人を中心とした何か

実家に戻ると、時間軸が変わる、気がする。退屈と言ったら言葉は悪いけれど、それに近い。そのはずなのに、出来事ひとつひとつが刺激的で、面白い。米寿になる伯父(長男)は、電車とバスを使いこなし、突然やってくる。その伯父を送る途中、これまた超元気な伯父(次男)に会い、兄弟の会話に加わる。八丈島にまで釣りに行っちゃうような伯父(次男)は、今日もロードバイクで颯爽と走る。伯父(次男)と一緒に伯父(長男)を見送った帰り、近所で、庭でバーベキューを楽しむ家族に出くわし、お邪魔する。肉や赤飯を食べながら、今時の高校生と話したり、小さい子と遊んだり、10年以上振りにまちのおばちゃんと話したり。夜は、妹夫婦と一緒にご飯食べたり。とにかくいろいろあった。


人と人とがつながるきっかけを、つくりたいと思っている。その想いの根源は、実家で「人」を中心とした何かを体感しながらずっと過ごしてきたことに、あるんじゃないかと思った。

西荻窪

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180503104657j:plain

 

西荻窪へ。仕事で一度来たことがあるくらいで、ほとんど知らない街だった。こんなに面白い街だとは思わなかった。

 

商店街があり、新しい、そして小さなお店がたくさんあり、昼間からお酒をひっかけているおじさんが集う飲み屋路地がある。一日歩き回っても飽きなさそうだし、何度も来ることでその味をもっと感じることができる街だと思った。

 

古民家を再生してつくったレストラン「Re:gendo」へ行った。予約をしないと入れないんじゃないかと思うくらいの人気ぶり。11時の開店前から行列ができている。人を呼ぶ力があるって、すごいと思う。

 

日本家屋の良いところを残した内装で、手料理を食べる。おにぎりに味噌汁、蕗味噌のコロッケ。特別な日だから奮発して食べるというようなものではなく、日常的に食べるようなものを美味しく食べるって、改めていいことだなと思った。

 

街に人を呼ぶアイデアを。企画はそうあるべきなんだと思う。

 

自転車とクラシックギターと、熱

好きで、たくさん乗りたくて買ったはずの新しい自転車に一度もまたがらずに、この3連休を終えてしまった。そうか、そんなもんなのか、と自分が自分に問いかける。新しいものへの愛は、熱中度合いは、その程度でしかないのか、と。そうか、買うまではものすごく熱をもって接していたのに、いざ買ったらその事実に満足してしまい、大半の熱は冷める、というやつか。本当は、こうして文章に書くとその気持ちが客観的な事実として残るようで嫌な気もしたのだけれど、でも隠すものでもないし、そう感じたのならむしろ残しておくべきであろうと思った。

 

自転車に乗って、行きたい場所はある。電車ではちょっと行きづらい、小さな美術館だ。もうちょっと遠い場所にある目標も、ある。そのためにはそれなりの装備も必要だけれど。その目標に向かって最短距離を進もう、というよりは、いまはそのための相棒を手にしたことにまず、満足したい。そして、ゆっくりと、目標までの道のりを味わいたい。5年後10年後に、「自転車?あぁ、あれね、飽きたし、もう捨てちゃったよ」なんてことには間違ってもならないように。

 

museum as it is/美術館 as it is

 

 

ひとつ手にしたらひとつ手放す。その考えに共感してクラシックギターを手放すと先日宣言したのだが、まだ手元にある。ケースがなくてなかなか売りに持ち出せないという物理的な問題もあるが、それよりも、思った以上に「未練」が邪魔をする。

 

bibbidi-bobbidi-do.hatenablog.com

 

そんなとき、ふと「手放さなくていいんじゃない」と言われ、我に返った、ような気がした。新しいことに熱中することでその熱が散漫になるほど、いまもクラシックギターに熱をもって接しているのか?と言われると、首を横に振らないといけない。二股なんてかけられない、なんてカッコつけていたけれど、今現在、熱中しているゾ!というほどではないのであれば、いままでと同じつきあいでいいじゃないか。なるほどそう思い、今日も彼を抱えては、優しい音色に、酔った。新しい曲に挑戦する気力がなくたって、こうしていればいいじゃないか。やっぱり他人の意見は複数聞かなきゃだめだと思った。

