愛ある仕事

エントリーしていた東京マラソンの落選通知メールが来た。なかなか思うようにいかないようだ。でもこれで走るための気力がなくなってしまうのも嫌だなぁと思い、休日の今日、久しぶりにRUN。

 

 

いつもの河川敷コースをゆっくり走り始める。序盤はいい感じだ。それでもだんだんと苦しくなり、腕も痛くなってくる。習慣にしていないと簡単に衰えてしまうということを、再認識した。

 

走っているときは確かに苦しいし痛いけれど、気分は決して悪くない。身体中の水分が沸騰して蒸発するような感覚を味わいながら、とりとめもないことをじっと考える。一人の時間、自分と向き合う時間がここにある。苦痛を紛らわしながら考えるこの時間が、けっこう好きなのだ。

 

 

目の前には、小さい子供を連れた夫婦が楽しそうに歩いている。あのお父さんも、子供や家族を養うために必死に仕事しているんだろうなぁ。翻って、自分は。自分のことで精一杯で、家族を支えるという現実感がまるでない。仕事はどうか。堂々とプロフェッショナルな仕事をしているかというと、実のところまだまだ自信がない。じゃぁどうすればよいのだろう。

 

「資格とか持っているわけじゃないから。危機感を持たないと、ただのヒトなんだよね」。作曲家の服部隆之さんが「オトナの!」で言っていたっけ。自分も、せいぜい宅建の資格をもっているくらいだ。その資格だって、最近でこそ士業になってちょっと格上げになったものの、それでも多くの人が持っている国家資格の一つに過ぎない。勉強さえすれば大学生でも取得できる、なんの実務経験も技術もいらない資格だ。これを持っていることで、いままで質の高い仕事ができたなぁと実感したという感覚は、ない。

 

まわりの一級建築士であるスタッフとは違い、専門家になれていない。本当に危機感を持たないと、ただのヒトだ・・・。

 

ではどうすれば喜ばれる仕事ができるだろうか。どうすれば自分が価値を提供できるだろうか。そうだ、事務所で設計した建築を愛すること、そこに住むクライアントのために最善をつくすこと、という熱意だ。愛のある仕事をすることで、知識不足や特別な技術がないことをカバーできるのではないか。愛は人から持つように強要されて持つものではないし、いま現在愛情を持っていないものに対して愛情を持つというのも難しいけれど、「あなたのことを考えていますよ」という想いがすこしでも相手に伝わるような、そんな仕事を意識したら良いのではないか。・・・具体的でないな。

 

 

折り返し地点にたどり着く頃には身体はボロボロで、とても折り返してスタート地点まで走れる気力は残っていないかった。帰りはゆっくり歩きながら、習慣化しないとダメだと喝をいれた。週に一度でも、続けられないだろうか。