ドイツビール

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半年ほど前に偶然再会した大学時代の友人と、久しぶりに食事。彼はどこか突拍子のないことを行動に起こす。ブラジリアン柔術の稽古で週2で自由が丘に通い、今日は広尾で試合だったのだとか。真っ黒に焼けた彼の身体は引き締まり、ケンカでもしようものなら絞め殺されるんじゃないかという、そんな強さをにじませている。それと穏やかな表情とのギャップに、戸惑う。

 

中目黒でドイツビールを飲む。こういうときはちょっと多く飲んでもいいだろうと思うのだけれど、でもすぐ酔い、目が充血し、頭がいたくなり、眠気が襲ってくる。やっぱり自分を過信してはいけないと思った。ゆっくり飲んでたっぷりしゃべってたらいいんだ、と改めて思った。

 

シメはコーヒー。下戸にはこれがいい。栃木へのドライブ&コーヒー屋台巡り計画、楽しみにしている。

電子書籍にはいまだに慣れない

読み始めたのはいつだったか、何年前だったか、もう忘れてしまった。もしかしたら単行本が出てすぐだったのかもしれない。でも単行本では買わず、電子書籍で読み始めたことは覚えている。i Pad mini で楽天koboを試そうと思い立ち、じゃあ小説でもと思ってダウンロードしたんじゃなかったか。

 

最初こそスリリングな展開で幕を開けるも、だんだん読み進められなくなってきた。私はそれをいまでも「紙の本と電子書籍との決定的な違い」のせいにしている。画面だとなんだか目が疲れてずっと見ていられない気がする。残りページ数宇の感覚がないので読み進めている実感がわかない。ページをめくる時のほんのちょっとのロード時間に退屈する。などなど。

 

そんなわけで、割と序盤で読むのをやめ、そのまま数年が経ち、あるとき本屋で文庫本を見つけ、結局はそれを買った。それをさらに時間をかけて読み、ようやく読み終わった。時間こそかかったけれど、でもやっぱり本がいい。

 

ぶっきらぼうで、口が悪く、雑に生きているようで、たまにいいことを言う相葉時之に、「チルドレン」の陣内さんが重なる。冷静沈着、相葉時之に嫌気を感じながらも見捨てることができずに優しく包み込む井ノ原悠は、さしずめ「魔王」の安藤か。ちょっとした仲間の間違いからとんでもない連中と関わることになり、様々なアクションシーンを経て、壮大な規模の悪と戦うはめになる。最後、銀行の貸金庫が重要な舞台になるのだけれど、序盤を読んだのが数年前だったためほとんど覚えておらず、読み終わってから改めて序盤だけ読み返したら、その前フリが出てきていたのに驚いた。そうか、最初に伏線があって、最後に回収されるつくりになっていたのか。伏線に気づかず(覚えておらず)面白さを自ら半減させてしまったパターンだ。

 

「阿部和重×伊坂幸太郎」という共著スタイルだったけれど、自分にとっては、好きな伊坂幸太郎小説として存分に楽しめた。これを機会に、阿部和重作品も読みたい。

 

キャプテンサンダーボルト 上 (文春文庫)

キャプテンサンダーボルト 上 (文春文庫)

 

  

キャプテンサンダーボルト 下 (文春文庫)

キャプテンサンダーボルト 下 (文春文庫)

 

 

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V:ヴィンセント -vincent-

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テレビ神奈川(tvk)の音楽バラエティ番組「sakusaku」を、youtubeで投稿されているのを毎日観ていたのは、10年くらい前のことだ。

 

千葉県民で神奈川のローカルテレビ局になじみがなく、そもそも自宅にテレビがなかったものだから、テレビでリアルタイムで観るなんてことはできなかった。だから最初にハマったきっかけはすっかり忘れてしまったけれど、黒幕さんが操る「白井ヴィンセント」が毎日早口で隣に座る女の子とマシンガントークを繰り広げる様は、シンプルなトーク番組でありながら楽しくて仕方なかった。ローカル番組ならではのシュールな進行。くだらないと言ってしまえばそれで終わりのようなことを真剣に笑い合ってしゃべる。そんな「面白いくだらなさ」が良かった。

 

