与え合う男

与える男でありたい。与え合う男でありたい。自分は、人から何かを与えてもらおう、与えてもらいたい、と思ってしまうことが多いので、いつも自分にそう言い聞かせている。自分は相手に何を与えることができるのか、と。

 

 

いまの住まいを含む、大家さんが手がけてきたコミュニティづくりの取り組みが、市川市景観賞を受賞した。その記念にと、音大生を招いたミニコンサートにお誘いいただいた。大家さんからの直接のお誘いに胸は高鳴り、また、クラシックギターに酔いしれていた大学時代を思い出した。

 

自宅のすぐ隣、同じく大家さんが建てた、満開の桜の木が迎えてくれるマンションには多目的ホールも併設されていて、さまざまな地域活動に使うことができる。そんなステキなホールにお邪魔し、若き演奏家の四重奏に、酔いしれた。大学生らしいたどたどしくも一生懸命な楽曲紹介に、聞いてるこっちがドキドキした。しかし演奏は、それはすごかった。自分にとっての思い出の曲である第九を、無理に壮大さを表現しようとするのではなく、必要な音に的を絞るように演奏していて、驚いた。選曲が大家さんのリクエストであることを暴露したり、途中で突然立ち上がって語りが始まったりと、随所に笑わせるポイントを用意していたところもすごい。若き演奏家の演奏に、一生懸命に聴き手を楽しませようとする意欲が感じられて、嬉しかった。窓の外には満開の桜の木が映えていた。

 

 

初めてお会いした大家さんのそのまちづくりの取り組みは、単に景観に配慮した建物をつくるということにとどまらない。そこからイベントを生み出し、人と人とのつながりを生み出している。そういう取り組みが自分の目の前にあったにも関わらず、つい最近までそれを知らなかった自分を、悔やんだ。これって、コーポラティブハウスの企画と発想は同じ、もしくはそれより大きな視点での取り組みではないか。建築は、そのコミュニケーションをする人を受け入れる箱でしかなく、建てることそのものが目的なのではない。そこで生まれる人どうしのつながりが、人に喜びを与えること、それこそが、建築の目的なのだと思う。まさに今日、自分は、そのつながりの機会を得ることができ、大家さんとつながり、音大生のつくりだす音楽とつながり、地域の取り組みとつながった。

 

そして、自分はいままで、既存の心地よい空間が外にあって、それを探そう、そこで快適を得よう、としていたことに気づいた。つまり外から「与えられる」ことを待っていた。今日、相手から与えられるのを待つのではなく、自分に与えてくれるものを探すのでもなく、自分はなにを与えることができるのかという視点に、初めて立てた気がする。この身近な地域づくりの取り組みに。一生懸命な音大生に。人と人とをつなげる場をつくることに尽力されている大家さんに。自分はなにを与えることができるのだろう。ゆっくりじっくり考えて、実行できるようでありたい。