建築をつくるうえでのポリシー

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すごいと思う人、すごいと言われている人に少しでも近づきたくて、その人が読んだという本を読んでみたり、考えていることを辿ってみたりする。今日、国立新美術館へ行ったのも、彼が建築を通して発信している考えをなぞりたいと思ったからだ。

 

安藤忠雄展「挑戦」は、文化の日を含む3連休の最中とあって、混雑していた。建築を学ぶ学生さんや建築を仕事にしている社会人が中心なんだろうと思っていたら、高齢の方や若いカップルなど、幅広い年齢層の人が観に来ていて、びっくりした。正直「そんなに興味ないだろ」と思ってしまうような人がジーっと模型を眺めている姿を見て、もし自分が重い腰を上げて今日ここに来なかったら、社会から取り残されていたんじゃないかという気持ちになった。来てよかった。

 

実寸大の「光の教会」のインスタレーションに入る。もう夕方であたりはだいぶ暗くなっていたけれど、コンクリートの隙間でできた十字架から淡い光がさしこんで、幻想的な空間をつくっていた。椅子に座ってしばらくジーっとしていたい気分だった。

 

余白をつくるということ。特に目的を限定しない空間を用意するということ。その考えは、自分にとっての仕事、コーポラティブハウスの企画や設計にも当てはめることができる。人が集まるきっかけとなる空間を用意すること。企画の参考にしたい。

 

建築は必ず老朽化し、いずれその役割を終える。その流れに抗おうとする試みこそが、建築をつくるということなのかもしれない、と彼は言っていた。そして、物質として残すのではなく、人々の記憶に残るようなものをつくりたい、そのための方法が、光や風といった自然を取り入れることなのだ、とも。物理的に長持ちする建築ではなく、人々の記憶にずっと残る建築をつくりたい。そのように考える方なんだ、と知った瞬間に、建築的センスのなさに建築設計の道を早くに諦め、「建築学科を卒業した」なんて恥ずかしくて堂々と言えないような自分でも、想像力を働かせることで(もちろんその想像力の源となるための知識・知恵を蓄えることは必要だけれど)実現できるんじゃないか、と思った。

 

彼の建築に対する一貫したポリシーが共感を呼び、たくさんの来場者を呼んでいるのだと思った。コンクリートという素材を用いて、極限まで単純な幾何学的形態の中に都市における複雑な居住機能を組み込む。では、自分が仕事において建築をつくるうえでのポリシーはあるだろうか。自分が住宅を供給する目的は何か。それが自分でなければならない理由は何か。自分に与えられた役割は何か。そこまで考えた時に「これだ」と言えるものがないことに気づき、恥ずかしくなった。