ヴィンセントがとにかく可愛い。にこやかに笑っていて、大きな帽子が様になっていて、そして雪駄の裏を見せながら座る。黒幕さんがたまに手を持ち上げるたびに、立ち上がって宙に浮かぶのも可愛らしい。そして、オリジナルの曲をたくさんつくり、「みんなでうたおう」と言って素敵な曲を世に放ってきた。「相模原のうた(ハードロックバージョン)」とか「船橋のうた(オアシス風)」とか「多摩のうた(オレンジレンジっぽい)」とか、いまでも頭に残っていて、ふと脳内に流れることがある。

 

この番組がきっかけで、中村優ちゃんの大ファンになり(いまジョギングを続けるモチベーションになっている)、三原勇希ちゃんの可愛さにドキドキし、トミタ栞ちゃんの実家がラーメン屋だと知ったときには有給休暇を利用して飛騨高山までドライブし、ラーメンを食べた(突然のご本人登場にびっくりしすぎて緊張しすぎて、声をかけることもできず店をあとにしてしまったのはいまだに悔やまれる)。そしてヴィンセントの、おもしろおかしくしゃべる上機嫌さに、あこがれた。「みんなしてスマホをヒョヒョヒョヒョしやがって」といって頑なにスマホに反対していたから、当時自分もスマホをもたないことに自信をもつことができた。自分の好きなことについてはいくらでもしゃべっていられる、それくらい「好きなもの」があることが、人生を楽しむために必要だということも知った。何気ないトークのなかに、いまの自分を確実に形づくるようなものがあったのだと思う。

 

U:内田樹 -Uchida Tatsuru-

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恥ずかしながら、というべきか、遅ればせながら、というべきか。学生時代は全く本を読まないダメな学生だった。そのときは多分読書のことを「勉強のためにやらなければならない義務」くらいに重くとらえていて、本の内容が頭に入ってこないことにイライラして、苦手意識をもっていたのだと思う。だから読めない自分に腹も立ったし、それで逆に拗ねて、読まなくたって死にはしない、なんて開き直っていたんじゃないかと思う。いまはその反動もあってか、人並みに読むようになったとは感じているし、昔ほど読書に対して身構えることもなくなったから、一冊の中で数行分の「いいこと」が頭に入れば儲けものくらいに思えるようになった。これが小さいころから読書少年だったら、もしかしたらこうはならなかったかもしれないから、結果オーライかもしれない。

 

そしていま、自分が本を読むためのモチベーションとなっているのが、彼の著書かもしれない。彼の本を、彼の思考を、きちんと理解して自分の頭の中で再現することができたら、もっと自分の仕事の効率も上がると思うし、人生も豊かになると思う。身のまわりで起こっていることに対して、自分は傍観者と決め込んでただ眺めているのではなくて、自分だったらこう考える、という自分なりの意見を持つことが大事だということを、いつも教えてくれる。そして、頭で考えないのは論外だけれど、では頭で考えたらいいのかというとそうでもなく、それだけではダメで、身体を健全な状態に保つことが大切だということも、教えてもらった。彼のいうところの武道的身体、自分にとっては中学高校時代に剣道部で培ってきた力のこと。人生で自分にふりかかってくるリスクから身を護るために自分はどう対処するかということは、剣道を修練してきた自分だったら当然考えるべきことだ。中学高校時代、練習が嫌で嫌で仕方なくて、でも強くなりたくて、でもなかなか強くなれなくて悔しくて、がむしゃらに稽古をしていたあの頃の自分の動きも、大人になったいまを丁寧に生きるために大切なことだったのだと、いまになって感じる。

 

「教育とは基本的におせっかいである」本を読むといつも印象的で、刺激的な命題に出会える。サービスがあって、それに満足したから対価を与える。提供者がいてお客がいて、「どうぞ」「ありがとう」がビジネスになる。そういう商取引だけでは説明し得ない社会の仕組みの中を自分はいま生きている。そういう、商取引では説明できない「どうぞ」「ありがとう」を、もっと意識して感じたいと思う。

 

空想絵画

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以前イベントで知り、好きになった絵描きさんが初めて個展を行うということで、東林間のギャラリーへ行ってきた。そのギャラリーは、家族の紹介で知った小さな家。住宅地に入り、本当にここであっているのかと不安になりかけたところで突如、現れた。家族と一緒でなかったら、本当に入っていいのだろうかと躊躇するくらいに、普通の家だ。

 

