、例えば行きつけの本屋さんで店員さんに聞いて「うちではそれは扱っていません」と言われたとして、「なんだよ、偏った本しか置かないなんて」と憤慨してその本屋には二度と行かない!となるかというと、そんなことはない。目指す本がなかったら、置いている本屋を探すし、楽天ブックスだってある。町の本屋に「極端な論調のものも含めて全て平等に売るべき」と期待するのは、過剰なサービスの要求ではないかと思ってしまう。本屋さんはそこまで読み手におもねらなくて良い。

 

私は、偏った本しか置いていない本屋さんが好きだ。店主の好き嫌いが書棚ににじみでているような本屋さんが好きだ。私にとって本屋さんは、本を通して知ってほしい言葉を伝える担い手であって、読みたいからください、と言われたものを「かしこまりました」と提供してくれる担い手では決してない。

 

 

そんなことを、とりとめもなく美容院のマスターとしゃべろうと思っていたけれど、「こんなことがあったみたいですね」とちょっと話したくらいで終わってしまった。それよりも、マスターの「確かに世の中のバッシングは度を越えたものもありますよね」エピソードが面白くて、そうそう、と膝をたたいた。あるテレビ番組で、CM前に出演者が「このあとコマーシャル。トイレにいくなら今かもよ」みたいなことを言ったらスポンサーの顰蹙を買ったという。「トイレに行きなさい」とは一言も言っていないのに。視聴者を期待させて番組を面白がってもらえて、結果としてたくさんの視聴者に観てもらえる番組になれば、ミクロではCMを観ないかもしれないけれどマクロではCMを観る機会は増えるはずなのに。

 

世にはいろいろな意見があって、いろいろな批判もある。一見、何の問題もないだろう、という出来事に対しても、賛否両論がある。否の意見に心がどんよりしてしまわないためには、そういうものだという開き直りが必要なんだろう。