そうだ、京都へ行こう

10月10日。日曜日。

三連休の中日。

前日から雨が続き、テンションはダウン。

外出する意欲も一気に失せ、家に引きこもって読書やらネットサーフィンやら。

新しい僕の相棒、ThinkPad Edgeもなかなかいい仕事をしてくれてます。

(おっ晴れてきたな。洗濯物が干せなくて困ってました)

日曜日のこんな時間に家で何もせずにブログ書いてる自分になんの生産性も感じないながらも、そんな引きこもりな連休があってもいい、と自らの行動を無理やり正当化させるあたり、鬱の予備軍を思わせる。

どうせ明後日になったらまたせわしなくなるんだ、満喫しとこう。





ぼくは京都が好きだ。理由は特にない。というか、明確な理由を説明できない。強いて言えば、「雰囲気」というか「イメージ」というか「ネームバリュー」というか「ブランド」というか。いずれにしても、何がしたくて京都へ行きたい、といったものはない。


中学と高校。2回にわたって、いわば強制的に京都へ行った。その時は修学旅行でクラスメイトのみんなと行動を共にしていたため、純粋に自分の行きたいところに気の赴くままに行ってみる、ということができなかった。だいたい当時は「自分一人でここへ行ってみたい」という強烈な熱意をもっていなかったため、仮に一人でどこへでも行っていいと言われても、別に特別行くところはなかったが。


今になると、そんな修学旅行を後悔している。あのとき(クラスメイトと一緒とはいえ)京都の空気を満喫できるチャンスを持っていながら、あまり京都の空気を満喫することなく、半ば事務的に社寺仏閣を巡り、あとは友達との会話や旅館での夜のおしゃべりに喜びを見出していた気がする。


学校の勉強の一環として社寺仏閣を巡り、そこでの歴史をレポートにまとめる、といったことが目的であれば、せっかくの京都も面白くもなんともなくなってしまう。確かに、そのような歴史背景を学んだうえで社寺仏閣を巡ると、何も知らないでただ行くより面白くなるというのも分かるが、その勉強のために社寺仏閣に行くという「勉強を目的とした社寺仏閣巡り」となると、それはもうせっかくの京都が台無し。性交できないトラウマを抱えた彼女と一緒に寝ているような「アナザヘヴン」のような状況に近い(近くないか...)。ようするに順番が逆だろ、ということ。行って勉強するんじゃなくて、勉強して知った上で行こうよ。


今年の初めに、何の根拠もなく、連休は京都へ行こう、と意気込んだ。ほんとに何の根拠もない。目的なんてない。ただの憧れ。かつて修学旅行で事務的に行ったあの地へ、今度は自らの意思で行ってみたい。んでかつて修学旅行で事務的に行ったときとの違いを存分に味わいたい。そんな邪な気持ちからだった。しかしその夢はまだ夢のままだ。
行動力のない自分につくづく嫌気がさす。


少しでも京都の気分を味わおうと、大学の学科フレンドが取材をつとめた「おじさんの京都」(京阪神エルマガジン社)を読んでは、京都ならではの文化を体感した気になっている。ほんとは火山学者、京都大学のおしゃれな教授、鎌田氏の本「知的生産な生き方」(東洋経済新報社)を読んでは、修学旅行では決して味わえない京都の味を勝手に味わった気になっている。


「そうだ、京都へ行こう」頭の中には、笑う犬の「ひろむちゃん」…じゃなくてJR東海のCMが浮かぶ。サウンドオブミュージックの「My favorite things」生ギターの音色が心地いいんだ。


この曲だけが、ぼくに勇気を与えてくれる。余裕ができたら(こんなこと言ってたら一生余裕なんてできそうにないが)京都へ行こう。