「ライブペイント」イベント会場で大きなキャンバスに絵を描き始め、その日のうちに完成させる。周囲の視線という、集中力を削ぐであろうものがあるにもかかわらず、黙々とキャンバスに色をつけていく。背中には撮影自由、むしろ大歓迎という貼り紙を貼っている。そのいさぎよさに感動したのがきっかけだった。「空想絵画物語」という名前のとおり、彼の絵は、いったいどういう世界なんだろう、と空想させる。夢の世界にいるかのような、ふわっと心が浮き上がるような気持ちになる。絵を見ている時くらい、現実の色眼鏡を外して自由にイメージするのもいいなぁと思う。

 

小さなギャラリーの壁全面をふさぐように並んだ絵は、混沌としている。絵描きさんが、ヴィレッジヴァンガードとか、ドン・キホーテとかが好きで、そういう店のような雑多感を出したかったのだという。月並みな表現だけれど、たくさんある絵の中から宝物を探り出すような、そんな感覚だった。もっと踏み込んで言うと、他の人はもしかしたら関心を持たないかもしれないけれど、自分だけはその絵の良さが分かる、自分だけがその絵をきちんと読み解くことができる、そんな一枚を探しているような感覚だった。読書が、自分だけが読み解くことのできる一冊に出会うための営みであるということと一緒だなぁ、と思い、それを教えてくれた本をふと思い出した。

 

私たちが手にしなければならないのは、世に広く知られた本ではない。「私」だけが読み解くことができる世界にただ一冊の本なのである。

(若松英輔「言葉の贈り物」亜紀書房)

 

出会ったのは、手紙をポストに投函しようとする謎の男の絵。自宅の本棚に置いてしっくりくるであろう予感というか確信があった。「何考えてるのか分かんないよ」もしかしたら他人にはそう思われるかもしれないけれど、でも筆まめで、直筆の手紙でコミュニケーションをとる、そんな男性像にあこがれている。そんなあこがれを、あこがれで終わらせないために、椅子に座って本棚を見た時に一番よく見える場所に置いたら、ちょうど「自分にとっての読書とは」を教えてくれた本があって、わぁ、ってなった。

 

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傍観者効果

先日、事務所から帰る途中の電車内でのことだった。終電の数本前で車内は比較的混んでいた。7人掛けの座席の中央付近に立ってイヤホンで音楽を聴きながら本を読んでいたら、視界の隅の方で何かが床に向かって動いた。周囲の人の視線が集中する。嫌な予感がした。ふと見ると、若い男が通路を横切るように、うつぶせになって寝ていた。どうやら相当酔っぱらっているらしく、自分の斜め後ろの座席に座っていたものの、そのまま前につんのめるように倒れたらしい。周囲はきょとんとし、困惑している様子だった。

 

自分も後で冷静に思い返すと本当に情けなくて仕方ないのだけれど、こういうときにとっさに動く勇気がない。少し離れた隣での出来事であったことと、音楽を聴いていたこと、本に集中していたことから、しばらくの間無視していた。本当に勘弁してくれ、誰か起こして次の駅で降ろしてやってくれ、なんて思いながら。本当に恥ずかしいのだけれど。

 

自分の目の前に座っていたカップルが動いたのは、その時だった。立ち上がって寝ている男の方に向かい、大丈夫ですか、と背中をさすっている。さすがにこれ以上無視し続けるのは不自然だ。そして、彼らの行動に、自分も動く勇気がでた。「手伝いましょうか」という他の方の声も聞こえる中、全然目を覚まさない男を彼と持ち上げ、次の駅で降ろした。駅員さんに話をしたらすぐにお巡りさんを呼んでくれ、なんとか引き渡すことができた。後の電車も残っていたから、問題なく帰ることもできた。

 

それにしても。さっと動いたカップルのおかげで、自分もそれに背中を押されるように対応することができた。逆に言うと、彼らがいなかったら、彼らのように対応する人がもしもいなくて、周囲の皆が面倒くさがって対応することを拒んでいたら、自分もその対応を拒む一人となっていたかもしれない。そう思うと、ぞっとした。「お兄さん、これ、水、プレゼント」目の前の自販機で水を買い、差し出した彼を見て、一方でしりごみして、あろうことか無視を決めつけていた自分が、情けなく感じられた。

 

