ユーザー目線

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ワークショップでつくったスツールに、オイル塗装を施す。慣れずに、これでいいのか、まだらになってしまわないか、とヒヤヒヤしながらスポンジをあてていく。自らつくったとはいえまだ命を持たない無垢材のスツールに、自分だけの愛着という生命を宿すような、そんな感覚。ここまでが楽しい。若干塗る量が均等でない気がするけれど、それもまたいい。プロに作ってもらったものじゃないんだから、完璧じゃなくていい。

 

よく、愛着を持ちすぎて使うのがもったいない、なんて言葉も聞く。だけど自分は、ガシガシ使う。尻で座面をすり減らして、テカテカにするまで使う。使ってこその家具だもの。

 

こういう価値を、自分にとって唯一無二な価値を、これに出会えてよかったと心から思えるような価値を、提供できるような仕事をしていかなければいけないなぁと思う。お金をもらって「ありがとう」と言われるとは、そういうことだ。特に自分は、住宅という、家具よりももっとスケールの大きいものを扱っている。もっとユーザー目線を意識しないといけないと思った。

 

スツールワークショップ

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壁面本棚をつくってくれた家具屋さんのワークショップに参加した。スツールをつくるという豪華なもの。といっても、脚や座面など、部材はあらかじめ家具屋さんに用意してもらっていて、それを組み立てるというのが中心だった。だから完全に自分のオリジナル、というわけではない。けれど、決してDIY的な「手軽に自分でつくってみました」というものではなく、しっかりとした品質のものを、つくった。

 

組み立てることがほとんどといっても、終わったときにものすごい達成感を感じるくらい、決して簡単で単純ではない工程が含まれていた。相欠きの部分を金づちでたたいて(木殺し)嵌りやすくし、後に接着剤の水分で材が膨らませて外れにくくする。ホゾにのこぎりで溝を切って、脚を組んだあとでその溝にクサビを打ってホゾを広げる。材の表面を丁寧に、まんべんなくカンナやサンドペーパーをかけて平滑にする。どれもがスツールを強く、美しいものにするために必要な工夫だ。

 

自分がつくったのはスツールづくりのほんの一部だったかもしれないけれど、それでもこれだけの愛着が生まれるのだから、自分で主体的につくるというのは本当に面白い。そして、普段何気なく家具を「簡単につくるなぁ」なんて思いながら見ていたけれど、目に見えないところにも家具屋さんの細心の注意と工夫が詰まっているということを知ってから、家具を見る目が変わった気がした。もっと、自分の身のまわりの、人によってつくられたものを、細心の注意と工夫によってつくられたものだという意識を向けながら、丁寧に使おうと思った。

 

身体の声を聞く

久しぶりのジョギングによる筋肉痛が尾を引いて、思うように身体を動かすことができない。本来、走ることで身体の働きがよくなって、すがすがしい気持ちにもなって、集中力も増すはずなのに、逆をいってしまっては本末転倒。本当に、無理はよくない。少しづつでも、続けることが大事だとは思うのだけれど、ここで続けようとして身体を痛めつけては元も子もない。勇気を出して、続けないという選択をする。腰の痛みをなくしてから、ゆっくり再開させようと思う。

 

 

そんな身体の痛みを引きずりながら、先日10年ぶりに会った大学の仲間と食事。社会人になりたてでお互い右も左も分からなかった頃のように、近況を話しあう。あの頃と違うのは、お互いにそれなりに仕事をしてきて、いまの仕事へのやりがいを明確にもっていて、要はお互いに前を向いているということ。非建設的な愚痴はそこにはない。彼は、愚痴の一つもこぼしたくなるような状況とはきれいさっぱり別れていて、充実したいまを過ごしている。そして、勉強している。見習いなさいよと言わんばかりに自分を叱咤激励する友が、ここにもひとり、いた。

 

