天道虫

10月14日。日曜日。

 

午前中、売買仲介の内覧対応。自分で説明をしながら、知識不足、事前準備不足を痛感する。それから、いま自分が動いている仕事は誰のための仕事かをきちんと思い浮かべること。どっちを向いて仕事をしているんだ!と注意されることが多いため。コーポラティブハウスの良いところをアピールすること。これは手を挙げないと損だと思ってもらえるようにアピールすること。冷静に考えなければならないことはたくさんある。

 

夕方以降、別の管理組合の打合せと理事会。大規模修繕工事の実施に向けて。こちらも、管理組合の利益のために自分をどのように役立たせることができるか。その一点だけをじっくり考えて、役立つための行動をしたい。求められていることに対して的確に助言できるように、こうすべきという流れを自分の中でまずイメージすること。そしてそのために具体的にどう動くべきかを思い描くこと。それが目下の課題だ。

 

 

日曜日の夜。まだ夜が明けてくれるな、と思いながら、音楽を聴くことで刺激を求める。今年もイエローモンキーは動く。彼ら(猿)に影響を受け、いま大活躍しているロックバンド(鶴)もいる。そんな後輩バンドの音楽に、また自分も影響を受ける。こうして音楽は受け継がれる。いまは彼らの新境地とも感じられる新曲をちょびっと聞きながら、彼らの次の動きを待つ。くるくるまわる天道虫は、次は誰の肩に止まる?

 


THE YELLOW MONKEY - 天道虫 (テレビ東京ドラマ「天 天和通りの快男児」オープニング映像)

 

岸谷五朗がかっこいい。

 

「鶴」にはまった。鳥の鶴ではなく、ロックバンドの「鶴」だ。

 

きっかけは、THE YELLOW MONKEYのギタリスト、EMMAのソロプロジェクト「brainchild's」だ。PVで見たベーシストのルックスがなんかかっこよくて、正直一瞬「ラーメンズの片桐仁に似てるな」なんて思ったけれど、ベースの弾き方がかっこよくて、気になった。それが「鶴」というバンドのベーシストだと知り、「鶴ってなんだよ」と思いながらも検索した。そうしたら、けっこうベテランなバンドであること、メンバー全員が鶴ヶ島出身で、鶴ヶ島の中学校の同級生であることがバンド名の由来だということ、ボーカルが俳優の袴田吉彦に似ていてなんかかっこいいこと、などが分かった。そして何より、聴きやすく楽しい曲がほとんどで、「おっ、いいじゃん」って思えた。

 

「こんばんは、鶴です。初めての人ははじめまして。いつもの人はいつもにまして。こんばんは、鶴です」その言葉が突拍子もなくて、面白い。でも彼らが真剣であるということは、彼らの曲を聴けば一発で分かる。ことロックバンドに関しては鎖国状態に近く、好きなバンドはとことん好きだし、まぁまぁ好きなバンドは多少は聴くけれど、それ以外の大半のバンドはとことん興味ない、そんな偏食を長いこと繰り返していた自分だ。だから久しぶりに「好きなバンドが出来ました」と思った。

 

大学時代、毎日鶴ヶ島駅を使っていた自分。ちょうど自分が大学生のとき彼らはインディーズで頑張っていたことになる。それが時を経ていま出会えたというのが、嬉しい。昔はTHE YELLOW MONKEYのコピーバンドをやっていたとか。イエローモンキーの音楽が自分の心のツボにはまるように、彼らのつくる音楽もまた、自分の心のツボをガツンと刺激した。こうして「好き」が数珠つなぎのように広がっていくのが、嬉しい。

 


鶴15th Anniversary 好きなバンドが出来ました-東西大感謝祭-@東京・マイナビBLITZ赤坂

 


鶴15th Anniversary 好きなバンドが出来ました-東西大感謝祭-@大阪・心斎橋BIGCAT

送る相手と伝えたい言葉

0.5ミリのボールペンを買った(普段は0.7ミリを愛用)。なんだか文字を書きたくなって、手紙を書こうと思い立ったのだけれど、書くことと送る相手が思い浮かばない。思い浮かんでも、たいした用じゃないから気が進まない。手紙は、送る相手と伝えたい言葉があってはじめて書けるものだ、という当たり前のことに気づいた。ただ筆まめでありたいとだけ思っていた自分。反省。