カップルの行動に勇気づけられ、まぁ状況にもよるだろうけれど、これからは動くべきだと思ったら動こう、と思った。と同時に、傍観者となりうる自分も目に浮かぶ。ふと、相棒でそんなストーリーがあったな、と思い出す。

 

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殺人現場に居合わせた通行人の誰もが、被害者に見向きもしない。防犯カメラの映像を客観的に見て「なんで無視するんだ」「警察くらい呼んだらいいのに」と非難するのは簡単だ。だけど、いざ自分がそういう場面に遭遇したら、きちんと動けるだろうか。面倒ごとは御免だと、傍観してしまわないだろうか。もっというと、無視してそこから離れようとしてしまわないだろうか。少なくとも自分には、「自分は違う」と胸を張って、人を非難できる自信はない。ただ、自分はそうじゃない人間でありたい、とは思う。

 

Changes Far Away

来年4月からの新居の工事が着々と進んでいる。持ち家ではないからお金も時間もそんなにかかるわけではないけれど、それでも自分にとって人生の一大プロジェクトとして位置付けている。楽しみで、うずうずする毎日だ。

 

住まいのテーマは、「ダイニングに集う暮らし」。いわゆる「リビング」がない。いや、語弊があるだろうか。一般的にイメージするであろう、ソファがあって、コーヒーテーブルがあって、テレビ台があって、テレビを観ながらソファに寝転がってくつろぐ、そんな空間をリビングと呼ぶのであれば、うちにはリビングがない。というか必要ない。リビングを文字通り「生活の場」と位置付けるのであれば、ダイニングテーブルがあるダイニングが、自分にとってのリビングである。ご飯を食べたり、家族で団らんしたり、コーヒーを飲んだり、お菓子食べたり、本を読んだり、パソコン広げてネットサーフィンしたり、書き物をやったり・・・。いろいろなことがダイニングでできるから、ここにいる時間が一番長い。結果、リビングはいらなくなる。そもそも、テレビを持っていない。

 

そんな住まい、結局これまでの独り暮らしのワンルームがそうじゃないか、といわれればそれまでだけれど、ただワンルームを探して住むのとはやはり違う。内装の仕上げを、置く家具をイメージしながら決めて、逆に新たに必要になりそうな家財をピックアップしていく。この際要らないんじゃないかというものも、あれば思い切って手放す。このところ自宅の平面図が手から離せない。いつもバッグに入れていて、通勤電車の中でことあるごとに広げて眺めている。本当に楽しい。

 

ひとりきりなら 食事も寂しい

でも噛みしめる孤独もオカズだよ

 

愛だけを支えにして

答えを探してドタバタ生きるよ

(THE YELLOW MONKEY/Changes Far Away)

 

「ダイニングに集う暮らし」を楽しみに、それまでは、ひとりきりの食事だって満喫しようじゃないか。孤独だからこそ、そうじゃないときの嬉しさが倍増する。THE YELLOW MONKEY の、ニュース番組の主題歌に選ばれた超メジャー認定のこの曲を、格別に優しく美しいこの曲を、聴きながら孤独を噛みしめる。

 

youtu.be

 

 

本と実体験とを結ぶエッセイ

吉祥寺に、本のセレクトが好きでよく行く小さな本屋がある。先日、その本屋の店主が自分のことを「常連さん」と認識していて、また来てくださいね、と言っていたということを人から聞き、胸にしみわたるものを感じた。「常連」その言葉から私はいつも、「俺さまだい」という上から目線で傲慢な態度をイメージするので、自分はそうはなりたくないという思いから一定の嫌悪感を持ちながら、一方で、よく来てくれるお客さん、と覚えられているということは、すなわちその本屋に対する好意が届いたような気がして、まるで片思いの女の子に告白して好意が伝わったときのように、嬉しい気持ちにもなる。自分の場合はその後者の気持ちが勝って、ますますその本屋のファンになり、そして今日もその本屋で本を買うために吉祥寺へ向かった。

 

instagramのポストを見て気になっていた本が、岡本仁「続々 果てしない本の話」だ。正直に白状すれば、「一般発売よりも少し早めの入荷です」という誘いにつられたのも事実。だけどそれ以上に、本が次から次へと登場するエッセイ、という構成に惹かれた。本に限らず、音楽でも、ドラマでも、雑貨でも、何でもいいのだけれど、そういうものと実体験とを結びつけるエッセイ形式の文章を、すらすらと書けるようになりたいとずっと思っている。日頃なにか体験したときに、「あれ、これ以前観たドラマと同じ状況じゃないか?」「この気持ち、誰かの曲の歌詞にあった気がするな」と思いを巡らせるその過程に、なにか快感をもたらす物質が含まれている気がする。

