いいよ

「つよくなりたい やさしくなりたい」ミュージシャンの歌詞から刺激を受けて、そうだ、自分はそうありたいと思っているのだ、と気持ちを新たにすることがある。自分のあこがれている自分像を誰かが高らかに歌っているのを聴くと、他人と想いが共鳴しているのだと感じ、嬉しくなる。

 


斉藤和義 - やさしくなりたい Live at 日本武道館2012.2.11 【MUSIC VIDEO Short.】

 

 

このブログのタイトルの由来にもなっているこの曲はいまも、休日を生きるエネルギーを与えてくれる。いつか、遠回りしても良かったと言える日まで、休日を中心に、充実させていきたい。

 


WEEKENDER - Yoshii Kazuya Dec-2014@Budokan

 

 

自分の生き方を良い方に導いてくれる言葉に出会えるのは、なにも歌だけじゃない。本、といっても、小説だったり、ノンフィクションだったり、エッセイだったり、ビジネス書だったり、いろいろジャンルはあれど、自分の生きる糧となる言葉はたくさんある。演劇だっていい。きっと心を揺さぶるセリフに出会えるはずだ。

 

しかしそれがまさか、喜劇で、それも何の事前準備もなくただぼーっとyoutubeサーフィンをしているときに出会えるとは思わなかった。無防備だった分、それが自分にとっての指針になると気づいた瞬間の驚きも大きかった。

 

「いいよ」「謝ってるんだから」文字にすると普通だけれど、これをさらっと言えるようでありたい。まるでコントのように、クイ気味で言えたら、他人に「いいんですか?」と言われても許せる器が自分にあったら、どんなに素敵だろうか、と。極めつけの「戦争なんて起きないよ」にはどひゃーってなったけれど。ほんとそうだ、とも思う。

 


よしもと新喜劇 恋する茂造 アキの「い~よ~」が炸裂ww

 

N:カフェニル -Caffe Nil-

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5月にオープンしてから、毎週末必ず立ち寄っているカフェがある。かねてから、自宅近くでの自分の居場所みたいなものがあったらいいなぁと思っていた。そんななかでの奇跡の出会い。発端は、去年の大家さん企画の手作り市までさかのぼる。

 

 

自宅のすぐ隣のマンションの共用部分を使って、大家さんが定期的に手づくり市を開催する。いろいろなところに足を運び、作家さんを探し、交渉し、集める。雑貨や工芸品、焼き菓子など、様々な作品が集まる手づくり市は、オーダーメイド、ハンドメイドのものが好きな自分にとっては宝の山のよう。そんな企画に参加した際に出会ったのが、Connect coffee campany だった。ネットショップ限定のコーヒー屋さんが、イベント出店をしていた。

 

www.connect-coffee-company.com

 

そこで飲んだコーヒーが美味しくて、話をするようになった。聞いたら、行徳で近い将来カフェを開業したいのだとか。それだったら行きますよ、妙典にはそういうカフェが少なくて、なんて話をした。そんな彼女の夢が、まさかその7か月後には実現されるなんて、その時は思ってもいなかった。

 

「ゼロ」を意味する「Nil」という店名からは、いままでの経験、技術を踏まえつつゼロから挑戦する、という意気込みが感じられる。ワインレッドの壁とちょっと高めのカウンター、それから来る人みんなウェルカムと言わんばかりに開放されたオープンな店構えが素敵で、すぐにハマった。とまぁこれらの褒め言葉は後付けに過ぎない。私は店主に出会って彼女の情熱を知って刺激を受け、屈託のない笑顔にノックアウトされた、つまりは「人」から入っていったから、店の雰囲気だとか、出されるメニューだとか、そういったものは正直どうでもよかった。どうでもよかった、というと聞こえが悪いか。どうであっても、それが原因で嫌いになることはないと思うくらい、良い人と出会えたと思った。

 

この出会いをつくってくれた大家さんはオープンにあたって店主に「とりあえず目指すのは30周年だな」とエールを送ったらしい。いや、50年って言ったかな?それくらいスケールの大きいことを言う(それを言えるということは、それが実現できるとたぶん期待しているんだと思う)大家さんもかっこいいけれど、そのエールを力に変えて、毎日毎分毎秒、屈託のない笑顔を絶やさずお店に立つ店主がかっこいい。平日はほぼ行けないけれど、週末は必ず顔を出す。これがいまの自分ルール。このルールを守ることで、自分もこの店と一緒に成長し、永く価値を提供できる存在でいられたら。