ここへきて自分のアンテナによく引っかかる言葉。「とにかく勉強」「熱中すること」「成功するためには、熟知すること」自分が無知であることをまず知ること。そして、その無知が恥ずかしいことであると感じること。そして無知のままにせず、知るための努力をサボらずにすること。大人になっても、社会人を何年やっていても、それが大事なんだなぁと思った。

 

そのためには、自分の身体の声をきちんと聞くことも大事。腰痛、筋肉痛を気にしていたら、自分に必要な情報も入ってこない。勉強しようと思っても、痛みに負けて「今日はもういいや」となってしまうかもしれない。もっと身体をいたわらなければ。

 

いまも部活動

久しぶりのRUN。年初に、毎週必ず走るとした自らの誓いはどこへ行ったんだ?典型的な三日坊主で、いつもと変わらない自堕落な生活が続いていた。これはよくない、せめて週末は走ろうと、今朝ようやく重い腰を上げることができた。本当は腰なんて重くないはずなのに・・・。

 

天気も良かったので走り心地は申し分ない。ただし運動不足がたたってすぐにばてた。だから毎日少しでも続けなければダメなんだ。けれど、平日の朝に走るのはちょっと難しい。気持ちが続かない。かといって仕事終わり、帰宅後に走れるかというと、それもまた難しい。暗いし。気分的にもそれどころじゃないし。

 

心にイメージするのは、中学高校の部活時代。「だるいから嫌だなぁ」と思ったって、結局は毎日走ってた。走ることで身体がひきしまるような感覚を肌で感じていたから、自然とつらいとも思わなかった。部活なんてそれが当たり前だと思っていた。だから続けられた。その時の気持ちを、いまも持ち続けたらいいんだ。いまも週末は走るという部活をしているのだと。

 

 

息を荒げて川沿いを走りながら、自分にとってのメンターを頭に思い浮かべる。松浦弥太郎、村上春樹、内田樹・・・。ライフワークとして走っている人、身体を動かしている人は、やっぱり強い。だから自分も。

 

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

それからの僕にはマラソンがあった (単行本)

 

  

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

  

武道的思考 (ちくま文庫)

武道的思考 (ちくま文庫)

 

 

みぎわに立って

昼間と夕方に仕事があって、その間にすきま時間ができたので、近くにある好きな本屋に立ち寄った。店内に入ると、先客が一人いた。声の高いおばちゃんが、並んでいる本を見ながらしきりに店主に話しかけている。

 

つくづく自分は短気で器が小さい、と悲しくなるのだけれど、こういう積極的でおしゃべりなおばちゃんに触れるとついイライラしてしまう。何を言っているのかよく分からなければ、何が目的なのかもよく分からない。こういう人にもにこやかに応対しなければならない店主は大変だなあ。もし自分が将来客商売をするようなことがあったと仮定して、こういうことが起こりうる以上、自分には絶対につとまらないだろうなあ、と思ってしまう。おばちゃんに背を向けたまま、さて今日はどの本を買おうか、と棚を物色する。instagramに投稿されていたあの美しい表紙の本が気になっているのだけれど、どこにあるんだ?

 

あなたのオススメの本は何ですか。ふいにそのおばちゃんの声がこちらに向かって飛んできたので、ぎくりとした。振り向くと、おばちゃんがこちらを見て、微笑んでいる。「すみません、初対面なのに急に話しかけてごめんなさいね」そう謝るおばちゃんの表情からは、こう言うと申し訳ないけれど、申し訳ない感を読み取ることができなかった。こっちに矛先がくるパターンか。

 