ジャムと消しゴムハンコと0.5ミリボールペン

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ジャムを買いに、雑司ヶ谷へ行く。パンが大嫌いだった子供の頃の自分が聞いたら、耳を疑うと思う。わざわざ何をしているんだ、自分は、と。月日は経ち、人間も、食べ物の好き嫌いも、変わるのだ。

 

デコポンマーマレードのジャムがとにかく美味しくて、それがきっかけでいろいろな味を試している。ブルーベリーに梅、ストロベリー。マイヤーレモンマーマレードも美味しかった。社会人になってから、朝食をとる習慣がなくなってまずいなぁと思っていたけれど、これで毎朝パンを食べることが楽しみになったら、朝食をとることをふたたび習慣化できるんじゃないか。そう願ってここしばらくは朝パンを食べている。ヴィドフランスのレーズン入り食パンにも、感謝している。

 

雑司ヶ谷の手創り市では、もちろんジャムに限らずいろいろな手作りの作品が集まっていて、見ているだけでも楽しい。かわいいポストカードだったり、木のオリジナルカード入れだったり、素材感のある革の名刺入れだったり。作り手の顔を見て、話をしながら手に取れるというのは、本当に楽しい。

 

 

雑司ヶ谷に行く前に、お茶の水に立ち寄った。こっちでもイベントをやっているのだとか。レモン画翠の前の通りでたくさんの作家さんが並んで作品を売っていて、東京のマーケットらしい活気にあふれていた。気になっていた消しゴムハンコ屋さんで、郵便番号枠のハンコを買った。さらにその直前、大手町の地下鉄乗り換え時に構内の文具屋でお気に入りのボールペン(いつもは0.7ミリ)の0.5ミリを買った。これで、今まで以上に手紙を書くペンが軽くなったら。

 

coquelicot99.thebase.in

 

dousa.jimdo.com

 

 

「特になし」なんてことはない

週末に記事を書くことを習慣にしてもう何年もたつというのに、いまだに上手に文章を書くことができない自分に、はがゆさを感じる。「文章は、上手に書こうと思ってはいけません。上手に書こうとすればするほど、気持ちが伝わらなくなります」そう教えられたこともあった。しかし、いやいや、とは言っても、とも思う。言いたいことを、順を追って、丁寧に書く。それには、それ相応の覚悟と、労力と、集中力が必要だ。文章を書くことは、何も必要以上に難しく考えることはないのだろうけれど、でも本当はそれくらい、困難なことなのだと思っている。

 

 

今日は特別なことは何一つなかったな。だから書くネタがないや。どうしよう、また明日にしよう。そうやって今日一日をさらっとやり過ごし、翌日へと向かうなんて日も過去にはたくさんあった。わざわざブログに書くほどのことでもない、というように。だけど、本当にそうか?今日は特に何とも感じなかった出来事であっても、記しておけば、忘れたころに見直すことで記憶がよみがえる。もしかしたら、10年後には違った視点でその出来事をとらえられるかもしれない。なぜなら人は成長するから。そう気づいた瞬間、「特になし」とやり過ごしていたことがもったいなく感じられた。

 

過去に出会った出来事の蓄積が、今日の自分を形づくっているということを知る。今日出会った出来事が、それがどんなに些細なことであっても、結果として自分の人生に必要不可欠な出来事だったのだと信じる。なんとなく過ぎる今日も、将来なりたい自分になるための一ステップになっていると気づく。それが大事だと思った。

 

 

昼間、仕事。コーディネートをしているコーポラティブハウス管理組合の理事会で、大規模修繕工事見積の打合せ。工事会社を決めるためのプロセスに積極的にかかわろうとする入居者の姿を見て、住まいへの愛着を感じて嬉しく思うと同時に、あなたももっと当事者意識をもってちゃんと考えなさいよ、と指摘されたような気がした。見慣れないであろう見積書を真剣ににらむ入居者の姿を、流れゆく一仕事の一風景ととらえて忘れてはいけないと思った。

 

