読まなきゃいけないから読む、という感覚

この引越しを機に、本棚中心の部屋づくりを改めて考えるのも良いな、と思う。それほど大げさに言うほど本をたくさん持っているわけではないけれど、そして、蔵書は多ければ多いほどよい、という考えは過去のものになってきたけれど、それでも、家に帰って部屋に入って目に入るところにずらっと本が並んでいたら、それだけで満ち足りた気分になれそうな気がする。これらのたくさんの文章が少なからず自分の血肉になっているのだと思えれば、それが錯覚であっても、仕事をしたり遊んだりするうえでの自信になるような気がする。

 

だから必然的に、他人の本棚には興味がある。「本棚を見られるのは裸を見られるのより恥ずかしい、それくらい自分の内面が現れるものだ」と誰かが言っていたけれど、その通りで、その本棚を見ると、この人はこういうひとなんだな、というのがなんとなく分かる気がする。だから、自分も自分なりの本棚をつくりたいのだと思う。つくって、「ぼくはこういう本を読むような男なんですよ」と、人に言いふらしたいのかもしれない。内田樹さんがそのようなことを言っていて、あぁ、ほんとその通りだな、と思った。「この本が読みたい」というより、「この本を読むような人だと他人に思われたい」のだ。

 

作家の本棚 (アスペクト文庫)

作家の本棚 (アスペクト文庫)

 

 

角田光代さんが、「読書欲があるというよりは、むしろ読まなきゃいけないものが非常に多いんです」と言っていて、そういう感覚で本を読むようでありたいな、と思った。とにかく本が好きなんだ!いくら読んでても楽しくて仕方なくて、苦痛なんて全然ないんだ!というのとはやっぱり違うし、眠いときは読もうと思っても全然頭に入らないくらいだけれど、とにかく読んで勉強しなきゃ、読んで脳にいれなきゃ、という気持ちが強い。読んで知識を得ないと、仕事でもなんでも遅れをとってしまいそうで怖い、という感覚。そういう感覚が、いまの自分に足りないんだと思う。

 

仕事で、自分の無知であったり、考えに深みがなかったりして、恥ずかしいと思うことが多い。一方、事務所の仲間など見ていると、すごいなぁ、と思うことがまた多い。ただ漫然と本を読めばいいのではなく、読むべきものを自分で考えて、たくさん読んで、たくさん考える。それができなければ、本棚という形ばかりいくらつくっても、意味がない。