 

川越のフレブル店長

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180429145039j:plain

 

街は連休モード。最大9連休の人はいま天国だろう。自分はと言えば、ちょっと自分の仕事の時間配分を誤り、暦通りではあるものの、まぁそれでも十分すぎる休みだ。1日2日も休みにしちゃったら、ダメ人間になるに決まっている。

 

今日は川越に遊びに行ってきた。他人から聞いて興味を持っていた和ろうそくやさんと、古民家ギャラリーが目的だ。

 

古民家ギャラリーは、自宅隣の手づくり市で出会った消しゴムハンコ屋さんの作品を扱っているということで知り、行った。白山の、紅茶の美味しい喫茶店「喫茶おとら」で個展をやったこともあるとプロフィールで知り、どこで繋がっているか分からないものだなぁ、と実感する。

 

「Hamano-ya」看板犬のフレンチブルがとにかくかわいく、実家の愛犬を見ているようだ。フレンチブルはみんなおんなじなんだなぁ、と思うほど、同じ態勢でくつろぎ、見つめてくる。かわいすぎる。

 

本当に民家を雑貨屋にしました、といったさりげない雰囲気が良く、長居したくなる。このように、派手でなくても、確実に価値のあるものを発信できるようでありたいといつも思う。

 

陶器も。木のカトラリーも。消しゴムハンコも。ポストカードも。最近こういったものに触れる機会が多く、いいなぁ、とまじまじと眺めてしまうものが多い。本当に、知ろうとしなければ一生出会うことのない世界だけれど、面白いものがたくさんあり、そういうものだけに囲まれた暮らし、もっと言うと、自分だけの何らかのストーリー、エピソードのあるものだけに囲まれた暮らしに、近づいていきたい。

 

経堂と紙文具とパン

午前中、仕事で経堂へ。経堂に行くと必ず立ち寄りたい、と思う場所がいくつかある。

 

「ハルカゼ舎」はすずらん通りにある小さな文具屋で、置いている商品のセンスがすごく良い。大好きな久奈屋さんの紙文具を扱っている数少ないお店のひとつで、ついあれもこれもと手を出してしまうのを、抑えるのが大変だ。

 

ハルカゼ舎

 

久奈屋さんの新作ミニカードを買い、昼ご飯を食べに駅の方へ。途中、美味しそうなラーメン屋さんがあったけれど、スルー。食べる場所は、HOKUOと決めている。なぜかと言われると、うまく答えられないのだけれど。

 

www.hokuo-tokyo.jp

 

チョコが手について食べづらいパンも、フォークで食べるのなんだかなぁと思うマフィンも。その不便さあってこその美味しさだ思うと、また愛おしくも感じる。そうか、このパン屋に興味をもったのは、別の管理組合のお花見イベントに呼んでもらって行った時の手土産に、新宿駅でドーナツを買ったのがきっかけだった。

 

「『いらっしゃいませ』が『エアロスミス』に聞こえる、経堂駅前のコンビニの店員」芸人が細かすぎるモノマネを披露した、そのコンビニは果たしてどこのことなんだろう、とふと思う。でもまぁ、仮に分かったとしても、その店員さんはもういないんだろうなぁ。なんて思いながら、経堂を後にする。「アランドロン不在でしたー。村おこし来るスタンハンセーン」じゃなかった、「ありがとうございましたー。またお越しくださいませー」と街が言ってくれているような、そうでないような。

 

 

一つを手に入れたら一つを手放す

新しい自転車に乗って、どこへ行くでもなく走ってみる。サドルが固いのか、触るとそうでもないのだけれど、座ると尻がやや痛くなる。座り方が悪いのか?でもスピードが出て、気持ちが良い。行動範囲が一瞬にして広まったような、大げさに言うと万能感があって、嬉しい。

 

新しいことに挑戦したり、何かを手に入れたりしたら、代わりに、いままで持っていたものを一つ手放す。そうするのが良いという意見に触れ、感動した。そうやって一つ一つに真摯に向き合い、熱中できるようでありたい。だから、大学入学と同時に始めて、抱え続けてきたクラシックギターを、今回手放そうと決めた。

 

