持論

8月1日。土曜日。

 

一日ほぼ何もせず、夜になって外へ出たら、浴衣をきた人が多かった。こうして、今日が江戸川の花火大会であることを知った。多治見では39度を超えたというこんな日に、夕方とはいえ、人がたくさん集まる場所へ行くのは、それはそれはキツいんじゃないかと、勝手に人の心配をする。花火という、そのキツさを帳消しにするくらい綺麗なものがあるからいいのだろうけれど、どうしても「花より団子」な自分は、そのテンションについていけない。花火大会だったことすら知らずに地味な一日を終えようとしていた自分を、恥ずかしがるでもなく、これが自分のパーソナリティだくらいに思うあたり、傍から見たら重症に違いない。

 

 

駅前の本屋で建築雑誌を眺める。大胆な設計だな、と思うような建築であったり、おおよそデベの分譲マンションとは思えないくらい立派で重厚感のあるマンションを見たりして、設計者なり企画者が、それぞれ知恵を振り絞って、社会に建築という価値を作り出しているのだと改めて気づく。

 

翻って、自分は。そもそも設計者じゃないし、デカイものをつくってたくさんの人に訪れてもらおう、という気持ちもないし、そういう意味では、建築に携わる人間としての気概が少ないのかもしれない。つくるものは、小さくていい。目の前のクライアントが幸せを感じられる建築を供給できて、そこで継続的に幸せを維持できるように付き合うという関係が築ければ、もう十分。「大きな建築」にさほど興味がないのは、そこに自分の役割はないと開き直っているから、という理由もあるけれど、それよりも、いま自分がいる場所で、自分ができる範囲で、クライアントを満足させる建築が企画できれば、それで十分だという気持ちがあるからだろう。いま目の前で企画をできない自分が、大きな建築云々を語る資格は、たぶんない。

 

震災復興のための建築に関することであるとか、新国立競技場のことであるとか、社会的なことについて自分なりの意見をもって主張する方々がたくさんいる一方、そういうことにどこか無頓着で、持論みたいなものがまるでない、そんな自分に、建築雑誌を見ていて気づき、ぞっとした。どこか外から世間を見て「はいはい、分かりました、すごいすごい」と行っているだけだと、自分自身が社会から取り残されてしまう。もっと、「自分ならこうする」「自分は、こう思う」という意識を持たなければ。