発車メロディ

毎日利用している東京メトロ東西線の発車メロディーは、駅ごとに違っていて面白い。しかも駅ごとのメロディを進行方向につなげると一つの曲になるように制作されているという。導入された時から、面白い試みをしているなぁと思って今日までその曲を聴きながら通勤しているのだけれど、ふと意識したときに、どの駅がどういうメロディか、というのを記憶していないことに気づき、ぎょっとした。最寄り駅である妙典駅の発車メロディも、毎日聴いているはずなのに、なかなか思い出せない。他の駅のメロディとかぶる。最近でこそ注意して聴くようになったのでやっと覚えたけれど。

 

他の駅と似ているからか?音色が一緒だからか?日常的にさりげなく聴いている限り、覚えられないのかもしれない。注意力がない、観察力がない。自分の悪いところだ。

 

個人的には、葛西駅の西船橋方面行きホームのメロディが好き。西葛西を受けて盛り上がる感じが。

 

 

台風の影響でJR各線は夜9時以降運休することを昼間の時点で決めた。東西線も、地上区間は運転見合わせ。このところ災害もあって、危険だからというのもあるだろうけれど、安全を考えた良い判断だと思った。今夜は何事もないことを祈りながら、じっとしていよう。

midtown

六本木へ。たまたま知ったマルシェが東京ミッドタウンでやっているということで。さらに、興味があって行こうと思っていた「AUDIO ARCHITECTURE展」がすぐ近くだったので。

 

コーネリアスの小山田圭吾さんの新曲にあわせてつくられた映像作品を鑑賞する。ひとつの曲に対して複数の解釈があって、まったく別の映像作品が並んでいる。映像が目いっぱいに広がる空間でループスする曲は、聴くごとにニュアンスが変わり、心地よいと感じるポイントが変わり、新しい発見を得る。聴くことで受ける刺激が見るという行為によって変わるのだということを、身体で感じた。

 

ビオマルシェでは、以前月島の太陽のマルシェで出会った柏のオーガニックコンビニに再会。気さくな主人?と会話を楽しんだ。味噌にブルーベリージャムに、また自分にとっての特別な食品が加わった。職人の靴下屋さんにオリーブオイル、チョコと、気になるモノもたくさんあった。そうそう、移動式本屋も、国連大学のファーマーズマーケット以来、久しぶりの再会だった。たびたび会う機会があるというのは、嬉しい。

 

読書という荒野

ここ最近、本屋に行くたびにこの表紙が目に飛び込んできて、鋭い視線でこちらをにらむ著者に「しっかりしろよ、自分」と言われているような気がしていた。刺激的なその装幀と、帯の秋元康さんのコメントに気圧されて、目を背けてきたけれど、こうも頻繁に目が合うのもきっと縁、と思い、手に取った。何事も中途半端ではダメで、極端に狂わなければならないということを、いつもこの著者から教えられる。

 

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

 

自己検証・自己嫌悪・自己否定。この三つを読書を通して繰り返すことで、自分の内面を深め、成長させる。読書をただの情報収集ツールだと思っている限り、多くを読んでも意味がない。情報を得るための読書も大事だけれど、読んで何を感じて、そしてそれを行動に移したかどうか、それこそが大事なのだと、思い知らされた。

 

自分の心揺らぐ瞬間を発見し、思考の軸とすること(P15)

 

いまの自分の読書の仕方に対して「これでいいんだ」と甘んじるんじゃなくて、とは言え、「もっとこうじゃなきゃダメだ」と必要以上に力むんじゃなくて、もっと深く本と付き合い、自分の思考の軸をつくっていきたい。

 

賛否両論

いつもの美容院でマスターとしゃべる。1か月に一度は会うのでそう豊富に話題があるわけではないけれど、それでも彼としゃべっていると話題が尽きることがない。

 

 

新潮45でLGBTに関する特別企画があり、その意見が度を越えた言葉の暴力であるとして、店頭から新潮社の本を当面置かないことを決めた本屋がある。その本屋さんの、きっとものすごく勇気を振り絞って決断したであろう行動に、賛否両論があって驚いた。和歌山県の小さな一書店が、特定の出版社の本を訳あって置きません、とただ言ったに過ぎないのに。