16年間私の音楽ライフを支えてくれた相棒だ。寂しくないわけがない。それに、決して飽きたからとかそういうことではない。しかし、大学を卒業し、社会人になってからの12年間、引き続き上達し続けてきているのかというと、そんなことはない。手持ち無沙汰のときに抱えては、優しい音色に酔っていた。それだけ。向上心は、確かになくなってしまったかもしれない。

 

これから自転車という新しい趣味を真面目に味わうための、前向きなお別れだ。両方を同じように愛するなんてできない、と言ったらカッコつけてるみたいだけれど、そんな不器用な自分を許してほしい。と言いながら今日、買取店に持っていこうとしたら、ソフトケースがないことに気づき、戸惑った。これじゃまずお店まで持っていけない。出張買取に問い合わせをしたら、「クラシックギターは、店頭にお持ちいただいての査定となります」とのこと。世の中、なかなかうまくいかないようにできていらっしゃる。

 

I and bicycle

注文していた自転車が届いた。当初の予定から納期が遅れたけれど、別に急ぐものでもないし、のんびりと待つことができた。これから暖かくなってきて、サイクリングを楽しめそう。

 

南行徳の自転車屋(これもまた奇跡だと思えるような素敵な出会いなのだ・・・)でおおよその説明を受けて、乗る。思ったより前傾姿勢がキツイ。でも、走り始めたら心地よい。南行徳から自宅まで、あっという間に着いてしまった。いままでは、面倒だなぁこの距離で、と思いながらも電車を使うしかなかったのに。これで行動範囲が格段に広がりそう。

 

かねてから、ジョギングをしながらまとまらないことを考える時間が好きだったけれど、これに新しい趣味が加わることになりそう。身体に加わる負担が少ない分、ジョギングより気軽に。そしてジョギングより遠くへ。

 

ふと、昔、実家から数十分かけて自転車で自動車教習所に通っていたことを思い出す。当時、その教習所には送迎車があって、自宅のすぐ近くまでやってきてくれて、それに乗れば教習所に行けた。だけど自分は送迎車には乗らず、自分で自転車をこいで教習所に行きたいと思っていた。それくらい、まぁ当時は普通の自転車だけれど、自転車に乗って走るという時間が好きだったのだ。中学高校と6年間、毎日自転車をこいで学校に行っていたくらいだから、好きを通り越して飽きるくらいじゃないかと思うのだけれど、あの風を切って走る感覚が、好きなのだ。ただその向かい風が強すぎると逆にイライラするのだけれど。

 

社会人になり、最初の職場までは自転車で通勤していたが、不運にも自転車を紛失してしまい、それ以降、自転車とは縁のない生活を10年以上送ることになる。だから今日、久しぶりに自転車にまたがるとき、そのたどたどしさに自分自身が驚いた。でも、そんな空白期間をすぐに埋めてくれる心地よさが、自転車屋から自宅までの道のりにはあった。

 

出会いと、そこからつながる縁の力ってすごい。そう思った。

 

andbicycle.blogspot.jp

走りながら、出会いと別れを考える

土曜日は久しぶりに近くの河川敷を走った。意識しないと不摂生が続き、身体にもよくない。これから挑戦しようと思って買った自転車は納品待ち。急がないが、もうすぐやってくるので楽しみ。でもそれはそれとして、道具を使わず、自分の足だけで自分を振り返る「走る」という時間も、必要。

 

 

走りながら、仕事のこととか、プライベートのこととかを、考える・・・。よく行くカフェの看板娘とは、おそらく今日でお別れ。思えば、いまの住まいに引っ越してきたことがすべての引き金になって、たくさんの素敵な出会いに恵まれた。その一つである行徳のカフェには、今後も毎週末コーヒーを飲みに行くのだろうと思うものの、彼女の若いエネルギーを浴びることが行く理由の一つであったことは確かなので、とにかく寂しい。別に今後一生会えないわけじゃないんだし、と思うのだけれど、最後の「さよなら」の一言をどう言ったらいいのかが分からない。相変わらず「さよなら」が下手な自分だ。

 

手作り市で素敵な作家さんを知る楽しさに目覚めたのも、雑司ヶ谷の手創り市まで足を運ぶようになったのも、いまの家の大家さんの働きかけがあるからだ。一生モノの壁面本棚をつくってくれた家具屋さんも、「手紙を書く」という行為に対する心理的ハードルをぐんと下げてくれた紙文具屋さんも、みんなそうだ。