 

caffe nil - コネクトコーヒーカンパニー

 

フェイドアウトしないように

事務所近くのガレット屋さんに別れを告げて(※)、そこで「いくら気になっているお店でも、それがずっとあるということはない」ということに気づいた。当たり前なのだけれど。

 

(※) 

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だから、いま好きでいられるお店は大切にしよう。自分が閉店の一助となることのないよう、貢献しよう、と思うようになった。古本屋が好きなら、古本屋に行ったら必ず本を買う。シェフの手料理がおいしいダイニングには、月に一度でもいいから、あまり間をあけずに行こう。

 

 

仕事終わりに、駅前の本屋に立ち寄った。自分は本屋が好きで、街から本屋が消えてほしくないと本気で思っている一人なので、こうして微力でも売り上げに貢献して、閉店なんてことのないように頑張ろうと思う。

 

同時に、好きな作家さんの本でまだ読んでいないものが目に入り、好きな作家さんの本はとりあえず読んでみようよ、という自分ルールに基づき、手に取った。どちらかというと疾走感あるアクション、コミカルな会話がサクサク進むストーリーというよりは、ゆっくりと時間が流れ、考えさせれられるような、壮大な話なのではないかと予感している。

 

終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)

 

 

 

本を買って、本屋を出て。いつもならそのまま正面のパスタ屋に行くところだけど、このところ行っておらず、今日も足が向かわなかった。パッと見混んでいそうだったからという理由もあるが、それよりも、やぁ久しぶり、今日もお疲れさまです、みたいに話ができる店員さんがもしいなかったらどうしよう、と不安になってしまったからだ。

 

以前、自分が置き手紙を置いたそのお礼にと、ハート型のピザ(!)を焼いてくれた超絶かわいい店員さんも辞めてしまい、最近は顔なじみの店員さんにほとんど会えていない。これは、どんどんフェイドアウトしていってしまう、悪いパターンだ。そんな嫌な予感がしている。でも、そうはしたくない。

 

ガレットとハーブティと真面目な女性

その貼り紙を見たのは、昼休み、食事をしたあとで電話をしながら歩いていて、事務所に戻る前に電話を終えたかったからちょっと街をふらふらして、ふとその店の前にたどり着いた時だった。「まことに勝手ながら」形式的な文字がすっと目に入る。嫌な予感がした。電話で話をしながら、閉店を知らせる貼り紙を読む。失礼だとは思いつつ、電話相手の話がぜんぜん頭に入ってこなかった。

 

 

洗練されたお店が立ち並ぶ街路、そのビルの2階にあるガレット屋さんに初めて入ったときのことは、なんとなくだけど覚えている。仕事が夜遅くまでかかりそうで、息抜きに事務所を出て、夜風を浴びながら歩いていたら、たどり着いた。クレープなんて主食でも何でもなく腹の足しにもならない、と思いながらも、それでもなにかひきつけられるものを感じ、扉を開けて階段をのぼった。落ち着いた店内で食べたガレットは、主食として十分な食べでがあり、またあたたかいハーブティに癒された。

 

 

「また来てくださいましたね」そう女性に優しく話しかけられたのは、二度目に、これもまた仕事が終わらず一服しに事務所を抜け出してお店に入った時だった。こういうとき、心臓が爆発しそうになるくらい嬉しい気持ちになるのは、私だけなのか?前回来た時に出会ったその真面目な印象の店員さんは、帰り際、私がケータイと財布しか持たず、手ぶらであったことを不思議に思ったのか、「お近くの方ですか?」と聞いてきた。えぇ、近くに事務所があって、いま仕事中なんです。もうちょっとかかりそうなんで、ご飯を食べに。こうして一言二言会話を交わすことができたので、「気さくな店員さんだな」とは思ったものの、正直それ以上の印象はなかった。それが二回目、相手が自分のことを覚えてくれていて、優しく話しかけてくれたことがとにかく嬉しく、その時点でこのお店は自分にとっての好きな店だ、と勝手に思うようになった。

  

 