 

表現するのは自由、というのは分かる。それを読み手が取捨選択するのも自由、というのも分かる。そしてそれと同じように、本屋さんだって売る本を自由に選べる、と私は思っている。だから、本を提供する立場である本屋さんが、自分の考えに反する意見の本を排除するのはいかがなものか、そうやってさまざまな意見に触れる機会を奪う本屋だったらなくて結構、という意見を見ると、本当にそうか?と疑問に感じる。

 

そこまで自分は町の本屋さんに求めるだろうか?欲しい本があって、例えば行きつけの本屋さんで店員さんに聞いて「うちではそれは扱っていません」と言われたとして、「なんだよ、偏った本しか置かないなんて」と憤慨してその本屋には二度と行かない!となるかというと、そんなことはない。目指す本がなかったら、置いている本屋を探すし、楽天ブックスだってある。町の本屋に「極端な論調のものも含めて全て平等に売るべき」と期待するのは、過剰なサービスの要求ではないかと思ってしまう。本屋さんはそこまで読み手におもねらなくて良い。

 

私は、偏った本しか置いていない本屋さんが好きだ。店主の好き嫌いが書棚ににじみでているような本屋さんが好きだ。私にとって本屋さんは、本を通して知ってほしい言葉を伝える担い手であって、読みたいからください、と言われたものを「かしこまりました」と提供してくれる担い手では決してない。

 

 

そんなことを、とりとめもなく美容院のマスターとしゃべろうと思っていたけれど、「こんなことがあったみたいですね」とちょっと話したくらいで終わってしまった。それよりも、マスターの「確かに世の中のバッシングは度を越えたものもありますよね」エピソードが面白くて、そうそう、と膝をたたいた。あるテレビ番組で、CM前に出演者が「このあとコマーシャル。トイレにいくなら今かもよ」みたいなことを言ったらスポンサーの顰蹙を買ったという。「トイレに行きなさい」とは一言も言っていないのに。視聴者を期待させて番組を面白がってもらえて、結果としてたくさんの視聴者に観てもらえる番組になれば、ミクロではCMを観ないかもしれないけれどマクロではCMを観る機会は増えるはずなのに。

 

世にはいろいろな意見があって、いろいろな批判もある。一見、何の問題もないだろう、という出来事に対しても、賛否両論がある。否の意見に心がどんよりしてしまわないためには、そういうものだという開き直りが必要なんだろう。

 

アーキテクチャ展

社会人になるまでは全く興味を持てなかったのに、いまは行こうと思えるものに、美術や建築などの展示、イベントがある。ある時、まとまった給料を使って都内の美術館を片っ端から巡ったことがある。あの時は、これが観たい!というものがあったのではなく、ただ行って観たという既成事実をつくりたかっただけかもしれない。けれど、観たものが自分をじんわりと形成している実感が持てているから、無駄ではないと思っている。

 

森美術館の「建築の日本展」は、最終週は絶対に混んでゆっくり観られないだろうからと、前の週に頑張って行った。それでもものすごい人がいて、建築に対する社会の関心が自分の想像を遥かに超えていることを知った。こういうとき展示の一つ一つを観ると、自分にはその建築をつくりだす役割さえ与えられないのだと言われているようで、悔しくなる。では、自分の役割はなんだろう、自分はどういう建築を供給する力をもっているのだろう(力をつけるべきなのだろう)、と考える。そうして、もっと小さな建築を、という言葉だけが頭に浮かぶ自分は、ダメなのだろうか。建築の内部と外部とを統合することが、建築家が負うべき責任である、なんて考えるより、門扉に不具合が起きたからその原因を探らなければ、とか、建具が壊れてしまったから工務店に修理を依頼してあげなければ、とか、目先のことで精いっぱいの自分は、ポリシーがないのだろうか・・・。

 

いま興味があり、会期中に行きたいと思っているのが、AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展。コーネリアスの小山田圭吾さんの新曲にあわせて、9組のアーティストが映像作品をつくるというもの。音楽と映像とが同時に記憶に染み込む刺激を、体感したい。

 