 

仕事では、いままで取り組んだことのない事業手法を模索中。コーポラティブハウスを、ただ集合住宅としてつくるんじゃなくて、プラスアルファの付加価値を。それはずっと前から考えていたんだけれど、なかなかできず、あるクライアントからの相談がきっかけで、提案をすることになった。正解のないプロジェクト。道にそって歩くんじゃなくて、新しい道をつくるようなプロジェクト。ターゲットは誰になる?クライアントは損しないか?そのプロジェクトに参加するメリットは?建築的アプローチはどうしたら面白いか?頭の中を、いろいろな情報やアイデアが、ぐるぐるまわる。考えはまとまらないが、それでもそうやって考えている時間そのものが楽しいと思えるのが、走ることの良さだ。

 

手作り市

自宅のすぐ近くで大家さんが主催する手作り市があった。今回久しぶりに会う作家さんもいたり、移転してしまったカフェが一日限定で帰ってきたりしていたので、楽しみにしていた。

 

昨日から雨の予報。雑司ヶ谷の手創り市は荒天のため中止。行こうと思っていただけに残念だったが、昼間には雨もやみ、こっちの手作り市は予定通り。新しい作品に出会ったり、久しぶりに会ったり、楽しかった。

 

ていねいに、手作りでつくられている作品を見て、そのデザインやこめられた想いに共感すると、その作り手を応援したくなる。この気持ちは、言うなればパトロンのようなものか。偉そうに言うつもりはないけれど、そういう感覚に近いと思う。それは、金銭援助をするとかそういうことではない。素敵な作品をつくる作家さんを、作品を買うことで応援したい。作家さんが作品をこれからも作り続けて他の人にその価値を広めるための原動力にしてほしい。そんなささやかな気持ちだ。

 

つい買いすぎてしまうのが悪い癖。消費のバランスが崩れる気がして、「まてまて、これ以上はやめた方がいい」と気づく。でも、作家さんを応援して喜ぶこと、作品を暮らしに取り込んで味わうことを趣味にできて、良かった。

 

m-nakanaka-komachi.com

 

孤独の詩人

 尊敬する紙文具屋さんの作品に猫が出てくる。それはこの詩人の作品がモチーフになっているらしい。そういった経緯で名前を知り、書店でその詩集をみつけ、思わず手に取った。「生活者としては孤独な生涯を送ったが」「孤独を求めて都市の群衆の中をうろつき」そんな孤独な詩人の内面を、知りたいと思った。自分は孤独である、それを受け入れることが生きる上で必要だということを、尊敬する文筆家から教わったからだ。

 

自らをみじめな存在とし、その自らを優しく抱いてくれと女に請う。その情景が、ひたすら気分を重くさせる。と同時に、自分もみじめな存在であることに変わりないんだと気づかせ、だからこそいまの自分が置かれている環境は、貴重で、幸福で、丁寧に扱うべきなんだと気づかせてくれる。

 

萩原朔太郎詩集 (ハルキ文庫)

萩原朔太郎詩集 (ハルキ文庫)

 

 

孤独であること。そのことを受け入れるからこそ、他人との出会いを大切にすることができる。そう思った。

 

風に舞う桜の花びら

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180401113005j:plain

 

自宅隣のホールでお花見イベントがあった。ウクレレ演奏を聴きながら桜の花を眺める。月並みだが、春を感じる素敵な時間だった。

 

「満開の時より、それが過ぎて花びらが散っていく風景が良いんだよね」今日、複数の人にそう言われ、納得した。一人は自分の年齢と重ね合わせて自虐的に言ったけれど、「絶頂期は過ぎたかもしれないが、いまも衰えていない。むしろいまが面白いんだ」とい言っているようで、なるほどと思った。まぁ、桜の花に関して言えば、確かに花びらが風に飛ぶ様子の方がきれいで、見ていて楽しいかもしれない。

 

 

住んで良し、見て良し、食べて良し。そして人と話をしてつながることができる。自宅周辺が地域コミュニティであり、また一定の目的のために集まるテーマコミュニティでもある。ホールで手作り市が開かれれば、作家さんや作品に会うために集まる。隣の美味しいフランス料理のレストランには、それ目当てに人が集まる。こうして出会った人と人が新しい価値をつくる。そういう循環ができれば良い。