「本をたくさんお読みになりそうなお顔をされているので」と言われ、それはいったいどんな顔だ、と声を出さずに突っ込みながら、答えを探す。「いやまぁ、特別好きな本があるわけじゃなくて、いろいろ読みますねぇ、小説も好きですし、いろいろ・・・」と言えば「おすすめの作家さんを教えてください。覚えますから」と返ってくる。これは困った。自分はいま何か試されているのか?とはいえここで、「好きな作家ですか。若松英輔のエッセイとか、好きですねぇ。それに、これは小説でもエッセイでもないですが、内田樹の本は、刺激を受けるし、いま読んでいます」なんて言ったところで、たぶん話が通じないんじゃないか、とも思われる。そこで、無難な答えかどうかはさておき、「小説でしたら、伊坂幸太郎が好きですね。ちょうど昨日新刊が出たので、真っ先に買いました」と答えた。「あぁ、いいですねぇ」伊坂幸太郎は知っていたようで、なんとなく会話は成立した。そして今度は店主が答える番になる。「私はどちらかというと小説はあまり読まなくて、エッセイとか好きですね」。こういうときキチンと答えられる書店の店主はやはりすごい。

 

「それじゃぁ、また来ますね」おばちゃんが出た後、店内の空気は一瞬にして静かになった。結局、instagramで見た表紙の美しい本は売れてしまったらしく、同じくinstagramで知った別のエッセイを、買った。「伊坂幸太郎さん、好きなんですね」レジで店主に声を掛けられ、たじろぐ。え、ま、まぁ。「前にもいらっしゃいましたよね。お近くなんですか?」覚えてもらえていたとことを知り、急に嬉しくなった。話ついでにいまのおばちゃんについて聞いてみたら、どうやら常連でもなんでもなく突然来た方らしい。

 

いったいあのおばちゃんは何者なんだろう。好きな本は何かと質問し、答えさせるおばちゃんは、もしかしたら本の世界の妖精で、私がこの本屋で本を買う資格があるかどうかを確かめる面接官だったんじゃないか。そんな気がしてきた。

 

だとすると。店主があまり読まない小説をチョイスし、大好きな伊坂幸太郎をアピールすることもできなかった自分は不合格か。「好きな作家ですか?その話をすると長くなりますけれど、いいですか?」なんて気の利いた言葉がなぜ口をついて出なかった?「松浦弥太郎さんのエッセイが大好きで、たいていの本は読んでます」と素直に言えばよかったじゃないか。

 

不合格の烙印を押されたのではないかという不安を、まぁ好きな本なんてひとそれぞれだから、なんだっていいんだよ、と無理やり自分に言い聞かせてごまかす。そうして手にした本は、雑誌で見て気になっていた熊本の本屋の、店主がつづったエッセイだ。「流れる水のような」文章がきれいで、読んでいて心地よい。こういう文章を、書けるようになりたい。

 

みぎわに立って

みぎわに立って

 

  

サプライズを受ける

あっと驚くようなサプライズがあると、嬉しくなる。しかけるのももちろん好きだけれど、それよりも、サプライズによる「わっ」という空気、「おぉ」と鳥肌が立つような興奮が、好きなのだ。

 

📖

 

日常的にサプライズを行っているという人に出会ったのが、この本だった。この本を読んで、自分もサプライズを習慣化したいと思った。それで恩を売るとかそういうことではなく、たとえ仕事中であっても、その場の空気を和ませられるようでありたいと思ったからだ。「そちらの会社に、過去に重大な交通違反をした人はいませんか?」と電話をするくだりとかは、ちょっとやりすぎだと思うけれど。

 

人を喜ばせるということ―だからサプライズがやめられない (中公新書ラクレ)

人を喜ばせるということ―だからサプライズがやめられない (中公新書ラクレ)

 

 

 

THE YELLOW MONKEYが武道館に9999人を招待し、19年ぶりのアルバム「9999」の世界最速試聴会を行った。武道館で試聴会なんて贅沢だなぁと思っていたら、メンバーがサプライズ登場し、全曲生演奏をしたという。それはもう試聴会ではなく、全曲新曲のライブだ。

 

okmusic.jp

 

頭の片隅に「もしかしたらメンバーがサプライズ登場なんてあるんじゃないかなぁ」という想いがちらついていたのは事実だ。だけどまさか最初から登場し、全て演奏するなんて思ってなかった。そのニュースをチラ見して、どひゃぁ、ってなった。と同時に、そうきたか、相変わらずファンを楽しませてくれる、と、彼らの想いに嬉しくなった。

