しっかり

朝から仕事だったので、早めに家を出る必要があった。7時半には家をでる予定だったのだが、目が覚めてウトウトしていたらいつのまにか7時半を過ぎていて、急いで支度をする。遅刻なんてしたらマズイ。走って電車に飛び乗り、電車の中で、駅へ着く時間と、駅から会場までの道のりを確認する。

 

降りる駅をどこにしよう。どこで降りれば、一番はやく目的地に到着するだろうか。すぐに、A駅とB駅が頭に浮かぶ。そしてgoogle mapを見て、C駅も候補であることが分かる。会場までは歩いて、A駅から徒歩3分、B駅から徒歩13分、C駅から徒歩8分といったところか。もしこれらが同じ路線上にある連続した3駅であれば、話は簡単だ。A駅で降りて歩けば良い。だけど話はそんなに簡単ではなく、路線が違ったり、同じであっても急行が止まる駅と各駅停車しか止まらない駅が混じっていたりするので、乗り換えの時間も考慮しなければならない。

 

電車内で熟考したあげく、駅には一番はやく着き、かつ目的地までの時間に若干余裕のあるB駅を選んだ。ちょっと走ることになるが、いたしかたない。こうして、まだ5月だというのにやや暑い中を、走った。つくづく、10分前行動を自分ルールにしていることが悔しい。もしもっと自分にだらしなかったら、気楽にのんびり歩いていけるものを。

 

8時55分。開始5分前。会場に着いた。10分前行動の自分ルールからしたら遅刻だが、仕方ない。会場に入る。とそこで、誰もいないことに気づいた。もしかして一番乗りか?あと5分の間に、他の十数名がやってくるのか?10分前行動なんて言っているのは自分だけで、世の中大半はぴったり行動か?いずれにしろ一番乗りだラッキー!・・・なんて思うはずがなく、すぐにひとつの可能性にたどり着く。会場を間違えたってやつだ。確か会場を確保した人が、もう一つ別の会場を候補にしていた。もしかして、そっちだったのか?もしそうだとしたら、いまからじゃとても間に合わない。B駅からは徒歩5分程度と近いものの、もはや10分以上歩いたところにいてはどうしようもない。これはマズイ、と一気に血の気が引いた。と同時に、もうひとつの仮説を立てる。時間を間違えたか?そしてよくよく案内メールを確認すると・・・10時開始という文字。

 

やられた。1時間早く来てしまったのだ。一気に全身の力が抜ける。走る必要なかったじゃないか。自分ルールなんて無視してのんびり歩いても、まだ余るくらいだったじゃないか。こうして自分を責めると同時に、まぁ結果として遅刻は免れたわけで、安心した。逆に1時間遅く勘違いしたのではなくて良かった。

 

中途半端にできた時間を有意義に過ごすのはどちらかというと得意で、やや放心状態のままC駅まで歩き、駅前の喫茶店でコロネを食べる。ちょっと遅めの仕事前の朝食だ。期せずして心にも腹にも余裕が生まれ、仕事に対する力がみなぎった。そしてそれ以上に、たとえ小さなことであっても、「●●なはずだ」「確か●●だ」と決めつけずに、確認をする癖をつけないとマズイ。社会人をもう何年やってるんだって話だけど、改めて事前確認の大切さを思い知らされた。

 

 

午後は、壁面本棚づくりの打合せのために、相模原の家具屋さんの工房に行ってきた。橋本駅から車で30分くらいか?それはそれは、故郷を見ているかのような、のどかな風景が広がる場所で、きれいな家具が生み出される工房と自宅を、見学させていただいた。

 

無垢材の家具があたたかさを持っていた。そして、無垢家具屋さんだから無垢家具だけで部屋が支配されているのかと思いきや決してそうではなく、クールなイメージの鉄のテレビ台や、リネンのカーテン、観葉植物などがポンポンと配置されていて、それぞれが違和感なく部屋に溶け込んでいるという印象を受けた。自分も、こういう落ち着ける部屋をつくりたい。

 

家具屋さんから唐突に兄弟構成を聞かれ、弟と妹がいます、自分は長男です、とこたえたら、「だからそんなにしっかりされてるんですねぇ~」と言われ、たじろいだ。確かにこう言われることは何度かあり、自分自身、長男らしさを発散しているつもりではあるのだけれど、でも「しっかりしている」かと自らを問うと、これがまったくしっかりしていない。仕事では、「お前社会人何年目だよ」と自分でも突っ込みたくなるくらいの力不足に、いつも悩まされる。ついさっきだって、集合時間を一時間間違えて、膝の力が抜けて道路に倒れ込んでしまわぬよう踏ん張るのに精一杯だったくらいだ。「しっかりされてますね」と言われたら嬉しいもんだから、「へへへ、ありがとうございます」なんてデレデレしちゃうけれど、あとで冷静になった時に「自惚れるなよお前」と自分にツッコミをいれている。これでも人からしっかりしているように見えるのだとすると、それはそれでいいことなのか?

 

家具屋さんとの話に花が咲いて、自分が壁面本棚をつくろうと考えた経緯なんかをしゃべったら、ものすごく嬉しがってくれた。永く使うことを前提に家具を作ろうとしていることが、ものすごくしっかりしていることのように見えたようだ。しかし、自分のまわり、同年代の知人友人を見ると、結婚して家を建ててる人もいるし、車買ってる人もいるし、仕事のお客様でも、何千万もの住宅ローンを組んで家を建てていたりする。そういうことが自分はまだできないから、でもモノをつくるのは好きだから、その「つくる過程」を自分も楽しみたい。じゃぁ何をつくろうか、と考えたときに思い浮かんだのが、憧れだった本棚だった。そして、どうせつくるならいいものを、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で、つくろうと思った。

 

もしこれが「しっかりしている」ということなのだとしたら、とても嬉しいのだけれど、いやいや、全然しっかりしていないじゃないか、という気持ちのほうが強い。星野源さんのエッセイを読んで「結構ぬけてるんだなぁ。俺とたいして変わんないや。むしろ、俺のほうがまだ・・・」なんて思って安心しちゃったりしている時点で、しっかりとは程遠い。