 

漠然とした夢がある。自宅の中庭でマルシェをやることだ。朝市もいいな。特別なものを集めるんじゃなくて、日常的なもの、しかし普段手にしていなくて「ちょっと贅沢」なもの。例えば毎日の食卓に並ぶ野菜とか。ちょっと美味しい野菜を朝早くから並べて提供したら、毎日の食事がちょっと豊かにならないだろうか。その場で淹れるドリップコーヒーも良い。それこそウクレレ演奏なんてのもどうだろう。近所迷惑にならない範囲で。いろいろと空想はふくらむ。

 

 

コーヒー一杯飲む場所にすら困るような地方の街で、それには私の故郷も含まれるのだけれど、でもこんなものがあったら楽しいだろうな、そこに住む人の心も豊かになるだろうな、と思うものがある。本屋だ。小学生は学校帰りに絵本を覗きに立ち寄る。平日忙しいサラリーマンは、休日、仕事の情報収集用の本を買いだめする。主婦は料理の本だったり、エッセイだったり。

 

イメージするのは、世界の本屋を紹介する本で見たアメリカの本屋。「バーツブックス」平屋の簡易そうな建物にぎっしりと詰まった本棚。横殴りの雨が降ったら波板の庇をくぐって雨水が本を濡らしそうな勢いだ。そんな乱雑感が良い。それが囲うパティオにはテーブルとパラソル。そこで本を読んだら気持ちよさそう。営業時間外でも、置いてある缶にお金を入れれば本を持っていける。人と人との間に信頼関係があるからこそ成り立つしくみ。でも、言葉にしたらカッコいいけれど、田舎にはいくらでもあるでしょう?無人の野菜販売所が。私の実家の近くにもある。

 

世界の夢の本屋さん3

世界の夢の本屋さん3

 

 

本、それも大型書店やチェーン店にあるような新刊書だけでなく、自分でコンセプトをもってセレクトした、ぜひ読んでほしいという本を置こう。本だけでなく、厳選した手作りの雑貨、紙文具、活版印刷のポストカード、メッセージカードなんかも置きたい。コーヒーと日本茶とお菓子でくつろいでもらう喫茶スペースも必要だ。そうしたらちゃぶ台もいるな。そんなことを、頼まれもしないのに、また自分に運営する勇気もないのに、考えたりする。

 

(参考:実家近くの複合施設に学ぶ)

kariage-japan.com

 

 

頭の中に描いているだけで終わっているうちは、やりたいことでもなんでもない。何かそれらしい理由をつけて、実現するための具体的な行動に移さないのであれば、それは本当にやりたいことではないんだ、きっと。自分は本当は何がやりたいの?そんなことをじっくり考える、日曜日。

 

今週のお題「お花見」 

予定は狂うよどこまでも

金曜日の夜に休日の予定を立てる。そのときはワクワクしていて、やれる気持ちでいるのだけれど、土曜日の朝になると、そのとおりにいかない自分の身体に気づく。どうしても起きられないのだ。

 

大好きなカフェで朝食をとりながら健やかな朝を過ごすことも、昼前に事務所へ行って平日の仕事の残りを片付けることも、布団にもぐっているうちに頭がのぼせてできなかった。こうして予定が狂うことなんていつものことだと知っていながら、自分が誰よりもセルフコントロールができない弱い人間であることを知っていながら、それでも金曜日の夜に立てる予定にその弱さを反映させないのだから、つくづく頭が悪いなぁと思う。でも仕方ない。計画するときは気持ちも高まり、やりたいことをあれもこれもと頭に思い描き、その全てができる気がするのと同じだ。金曜日の夜には、できると思うんだもの。ちょっと頑張って起きさえすれば、すぐ最寄り駅で電車にも乗れるし、どこまでも続く線路を走って、どこへでも旅に行ける、そんな勇気が湧いてくるんだもの。

 

 

「偶然の力」小山薫堂さんの本で偶然を味方につけることの大切さを知り、偶然の出会いに気づくようにしよう、と最近意識している。重要なのは、とにかく動いてみること。動くからこそ、面倒くさがってたら出会わなかったであろう方とも、つながることができる。