 

 

LUNA SEAのライブに行くと、毎回必ず何らかのサプライズがある。少なくとも自分はその選曲に必ず一回は驚かされる。終幕ライブの「FOREVER&EVER」とか、2010年東京ドームの「銀ノ月」(その時は違うタイトルだった)とか、2014年のさいたまの「VAMPIRE'S TALK」とか2017年のさいたまの「STORM」始まりとか・・・。定番曲も楽しみながら、所々で意表をついてくれる彼らの気持ちが、とにかく嬉しい。

 

そもそも、再起動「REBOOT」が最大のサプライズだった。それがあるから、いまでも興奮できる素敵な時間がある。

 

今年は、結成30周年記念日に新曲が出る。しかもガンダムの主題歌だって。楽しみ過ぎる。

 

okmusic.jp

 

クセがすごい本屋

東京ステーションギャラリーで開催中のアアルト展へ。アアルトの建築や家具、照明器具のデザインを味わった。特にアアルトの椅子が好きで、スツール60やアームチェアパイミオなど、美しい曲げ加工のフォルムを堪能した。「親和力」人間の生活と自然との関係を深く考えた建築家の思想を、これからももっと考え、自分の仕事にも活かしていきたい。

 

そのあとは千駄木。一度行って気になっていた書店「ひるねこBOOKS」へ。気になっていつつも手に取っていなかった文庫本、雑誌があったので、買った。

 

POPEYE(ポパイ) 2017年 9月号 [君の街から、本屋が消えたら大変だ! ]

POPEYE(ポパイ) 2017年 9月号 [君の街から、本屋が消えたら大変だ! ]

 

 

なんでリアル本屋がなくなったら困るの?なんで電子書籍じゃだめなの?そんな問いに対してきちんと自分は答えられるだろうか。きっとあいまいな言葉を口にしつつ、しどろもどろになるのだろう。しかし、この雑誌を読んで、良い本屋にはなんらかの「クセ」があって、それが本を求める人を刺激するのだということに気づいた。

 

そして、「僕の好きな本屋」特集の水道橋博士の言葉を読んで、自分が不甲斐なくも言葉にできなかった本屋に対する想いを、明確に口にしてくれたと思った。どんなに自分が他人より本を読んでいるという自負があっても、本屋に行く限り、自分はまだまだ本を読んでいないということを、永遠に痛感させられる。本屋とは、自分が無知であること、自分にはまだ読むべき本があるということを教えてくれる場所なんだ。

 

ひるねこBOOKSも、けっこう「クセがすごい」。猫の本、北欧の本、本屋の本、そしてアクセサリー作家さんのイベント。このクセが人を呼ぶ。あそこに行けば、面白い出会いがありそう、という期待がある。

 

www.hirunekobooks.com

 

 

 

再会

仕事の合間の空白時間。駅前を歩いていたら、目の前の定食屋さんから出てきた男と目が合った。うん?どこかで見たことがあるような、と考えるより先にその男の名前が脳に浮かび、一瞬にして過去にタイムスリップした。全然変わらないその優しい風貌に、安心する。3秒くらい無言で見つめあっただろうか。突然のことにも関わらず、あまりに冷静で、たいしたリアクションもなかった自分に驚いたのは、後になってのことだ。

 

10年くらい前、北海道に行くと言って急に姿を消した、大学時代の研究室友達がそこにいた。北海道へ行って農業をやる、と言ったのだったか。突然何を言い出すのかと突っ込むよりも前に、彼は本当に発った。それ以来、メールしても返事が来ず、つまりは音信不通になった。研究室の同窓会をやろうということになっても連絡が取れず、正直に言うと消息不明。このまま今後会えないのか、なんて不安すら感じたまま約10年が過ぎる今日、突然の再会に、なんだか拍子抜けした。びっくりしても大声を出さなかったのは、心の中で「きっとそのうち会えるんだろう」と期待していたからなんだと、いまになって思う。

