Noスクリーン

知らないことに出会ったとき、人はどうするのか。検索するんだよ。そんな言葉にどこかで出会った。なるほど、と納得するくらい、検索は身近な存在だ。伊坂幸太郎さんの「モダンタイムス」を読むと、検索社会の怖さのようなものを示しているようで、ちょっとは検索とは距離を置こうと思うのだけれど、なかなかうまくいかない。google先生はとにかく賢く、知識を得るという点で強力なツールであることは間違いない。それでも、そこで得た情報を咀嚼するのはあくまでも自分。ためになる情報と、そうでない情報の取捨選択を、いつも意識していたい。

 

いつもの美容院。お母さんとの何気ない雑談でのこと。高校生?の息子がスマホを出先に置き忘れたらしく、いま受け取るために柏まで行っているのだという。さっき公衆電話から着信があって、何事かと思って出たら息子が「いまアキバ方面にいる」とか訳のわからないことを言うもんだからさぁ。お母さんが笑いながら暴露するお茶目なその息子が目に浮かび、微笑ましく思った。

 

しかし、単なる笑い話ではない、いまの中高生のリアルを聞いたようでもあった。電車でどこどこへ行くには何線でどこで乗り換えて、というのを、スマホで検索して調べるのが当たり前になっているから、スマホがなくそれができない状態だとアタフタしてしまうのだとか。柏に行こうとして間違って秋葉原に行ってしまうその地理感覚はよく分からないが、でも子供がその調べるツールを取り上げられている状態なのだとすると、決して特別なことではないのだろう。「電車内や券売所に路線図があるだろう」とかツッこみたくなる気持ちを抑える。そうやって調べて行っていたのは、スマホがないのが当たり前の時の話だ。自分が中学生の時はそりゃぁそうやって調べてただろうけれど、いまはそうじゃない。子供にとってスマホを落とすということは、おおげさでなく命にかかわるくらいのことなのではないか?

 

他にも、学校では先生からの連絡事項をグループLINEで発信するであるとか、もはやスマホを持ってる前提らしい。LINEのアカウントを持っていない生徒へは個別連絡をするなどフォローもあるのだというが、それがイジメの原因にもなりうるようで、中高生も大変だなぁ、と思う。

 

すぐ検索する習慣を、スマホありきの世の中の動きを、否定はしない。いまはそういう時なんだから。でも、それがふとした瞬間に手元から離れたとき、例えば部活の練習試合先で落としてしまったとか、電車内に忘れてしまったとか、歩きスマホをしていて手が滑って排水口に落としてしまったとか、そういうときに、いつものことができなくなることが恐怖なのだとすると、それは酒やタバコと同じで、中毒だと思う。だから、自分はいつも一定の距離を置くようでいたい。もしくは、「これが手元から離れたら、パニックになるな」と危機感をもちながら、使いたい。

 

「今日はNOスクリーンディ」。意図的に画面を見ない日を、一ヶ月に一度でもいいから、確保する。不可欠だからこその、バランス維持。それを私も「くらしのきほん」にしたい。

 

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

 

  

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

 

 

しごとのきほん くらしのきほん 100

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