 

ふと立ち寄ったいつもの本屋で普段あまり見ない書架を眺めていて、ふと目についたタイトルの本を、自分のその時の気持ちと無理やり重ねながら、でもあまり深く考えずにレジに持っていった。一書店員が書いたエッセイというくらいだから、正直中身については濃いものを期待していなかった。充実した内容を期待したというよりは、大物作家ではなく割と自分に近い距離にいるような一社会人が、仕事についてどう考え、どう行動し、その気持ちをどのように綴っているのか、興味があった。で、じゃぁ自分ももう少し頑張ってみるか、というように背中を押してくれるような文章が、ほんの一行でもあればいいなぁ、というのが本心だった。そうして数ページ読み、その期待を遥かに超えるすごい出会いだったと思い、自分の偶然力を自分でほめた。

 

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

探してるものはそう遠くはないのかもしれない

 

 

彼女の、すべてをさらけ出す全裸のエッセイを笑いながら読んで、エッセイの楽しさを改めて思い知った。「どれほど言葉をやり取りしても、傍で長い時間を過ごしても、その人が書いたエッセイを読む以上に、その人の本当に触れることは難しいような気がする」(P137)書き手の本当のことを知ることができる最高のツールなんだ、エッセイは。そう教えられたことで、これからもいろいろな人のエッセイを読んでその人の内面を知って自分の生きる糧にしようと思ったし、自分もエッセイを書いたらそこに自分の本当がにじみ出るのかなぁなんて淡い期待を、した。どう頑張っても、本書のような面白い赤裸々エッセイを書ける気がしないけれど。いや、書店員のようにもっとたくさん本を読む生活をし続けたら、もしかしたら書けるのか?

 

このブログを、自分にとってのエッセイを書き、保存する場だとうっすら意識しながら今日まで続けることができているのは、「週末限定」というルールで始めたからに他ならない。毎日書こう!と意気込んでいたら絶対にすぐ挫折していたし、書きたいときに書こうなんてユルユルな気持ちでいたらなおのこと続かない。エッセイを書くという、自分の本当を表出させる行為を今日も意識できているのは、約9年前に「偶然」決めたルールの賜物だ。

 

偶然彼女の本に出会えて、思わず笑っちゃう読書体験ができたんだから、休日の予定が狂っても、まぁ結果良かったんじゃないかと思う。

 

ポストカード

ポストカードが好きだ。きれいな写真や絵が描いてあるハガキに、一言二言書いて、贈る。なんか女々しいような気がして、堂々と言うのが恥ずかしいという気持ちもあるのだけれど、その「手紙を書く」という行為が、好きなのだ。

 

 

気になっていた神楽坂のギャラリーが少し遠くに移転することになったので、移転する前に立ち寄った。そのときに開催していた絵画展が、面白かった。自分より年下であろう女性が、真剣に絵と向き合っている。偶然その日はその作家さんの在廊日で、つくり手さんに直接作品について聞いたり、感想を言ったりすることができた。なかなかない経験に、しびれた。

 

特に、ボールペン一本で書いたという絵には、立体感というか、躍動感というか、疾走感というか、そこまで言っても決して大げさではない、でもうまく言葉で表現しづらい何かがあった。自分は一生努力しても描けないであろう絵を、描くのに時間はかかると言っていたけれど、スラスラと描いてしまう。それで見た人の心をグンと動かす力があるんだから、本当にすごいと思う。女性4人組による個展で、4人それぞれの絵の独特な世界を味わい、何枚かポストカードを手に取った。こういう人たちには、頑張って、作品を評価されるようでいてほしい。

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180326014347j:plain

森藤絢香

www.instagram.com

 

 

相模湖にある古家ギャラリーに、久しぶりに行った。蔵書票をつくってくれた作家さんの絵葉書展があって。

 

四季の花を並べた絵葉書展。それぞれ絵は消しゴム印で一枚一枚ていねいにつくっている。何だろう、この心が落ち着くような不思議な感覚になる絵は。その絵にまつわるストーリーを少しだけ教えてもらうのだけれど、そういうストーリーが、自分のストーリーと重なる面白さがあるのかもしれない。自分も幼少期、家の前の庭でこの花を見たわずかな記憶があるなぁ、とか。この絵葉書に何を書いて、誰に贈ろうか、と考えるだけで、楽しい。