サントリー美術館、根津美術館、東京都美術館、国立西洋美術館、国立新美術館、千葉だと、ホキ美術館・・・。「あれ観た?」と聞かれて「観てない。興味ない」なんて答えるのは嫌だから、こうした展示は、なるべく観て、吸収したいと思っている。とは言え、「どうだった?どう思った?」と聞かれてもきちんと感想を述べられないくらい、そこで得たものを言語化することがとにかく不得手で、億劫なものだから、行ったことを言いふらしたくもない。こういうものは、行ってて当然だから。観て、ほんのちょっと何かを感じて、それが「すごいなぁ~」なんて陳腐な言葉だけで終わっちゃうこともあって当然だから。肩ひじ張らず、いろいろ行ってみたらいい。

 

食べたものが身体をつくる

食べたものが、明日の自分をつくる。いまの自分の身体は、いままで食べてきたものの栄養素の蓄積なのだと思うと、おのずと食べるものにも慎重になってくる。以前はさほど気にしなった。何食べたって死にはしないし、たくさん食べれば身体も大きくなる、と。そして、食べるものを気にしている他人に、そんなこと気にしたって仕方ないだろうに、と偏見の目を向けていた。その偏見の目が今、自分にブーメランになって返ってきた。

 

食べたものがその日の体調に影響するのだと実感したのは、ここ数年でのことだと思う。きっかけは、たっぷりラーメンを食べた翌日に気分が悪くなったことだ。100パーセントラーメンのせいというわけではないのだろうけれど、体調不良の原因のひとつであるのは間違いない。ファストフードを避けるようになったのも、このころからだ。マクドナルドには、もう1年単位で行っていない。以前は大好きでよく食べていたけれど、いまは食べたいと思えない。牛丼屋にしても、チキンにしても、そば屋にしても、注文した30秒後に出てくる食べ物とはいま、距離を置いている。

 

それで自分の身体がどうなるかは、分からない。でも、いままでの身体の不調の原因が、そうしたファストフードにあるのだとしたら、それを改善して、人がつくったものを食べて、力を発揮できる身体をもちたい。食べたものと体調が密接にかかわっていることを肌で感じる今だからこそ、気にしすぎだよ、とか、死にはしないよ、とか、我慢する方が身体に悪いよ、とか言われようとも、気にするようでありたい。

 

 

しばらく静まっていた腰の痛みが、またやってきた。あの時と同じ、いやな感じだ。完治までの期間を思うとそれだけで気が重くなる。なにか身体によくないことをしたか?最近は食べ物にだって、その量にだって、注意していたじゃないか。注意力が足りないってことか。食べ物だけじゃなく、姿勢だとか、適度な運動だとか、ストレッチだとか、そういうことも大切なんだろう。神様がくれたであろうこの試練を、身体をこれまで以上にいたわってあげることで、乗り越えたい。

 

センセイの鞄

自宅近くの本屋で、書店員さんのオススメ本コーナーがあり、この本があったので手に取った。美しい文体に心が落ち着く、という書店員さんのコメントのとおり、 パラパラとページをめくってなんとなく漂ってきた雰囲気が気持ちよく、その書店員さんの言葉を信じることにした。こうして意図せぬ出会いが生まれるんだ、きっと。

 

センセイが、優しい人なのか、清らかな人なのか、抜けた人なのか、ちょっと悪いところもある人なのか。まだ読み途中だけれどいろいろな捉え方ができるようで、読み終わるのが楽しみ。

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

あたたかい飲み物を、これと決めて飲む

あたたかい飲み物が好きだと思うようになった。それはコーヒーだったり、お茶だったり、紅茶だったり、最近は白湯だったりする。特に家では、夏であろうとあたたかい飲み物ばかり飲んでいる。

 

冷たい飲み物は身体が冷えるからよくない。誰かから聞いたのか本で読んだのか忘れてしまったけれど、そんな言葉が頭にあって、そんなこと気にする質じゃないだろう自分は、と思いながらも、なるべく避けている。昼間仕事中、気温が高くて、蒸して、喉が渇くときは水を飲むときもある。全く飲まないのはそれはそれでよくない気がする(数年前に尿路結石をつくって激痛に侵されてからは、なるべく水分を取ろうと意識はしている)。それでも、最小限にしたいと思っている。