 

本屋に着き、店主に挨拶し、本棚を眺め、あったあったと目当ての本を手に取って、帯を読む。雑誌「アンドプレミアム」の連載をまとめたものであるということを知ったのは、その時だった。「アンドプレミアム」は、定期購読とまではいかないまでも、好きで比較的買って読んでいる雑誌だ。でも連載のことは知らなかった。目には入っていたかもしれないけれど、意識して読んでいなかった。「岡本仁さん、いいですよね」レジで本を渡した際に店主にこう言われてドキッとし、正直に「この方、知らないんです。アンドプレミアムは好きでよく買って読んでますけど」と言ったら、店主は「そうですか。私は逆に雑誌の方は読んでないんですけれど」と笑った。ひとつの本へのたどり着き方も、人それぞれなんだな。

 

第19話「好きな曲で踊る人々」を読んでいて、まさにいまの自分の境遇と重なった気がした。手に取った本が実は雑誌の連載をまとめたもので、その雑誌を現に自分は何冊も持っている。それでも「なんだ、連載をまとめただけか」と落胆することもなければ、ましてや、家に帰れば大半は読めるんだから買わない、とも思わず、むしろ買わないという選択肢に全く気付きもしなかった。きっとそれは、その本を単なる「文字情報の羅列」としてではなく、本と実体験とを結びつけたエッセイというコンセプトに基づいて編集された「モノ」として魅力を感じたからに他ならない。無名の人が踊っている写真集「DANCING PICTURES」や、テーマに基づいてinstagramにポストし続けた写真をまとめたアンディ・スペードの写真集が、明快なコンセプトを持っていて面白く感じるのと同じように。

 

帰宅して、本棚から「アンドプレミアム」を引っぱり出す。連載、あったあった。普通にここに同じことが書いてあるネ・・・なんてちょっと寂しくもなったけれど、読む媒体によってそのエッセイから得るインパクトも違うのだということを、身をもって感じた。

  

続々 果てしのない本の話 (アカツキプレス)

続々 果てしのない本の話 (アカツキプレス)

 

 

こだわりのマルシェ

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多摩センターの「こだわりのマルシェ」へ。去年初めて行ったから、二回目。

 

多摩センター駅前の広場、通路で出店やイベントが。こうして普段なにもないところに突然価値を発信するなにかが集まり、人が集まる、というプロセスが自分は好きなのだと改めて実感する。甲高い声で空気を沸かせるDJの音楽に乗って身体を揺らす人たち。ダンスを発表する女の子を見つめる人たち。昼間からビール!の勢いで、まだ暑さが残るなかベンチに座って休む人たち。サイレントパフォーマンスに驚く子供たち。小銭入れに可愛くお菓子が置いてあったり、、、。微笑ましい日曜日。

 

お目当ての作家さんとも久しぶりに会えて、嬉しかった。挨拶、よい報告もできた。

 

こういうイベントを、いつか企てる側に行きたいと思いながら、なかなか実現できていない。実現させようという勇気がない。きっかけはあるはずなのに、、、。

 

寓話に学ぶ、仕事への取り組み方

仕事に対する姿勢であったり、所内でのコミュニケーションのとりかただったり。働き方全般について、そろそろ冷静に、いまの状態でいいのか、良くなければどう改善すべきか、考えなければいけないと思っている。目の前の仕事に没頭するのもいいけれど、果たしてそれでいいの?と立ち止まって考える時間が、必要だと。

 

自分の働き方を考えるときに、ひとつの羅針盤となるのが、寓話だったりする。「このように行動したらどうなるか」「こう考えるということはつまりこういうことだ」といことを分かりやすく理解できる。所詮は寓話でしょう?とはねのけるんじゃなくて、そこから得られる教訓を、きちんと身に染み込ませることが大切だ。

 