 

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180326014448j:plain

久奈屋

hisanaya.net

 

 

ポストカードの魅力を再認識するここ最近だ。

 

味わい深いオトナに

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20180324200548j:plain

 

大好きでよく行くカフェで、インスタグラムにハッシュタグをつけて投稿するフォトコンテストを企画していた。そのカフェへの愛を何か形のあるモノで表現したくて応募したら、優秀賞をいただいてしまった。身に余りすぎる光栄だ。

 

写真を撮ることに対しては苦手意識がずっとあって、センス良く写真を撮ることができる人をうらやましく思っていた。なんでこんなきれいに撮れるの?と。だから、フォトコンテスト開催を知ったときは、自分が挑戦する土俵じゃない、と思った。だけど一方で、自分の想いを伝えることができるチャンスでもあるし、インスタ映えなんて関係ないだろうと気持ちを切り替えることができたから、挑戦できた。

 

コーヒーだったり、マフィンだったり、賑わっている様子だったり、スタッフの笑顔だったり。撮る対象はいろいろあるけれど、自分が勝手にテーマとして考えていたのは、時間が経ってもその価値をなくさず、むしろ味わい深くなり続ける存在でいてほしい、という願いを表現することだった。そしてそれを示す象徴が、店の入り口にあるロートアイアンのサインだった。まだオープンして1年経たないけれど、鉄は自然に錆をまとって、街に馴染んでいる。錆を身につけて表情豊かになったサインが、これからも時間をかけて成長していってほしいという自分のカフェへの想いを代弁してくれているように、感じた。

 

 

優秀賞の賞品としてミルをいただいてしまった。また宝の持ち腐れと言われそうだ。だけど、これを機に自宅で豆を挽いて、挽きたてのコーヒーを飲もう。

 

いままでは尊敬する方が挽いてくれたその豆を、今度から自分で挽くということは?それってむしろマイナスなんじゃないか?そのカフェでつくったコーヒーという、人の技術付きの味では、なくなってしまうのではないか?そんな不安が脳裏をよぎる。でもいや、そうじゃなくて、高品質の素材を使って自分でつくるということを、これから実践していこう。でないと、時を経て味わいを増していくカフェのサインのような味わい深いオトナに、なれない。

 

仕事を「振る」ということ

「何年待っても何年やっても答えは出ないぜ」 B.B.KINGのギターがそう言ってんだ YEAH!

(吉井和哉/フロリダ)

 

 

仕事帰りの電車内で。隣に座ったおじさんと、その前に立ったおじさんが、結構な大きさの声でしゃべりはじめた。その声量とまわりの混雑具合から、酒に酔っているのではないかと、つい身構える。二人の会話は、やはりというべきか、建設的とは思えない内容だった。やたらと俺に仕事を振ってくるんだよ。困っちゃうよね。自分でやったらいいんだよ。そんな愚痴が聞こえてきて、それはそれは大変ですねぇ、と肩をさすろうかと思ったけれど、とてもできない。

 

手元の本に集中する。と、ぱっと開いたページに書かれていたのが「「手伝って」と言う勇気。」。仕事を一人でやっているなんて思ってはいけない。自分で抱え込んで、もしあふれてしまったら、それこそ周りに迷惑をかける。手伝ってくださいと言える人が、強い。その言葉を読んで、自分一人で仕事を抱え込むことが多い自分への戒めとした。

 

隣で愚痴を言うおじさん。もしかしたら仕事を任せてきたその相手も、どうにか自分だけでできないか考えに考え、その結果、人に任せるのが正しいと判断し、嫌われることも覚悟して振ってきたのかもしれません。そんなに愚痴を言っちゃぁいけないですよ。・・・と思いながら、一方で、むやみに仕事を振られてイライラすることも確かにあるなぁ、と振り返る。「自分だったら、とりあえず自分でやってみることを考えるのに」と思う。隣で愚痴をいうおじさんと、まるで変わらない。

 

仕事を自分で片付ける方法を何としてでも考えるべきなのか。できないことはできないとすぐに見切りをつけて仲間に振るべきなのか。簡単そうで難しい、いつになっても答えが出ない問いのようだ。

 

孤独を生きる言葉

孤独を生きる言葉