 

あたたかい飲み物が好きで、コーヒーはこれ、紅茶はこれ、と決めると良いというのを本で読んで、なるほどと思った。好きな飲み物を決めて、それを飲んでいる時間をじっくり楽しむ。そんな暮らし、良いと思う。

 

自分だったら・・・。コーヒーは、行徳のカフェニルのストレート。いまはタンザニアとグアテマラがお気に入りで、そればかり買っている。紅茶や緑茶は、まだこれというものに出会っていないので、いま手元にある大井川茶園の静岡茶と不思議の国の紅茶を交互に飲みながら、いろいろ探している。

 

丁寧に暮らしている暇はないけれど 時間をかけずに日々を豊かに楽しむ知恵

丁寧に暮らしている暇はないけれど 時間をかけずに日々を豊かに楽しむ知恵

 

 

喫茶店でアイスコーヒーを飲まなくなったのはいつからだろう。営業で外まわりをしていた時は、とにかく喉が渇いて休憩中にアイスコーヒーに手を出していたけれど、最近はほとんどない。アイスコーヒーは喉を潤す飲み物であってコーヒーじゃない。コーヒーはあたたかいものだ。そんな自意識過剰な自分の声が聞こえてくる。別に美味しければなんだっていいだろうに。でもそれ以上に、あたたかいコーヒーの味が好きなのだ。家で一人で孤独であろうと、コーヒー飲んでのんびりしていたら、まぁどうだっていいやって思えてくる。

 

朝起きたらまず白湯を飲む。この本を読んで実践してみようと思ったことの一つだ。確かに気持ちが良い。目も覚める気がする。だけど、起きてからヤカンに火をかけてお湯を沸かすというそれだけのことが、なかなかできず苦労している。いい加減、朝に強くなったらどうだ、自分。

 

四歩

吉祥寺の食堂兼古道具屋(?)の四歩へ。四歩と書いてしっぽと読む。アパートの地下にあるようなフロアーに行くために車路を降りていく。先日の豪雨の時、大丈夫だったのだろうか、浸水しなかっただろうか、といらぬ心配をしてしまう。

 

ふだんの食事にちょうどいいようなごく普通の定食で、それが良かった。吉祥寺にこういう食堂があるのがなぜだか嬉しい。混んでいたけれど、古道具や雑貨のお店が隣にあるので待ち時間も苦にならなかった。

 

なにがすごいと言葉で表現するのが難しいのだけれど、インテリアだったり、食器だったり、流れている空気だったり、それぞれに、ちゃんと考えてるんだろうなぁと思わせる何かがあって、だからこそ、また来たいなぁと思えるのだと思う。

 

www.sippo-4.com

 

ナナメの夕暮れ

仕事終わり。駅前の本屋に寄り道したら、彼の本が目に留まり、そういえば、と聡明な彼のイメージとエッセイとが結びつき、手に取った。帰りの電車の中で読んで、物事を斜めに見ていたこと、それに飽きて物事を肯定するように意識し始める過程を知り、共感できることが多くて嬉しかった。そして翌日のヤフーニュースで、手に取ったのがまさにその新刊の発売日であったことを知る。過去の連載と書きおろしという構成であるも、ちょうどまさに今の彼を知ることができるエッセイだと思った。

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

「表参道や六本木を歩くと吐き気がする」自分は吐き気ほどはないけれど、言わんとすることは分かる。自分が関わるような場所じゃないと思ってしまう。

 

「スタバでグランデが注文できない」その自意識も、分からなくはない。私はそもそもショートサイズで充分だからグランデなんて頼まないけれど。

 

「ひとりでいてもあまり寂しくないのは、自分と話しているからなのだ」そうだったんだ、どおりで!と思わず膝を叩いた。そんな時間をたぶん他人より多く過ごしている自分には、当たり前のことすぎて気づかなかった。

 

仕事はもちろん一生懸命。周囲に感謝しながら。そのうえで、仕事以外で自分と会話する時間、場所をきちんと確保しながら過ごすこと。それを大切にしていれば、「自分探し」なんて言わなくてもだいたい自分のことは分かり、生きづらさに押しつぶされずにやっていけるのだと思う。