 

定食屋に入った彼は、目の前でもたもたするおばさんにしびれを切らし、食べずに出てきたところだったという。そもそも、人と会う約束が急遽遅い時間になって、たまたまぽっかり時間があいて定食屋に行こうと思ったのだとか。一方自分は、事務所を出たときに、ご飯食べに行こうか、それとも近くの担当工事現場を見に行こうか、一瞬迷った。迷って、駅前の本屋に行ってからご飯を食べようと思って、駅の方へ向かった。途中、交差点の青信号が目の前で点滅し、走ったら渡れたかもしれないけれど、急いでもないし、と思って諦めた。信号を待ち、ゆっくり歩いて、たまたま定食屋の前を通った。そしたら会った。

 

もし、定食屋でもたもたするおばさんがいなかったら。彼のそのあとの約束時間が予定通りだったら。一方、自分がご飯を食べるより先に担当工事現場に行っていたら。そうでなくても、信号を急いで渡っていたら。どれか一つでも違う行動をしていたら、会わなかったであろう状況に、二人して感動し、これは奇跡だと言い合った。

 

 

空の向こうに神様がいて、定食屋に入る男と、事務所を出る男を、鳥の目で眺めている。その距離が徐々に徐々に近づいていき、一方が止まったり、ゆっくりになったりするのだけれど、最終的にぶつかる。そんな様子を、「こいつらは再会するようになっているんじゃな、ほっほっほっ」なんて笑いながら見ているんじゃないか。そう思えた。

 

人と会うことに運不運があるとしたら、自分はきっと運がある方だ。

 

エッセイ

エッセイを書きたい。正確に言うと、美しい言葉でエッセイを書けるような男になりたい。

 

そう思ったのは、たぶん松浦弥太郎さんのエッセイを読んだからだと思う。きれいに流れるような文章で、実際の出来事や、自身の内面を表現する。思わず「そうそう」と膝を打つこともしばしば。そんなエッセイを書くことが出来たら、今以上に心が豊かになるのではないか。

 

なによりも、身のまわりで起きたことや、そのときに感じたことを言葉に残すことで、あとで見返したときに「あの時はこういうふうに考えていたのか、自分は」と気づくことができる。いまの考え方と違うことを思っていたとしたら、それだけ時を経て成長したのだ、という実感も持てるだろう。自分の思考の変遷をたどるための道しるべとして、その時その時に感じたことを言葉で残していきたい。

 

 

だから、自分よりもはるかに年下でありながらも、強く、信念をもって言葉を扱い、それを仕事にしている人に会った時は、感動したし、尊敬する。

 

休日出勤が重なったため、先日振替休日をいただいた。貴重な平日休み、普段いけないところへ行こう。そう思って、下北沢の平日限定開店の店へ行き、帰りに好きな本屋に行った。毎日トークイベントを開催しているその本屋は、もしそのイベントがなかったら手に取っていなかったであろう本に興味を持たせ、そして買わせることができる。著者を知り、その本の深い部分を知る。書き手をとおしてその本の世界を知る。そしてそれが次の別の本への興味につながる。良い流れだ。

 

そこで出会った女性詩人の言葉が印象的だった。女子高生の時に詩で賞をもらい、将来詩人になろうと思ったけれど、それは勇気を出したうえでの決断では決してなく、自分にとってそれしか選択肢がなかった、自分にとってはむしろ保守的な選択だった、と。そして、言葉にできないことで感じるもどかしさこそが、言葉を書き続ける原動力になっている、と。言葉を生み出すという行為に対する真摯な姿勢に、心を打たれた。対談者が「奇跡のエッセイ」と大絶賛していた本を手に取り、ご本人のサインまでもらってしまった。こんな体験、毎日開催のイベントをとおして著者と読者をつなぐこの本屋を知っていなかったら、絶対にできない。

 