特に私がいいなぁと思った寓話は「二人の商人」。江州の商人と他国の商人が重い商品を背負って峠道をのぼる。ひとりが「この山がもう少し低ければいいのだが」と愚痴をこぼすと、もうひとりが、「つらいのは私もあなたと一緒だ。だけど私は、この山がもっともっと、10倍も高くなってくれたらと思います。そうすればたいていの商人は途中で帰るでしょうが、私はひとりでのぼって、思うように商売をしてみたい。この山がまだまだ高くないのが、私には残念でならない」という、という話。競合が諦めるくらい困難なところにこそビジネスチャンスがある、といまなら解釈するだろうか。自分のような凡人以下の人間では他人と同じ土俵で戦って仕事できるわけがない。他人が嫌がることにこそ注目しましょうよ、と私は捉えている。それが、住まいづくりという分野での、既製品を多く供給する仕事ではないからこその企画の考え方につながっているのだと思う。

 

もうひとつ、有名な話だけれど、「三人のレンガ職人」の寓話も肝に銘じたい。建設現場で作業をしている三人のレンガ職人が「何をしているのか」と質問される。一人目は「レンガを積んでいる」と答え、二人目は「壁を造っている」と答え、三人目は「大聖堂を造っている。神を讃えるために」と答えた、という話。いまやっていることのその先まで見据えて、大聖堂をつくっていることを意識して動く三人目の職人でありたいと思う。

 

ものの見方が変わる 座右の寓話

ものの見方が変わる 座右の寓話

 

 

いいこと、を数える

「休日はこれをして有意義に過ごしました」という何か一つ突出したものがあるわけではなく、いろんなことをしながらなんとなく時間が過ぎていくことが多いので、夜、こうして一日を振り返ると、あまり達成感はない。今日は、午前中少し仕事をしたあと、事務処理をしようと思って事務所へ行くも、やる気が起きず、諦めた。帰りがけに寄ったサントリー美術館の展示では、鼠志野の美しさにうっとりした。いつものカフェでは隣に座った赤ちゃんがかわいくて、つい頬が緩んだ。帰宅後、河川敷を少しジョギング。水際を走るのはなぜだかすごく気持ちいい。戻って、ご飯を食べて、のんびりしていると、もうこの時間だ。これが有意義な休日だろうか、と疑問に思うこともあるのだけれど、自分の身体が自然にそうすることを選択しているという感じなので、きっと有意義なのだろう。好きなケーキ屋の焼き菓子を食べながら、この甘さも身体が欲しているんだから仕方ない、と思うことにしよう。

 

仕事では相変わらず自分の手際の悪さに眩暈がする毎日だけれど、不機嫌になっている限り自分自身成長がないし、周囲にもその不機嫌の波が伝播して、空気が悪くなるに決まっている。機嫌が悪い人を見ると機嫌が悪くなる自分が何よりの証拠だ。休日に、なにかこう、ほっとするような、癒されるような、落ち着くような、気分があがるような、そんな出来事を多く経験すれば、仕事で多少嫌なことがあっても、乗り越えられるんじゃないか、と本気で思っている。だから休日に起きた楽しい出来事を、できる限り覚えておこうと思う。

 

今日だって、駅のホームに着いたらちょうど乗る電車がやってきた。駅前の本屋では、店員さんに丁寧に接客してもらった夫婦のお客さんが「親切な人でよかったね」と言い合っていて、ほっこりした。いつものカフェでの赤ちゃんがかわいくて、ついにやけてしまったときは、こんなことで笑顔になれるんだったら、その気になればどんなことでもやり過ごせるんじゃないかという変な自信までついた。河川敷を走っていたら、地域猫がたくさんいて、それも全然動じずにボーっとしてたり寝てたりしている。猫は自由でいいなぁ、なんて無責任にもうらやましがったりする。そしてなによりかわいい。・・・なんだ、数えてみるとけっこういいことがあったじゃないか。

 

こうした「いいこと」を体感したときの気持ちのままで、ずっと過ごすことができないものだろうか。

 

今までにない職業をつくる

書店でタイトルを見かけるたびに気になっていたものの、見て見ぬふりをしていたその本を、勇気を出して手に取った。なぜ勇気を必要としたのか。読んでから、その手に取らなかった空白期間を後悔する。でも、その理由もなんとなく分かる。きっと、自分に「いままでにない職業をつくる」ということに向き合うこと、つまり言い換えればいまの自分の職業にきちんと向き合うということから、どこか逃げていたのだと思う。

 

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

 

 

