自分をつくる言葉たち

「来たときよりも美しく」

中学時代、口すっぱく言われたのをなぜか覚えている。どの先生から言われたかは全然覚えてないのに。修学旅行で訪れた旅館を出る際に、来たときよりもきれいに掃除して帰ろう、というもの。いま考えると、人として当然すべきことを教え込むいい機会だったように思う。そういうことを教わった少年が、そのまま大人になってからも当たり前にこなすようになる。それが教育の本来のあるべき姿だと思う。

 

「30センチの思いやり」

中学時代の社会科教師(注1)の言葉だったか。普段のニコニコ顔を引き締めてまじめな顔で諭していた。自分の班が受け持つ掃除場所と、他の班が受け持つ掃除場所。その見えない境界線のちょっと外側、つまり他の班が掃除すべき場所も30センチくらい余計に掃除しなさい、そうすれば掃除しきれない場所がなくなるでしょ、というものだったが、なるほど、よく考えたものだ。これ、学生時代に当たり前のように教えられたからこそ、大人になってもフツーにできるんだろうな。

 

「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」

これも同じく中学時代。おたふくみたいな顔した数学教師の言葉。質問して「そんなことも知らないの?」と言われるのが怖い内気な少年にとって、この言葉がどれほど救いとなったことか。だから私は「そんなことも知らないの?」という言葉が大嫌いで、いまでも絶対に口にすまいと思っている。

 

「もっと美意識を持て」

これは配属早々の工事現場にて監督(注2)からの言葉。美意識とは遠く離れたところにいそうなオジサンからこんな説教をされるとは思わなかったが、これもいまでも大切にしている教訓のひとつだ。工事現場にゴミが落ちてたら働く職人も気持ちよく仕事できないでしょ、もっと周囲に気を配って歩けよ、と言われたあの言葉が、いまも自分の行動の支えになっている。工事現場には汚いイメージが常にあるけど、ゴミひとつ落ちてない、材料が見事に整頓されている清潔感漂う工事現場があったら、そこで働く職人のモチベーションも上がって、100の品質の家が200にも300にもなるんじゃないか、と本気で思う。

 

 

こうしてみると、過去にいろんな人から教えられた言葉がいまの自分をすこしづつ形づくっていることが分かる。教育の影響って、実は大きいのかも。しかし一方で、「ゆとり教育の弊害だ。ゆとり世代は自分の頭で考えない。ゆとり世代は他人と競争しない」といまの学生をひとくくりにして言うのを聞くと、学生みんなが教育方針に誘導されるほど、教育の影響力は大きくないだろ、とも思う。さて、どっちなんだろう。

 

 

 

(注1)

中学時代の、声に出して呪文を唱えることで世界情勢を覚えさせる正攻法の社会担当教師。その呪文をいまでも覚えてる自分がすごいのか?いやいや、そうやって記憶に植えつける教育のしかたと、先生のユニークな人柄がよかったのだ。

 

先生「(けっこうでかい声で)『紀元前後の世界には!』はいプリーズ」

生徒「・・・『きげんぜんごのせかいには』」

先生「『東に漢』はい」

生徒「『ひがしにかん』」

先生「『西にローマ帝国でっかいよ』はい」

生徒「(爆笑)『にしにろーまていこくでっかいよ』・・・なんすか、それ」

 

 

(注2)

入社早々自分の不運を呪った鬼監督。面と向かって「おまえと会話するのは精神衛生上よくない」と言われた時の心の傷はいまでも残ってますよ。でも、あなたのおかげで、私は大学時代の不摂生の産物である体重を約20キロそぎ落とすことができました。ありがとうございます。