さっそく読んだ彼女のエッセイに登場する彼女自身は、あまりに正直で、決してカッコつけていない。飾らずに、ありのままを綴るその姿勢を知り、一日でファンになってしまった。彼女のように、正直に言葉を生み出せるようになりたい。

 

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

臆病な詩人、街へ出る。 (立東舎)

 

 

失わないこと、続けること

午前中、仕事。事務所でプロジェクトの説明会。外国人のカップルで、日本語があまりしゃべれない。一方、こちらは英語がほとんどしゃべれない。ゆっくり、簡単な単語を選んでかいつまんで説明しようとするも、なかなか思うように通じず、しどろもどろになった。

 

確か高校生とか大学生くらいのころは、もっと英語がしゃべれていたはずだ。こんなに英単語が頭に思い浮かばず、文法を組み立てることができないとは思わなかった。思えば、社会人になってから英語で話をすることを意識することがほとんどなかった。勉強をしなくなってからは、当然テキストなんて開いていない。「日本にいて日本で仕事しているんだから、日本語がしゃべれればいい。グローバルに会話ができなければこれからの時代仕事ができない、と言われるくらいなら、仕事なんてできなくていい」なんて開き直る。こうして、自分の脳からどんどん英語は遠ざかっていって今に至る。それは、しゃべれるわけない。

 

何事も、得るためにはかなりの労力を必要とするのに、失うのは簡単なんだな、と思った。

 

 

また少し腰を痛めた。ときどきこうして痛みはやってくる。油断できない。

 

運動不足もその一因か。そういえば、せめて週末だけはジョギングしようよ、と年初に立てた目標も、早くも頓挫してしまっている。忙しさにかまけて、自転車にもほとんど乗っていない。それなのに、一度は絶とうとまで誓ったのに結局はラーメンをがつがつ食べてしまい、腹ばかりふくれる。腰痛との因果関係はさておき、それは運動不足に決まっている。

 

一日10分のストレッチが三日坊主で続かないのなら。一日1分のストレッチでもいい。週1回のジョギングができないのなら、走る距離をほんのちょっとにしたっていい。大切なのは、続けることだ。毎日歯を磨くように、毎秒呼吸をするように、無意識にできるレベルで少しづつやったらいいんだ。

 

 

 

 

二番目の悪者 歩くはやさで

 

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定期購読している「絵本の定期便」。今月は、「小さい書房」という名の出版社の絵本が2冊届いた。素直な名前の出版社にも惹かれたけれど、それ以上に、2冊の表紙がこちらに訴えかけてくるその力に、圧倒された。普段は真っ先に取って捨ててしまう帯を捨てる気になれずそのままにしておいたのは、その帯に書かれたメッセージがあまりにも強烈に自分に入り込んできたからだ。このメッセージは、これからも忘れちゃいけないと思った。

 

「こいつか、悪者は」という予想と、「どんな罰があたるんだろう」という期待が、最後にひっくり返る。考えないことによる悪。自分の目で確かめないことによる悪。決して他人事ではなく、自分の仕事にもあてはまることがあるだろう。すでに耳に痛い。気をつけなければ。

 

二番目の悪者

二番目の悪者

 

 

ふと何気なくとってしまう行動によって、自分の身のまわりの変化を見逃してしまうことになりかねない。便利という名に甘え、身につけた気になっているだけで、本当は奪われているのかもしれない。スマホの画面を見るために下を向く自分に嫌悪感を抱くんだったら、空を見よう。

 

新しい私で 新しい今を生きよう

 

歩くはやさで

歩くはやさで

 

 

3月9日

仕事中にスケジュール帳を見てる時でも、そう。カレンダーで3月9日と気づくたびに「あぁ、3月9日か・・・」とぼんやりと思い、特に意識するでもなく頭の中にこの曲が流れて心地よい気分に浸れるくらいには、音楽が自分にとって身近な存在になったのだ。No music No life とはよく言ったもの。以前は「音楽なんてなくたって死にはしない。音楽で人生なんて変わらない。音楽にそこまでの力なんてありゃしないよ」なんて冷めたことを言っていたけれど、いまは「そうでもないよ、きっと」と言える。

 

卒業式シーズン。友との別れを前にして泣いた記憶は自分にはないけれど、涙することがあるのだとすると、それはきっと幸せなことだと思う。瞼の裏に誰かがいることで自分がどれだけ強くなれたことか、なんて思えることはそうそうない。自分も、誰かにとっての「強くなれたのはあなたのおかげ」のあなたでありたい。

 

・・・というか、15年も前の曲だったのか・・・

 


レミオロメン - 3月9日(Music Video Short ver.)