この本から学ぶべきことは、タイトルにあるとおり「今までにない」職業をつくることそのものではないと思っている。今までにない職業をつくること自体にこだわる必要はない。自分をしっかり見つめて、自分を社会に対してどのように役立たせたらよいのかを考えた時に、既存の仕事を全うすることが妥当だと思えるのであれば、その仕事にまい進すべき。ただ、自分がこうすべき、を実現するための仕事の仕方が職業としてないから今の仕事をするしかない、と考えるのであれば、その考えは改めて、自分でいままでにない職業をつくったら良い。「自分は何がしたくて、どうしたら役立てるか」を考える過程こそが大事なのだと思った。その結果、行きつく先が前例のないものだとしたら、うろたえずに、自由な発想で進んで行けば良いのだと。

 

 

blast! the music of Disney

夕方、渋谷でエンターテイメント鑑賞。数年ぶりに「blast!」を観た。今回はディズニー音楽とのコラボ。有名な曲を交えつつ、全体で一つの物語が進行するように進んでいった。

 

正直、観る前は、ディズニー音楽に寄っていて本来のblast!のカッコよさが味わえないんじゃないかと不安だったけれど、全くの杞憂だった。音楽の良さもありつつ、いつものblast!らしさもバッチリ組み込まれていた。トランぺッターが暴走するくだりだったり、暗闇でパーカッション隊の身体の蛍光色が浮かび上がる演出だったり、ベルを用いた合唱だったり。

 

石川直さんの演奏も圧巻。トリッキーなパフォーマンスも、リズミカルかつ落ち着く連打も、コミカルな演技も。いろいろな表情を魅せてくれて、またファンになった。パイレーツオブカリビアンでの髪をほどいた鬼の形相には、しびれた。

 

特にパーカッションのパフォーマンスのすごさを数年前に味わってしまったので、正直なところこれがないと物足りないくらい。でも今日久しぶりにその迫力あるパーカッションを再び体感することができて、本当に涙が出たし、感動した。ここ数年離れていたけれど、身体に興奮がよみがえった。これからも続けてほしい。

 

新聞のコラムを読む

要約力を鍛える訓練として、新聞の「コラム」を短くまとめるということを、小学生の時だったか、中学生の時だったか、やった記憶がある。コラムには短い文章の中に起承転結が詰め込まれていて、無駄な情報がない。その内容を踏まえたうえで、さらに文字数を少なく、要点をかいつまむ。いま考えると結構高レベルで、社会人になってからも活用できる力をつけることができる内容だと思う。

 

当時、実家では朝日新聞を取っていたので、「天声人語」。第一面の下段、限られた枠内に詰め込まれた情報を読みながら、要約する訓練をしたのがなつかしい。そして時間は経ち、社会人になったいまも、新聞を手に取ってまず目にするのは、一面よりむしろ、コラムだったりする。いまは日経新聞だから、春秋。最初の数行で展開される情報が、時事ネタを経た結論への伏線になっていて、ショートエッセイを読んでいるかのよう。だから要約力を鍛えるためのテキスト、というよりは、それ自体が要約された小さなエッセイとしていまは楽しんでいる。

 

オチを読んで思わず「うまいな」と唸ってしまうような展開は、小説を読んでいても本当に楽しい。そういう言葉の展開を自分自身でも生み出すことができたら、文章を書くことがもっと好きになるだろう。このブログで書き続けることが、コラムのようなまとまった文章を書くための訓練となれば、続ける甲斐がある。

 

安心できる場所

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自分にとって「あっ、ここまた来たいな」という場所を、それは喫茶店でもレストランでも、本屋でも雑貨屋でも、はたまたイベントでも、まぁなんでもいいのだけれど、そういう場所をできれば多くつくって、そこへ行くことを楽しむことが、自分の心を喜ばせるために必要なのだと思う。そして、究極はその場所がたったひとつであっても、そこへ行くことが無上の喜びだと思えるような場所であれば何も言うことはない。その境地にはまだたどり着けそうにないけれど。

 

久しぶりに行ったカフェで、扉を開けた時に店主と目が合って、何とも言えない安心感を感じた時に、そう思った。この安心感が快感だから、その快感を味わいたいがために、また来たいと思うに違いない。

 

そう頻繁には行かないようなところでも、安心できる場所があると嬉しい。表の豊かな緑が、久しぶりに来た自分を歓迎してくれているようで、余計に嬉しい。

 

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