365個

午前中の仕事が終わって時間ができたので、駅前のにぎやかな街を歩いた。

 

小さな画廊に入る。2階がギャラリーになっていて、企画展をやっていたので立ち寄った。

 

去年の1月1日から毎日1つづつ、計365個のブローチに絵を描き続けたという作家さんのブローチ展。壁にずらっと並んだブローチに描かれた絵は、ひとつひとつが少しづつ異なり、また抽象的なイメージから人物画、草花、果物、風景と幅広い。その日の気分や体験した出来事などから描くものをイメージしたのだとか。そのモチーフに一切の偏りがないことに、驚いた。

 

最後、12月31日の絵は、ほんの1分くらいで描いたという。「もう描くことに慣れましたから」そう言ってのける作家さんはすごくうれしそうだった。毎日絵を描くことで、自分が絵描きであることを忘れないようにしたい、と彼女。絵描きなんだから自分が絵描きであることを忘れるなんてありえないだろうに、と一瞬思ったけれどすぐに思いなおし、自分の心と身体に自分のすべきことを染み込ませようとする姿勢に感服した。と同時に、毎日続けることで大きな成果が得られるのだということの一つの証明を、見た気がした。

 

毎日1回何かを続けたら、一年で365回。その積み重なったカタチが自分をどれだけ成長させるだろう。自分はそれを、このブログの言葉に当てはめる。週単位だけれど、地道にでも続けることで、積み重なったカタチが自分を成長させるものであれば。

 

www.nijigaro.com

 

年間フリーパス

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サントリー美術館のメンバーズ登録に挑戦した。年間フリーパスが一番の目的だ。普段から美術館に足を運んでいるわけではなかったから、これをきっかけにたくさんの美術作品を鑑賞したい。

 

仕事終わりに六本木へ。通勤途中の駅だから交通費がかからなくて良い。ただミッドタウン内は、何回来てもだいたい迷う。だから歩き疲れる。いろいろなショップにも目移りするし。

 

いまは河鍋暁斎展。遊び心のある絵画に見とれる。風神雷神に七福神。美しかった。

 

一番の収穫は、「とにかく今日全部を目に焼きつけなければ」と必死になる必要がなくなったこと。全部観なくてもまた近いうちに来ればいい、と思えた瞬間に、無駄な力が抜けて気楽に鑑賞できた。こうやって気楽に観られなかったことが、いままで美術館から遠ざかっていた一番の理由なんだと思う。

 

親父の教え

よく居酒屋のトイレとかに格言調の貼り紙が貼ってあって、用を足しながら「うーん、なるほど」と唸ることがある。今日もそうだった。

 

タイトルは、「親父の教え」だったかな。すべきこと、してはいけないことが箇条書きで書かれている。まさかこんなときに、こんなところで勉強させられるとは。でも、その通り。

 

 

「人に腹を立てるな」そう、その通り。ただそれがなかなかできなくて苦労している。穏やかに穏やかに。腹を立てたら負けだ。そんな気持ちを強く持つ。

 

「人から借りるな」と「人には貸してやれ」。うん、人生 give and take じゃなくて give and give だ。

 

「大飯を食うな」これは痺れた。たくさん食べてほしいであろう居酒屋で、これ。はい、食べすぎは身体に良くない。がつがつ食べて健康なのは成長期の子供だけだ。健康状態が仕事のパフォーマンスに直結する自分への戒めとして。