その後も、本を読んでいたら「何読んでるんですか?」と聞いてくれて、伊坂幸太郎さんの「ラッシュライフ」の表紙を見せて、これ面白いよ、と好きな小説の話をしたり、逆に「私は彼の小説が好きなんです。天童荒太さん。『家族狩り』って、暗くてジメーっとした話なんだけど、人間の本質みたいなのが見えるようで、おススメです。いや、おススメはしないですかね。嫌な気分になっちゃうかも」なんて言いながら小説を勧めてくれたり、した。そうだ、近くの文具屋で買った「こころふせん」を使いたくて仕方なくて、帰り際、水のコップに「ありがとう」のこころふせんをそっと貼って帰ったのは、このお店が初めてだったかもしれない。あのドキドキは、忘れられない。

 

 

数々の思い出のあるお店だったが、ここしばらくは行けていなかった。それには理由がある。しばらく前に、そこでガレットを食べてハーブティを飲む以上の楽しみを与えてくれたその女性が辞めてしまったのだと別の店員さんから聞いたからだ。それが原因で行かなくなるほど自分は無礼じゃないだろう、と自分では思うものの、それでもどうしても足が向かわなかった。そんな折に、突然貼り紙を見たものだから、驚いた。なにより寂しかったのは、〇月×日をもって、という閉店日の日付が、ここ最近ではなく、しばらく前だったからだ。

 

 

尊敬する松浦弥太郎さんがどこかで言っていた。自分は古本屋さんが大好きだから、古本屋に立ち寄ったら必ず一冊は本を買う。その古本屋の売り上げに貢献したい、という気持ちの表れだ。そのこともあり、自分も閉店の原因のひとつなのではないかと思えてしまい、悲しくなった。

 

 

彼女はいま、どこで、なにをしているだろうか。「家族狩り」読んだよ、と言ったら、喜んでくれるだろうか。ダメだ、自分にはそう報告する資格はない。彼女の言う通り、あまりにもジメーっとしたストーリーなので、まだ読み終わっていない。

 

METEORAを久しぶりに聴く

スマホハイレゾの音楽をダウンロードして、聴く。これが最近のmusic life。電車の中でスマホの画面をいじるのは周りと一緒でなんか嫌だから、ひたすら音楽を聴きながら目を閉じ、目的地にたどり着くのを待つ。

 

ミュージックストアで楽曲をいろいろ見ていたら、そうだ、彼らの曲を最近聴いていなかったな、ということに気づいた。大学時代の私の思い出を彩ってくれた大切なバンドであり、当時爆発的にヒットした大切なアルバムだ。自分で興味を持って買い、いまでもその音楽を大事に胸にしまっている、最初で最後の洋楽なんじゃないかと思う。最後、とここで言ったのは、これから先、彼らの音楽以上にハマる洋楽に出会える気がまるでしないからだ。

 

Meteora

Meteora

 

 

 

音楽に関してはかなり偏食な自分。大学に入るまでは「洋楽なんて誰が聴くか。なんて言ってるのか分かんないし、どこが良いのかまるで分からない」と思っていた。そんな偏った考えの自分をわずかに矯正してくれたのが、思えば「METEORA」だった。懐かしい。

 

 

ただ、胸を張って「彼らの音楽が大好きだ」と言える資格が自分にないことは分かっている。なぜなら、2007年の「Minutes To Midnight」を聴いていたころから、ちょうど1か月前の今日、フロントマンが自殺したというニュースを聞いて衝撃を受けるまでの約10年間、彼らの音楽からしばらく離れていたからだ。

 

 

その「METEORA」のハイレゾ音源をダウンロードし、久しぶりに聴く。チェスターのかっこよさは、例えば「Don’t Stay」や「Faint」、「Figure.09」の最後のサビ直前のシャウトだったり、分かりやすいのは(アルバムは違うが)「Given up」のそれだったりする。いつも聴きながらつい力んでしまうし、シャウトする彼の頭の血管が切れやしないかとヒヤヒヤするのだけれど、これがとにかくかっこいい。

 

だけど、それだけじゃなくて、むしろ別のところに、彼の魅力があるのだということを再認識した。それは「From The Inside」や「Numb」のAメロのなめらかに歌う声だ。この声が美しいからこそ、そのあとのシャウトが際立って力を帯びるのだと思う。

 

 

彼の声をもう聴くことができないのだと思うと悲しいのだけれど、じゃぁなぜこれまでお前は彼らの音楽から離れていたのだ、と自分の中の悪魔が言う。そんなこと言われたって・・・ただ、いまになって冷静に過去をふりかえり、そうか、と気づいた。スポンジのようにあらゆる興味の対象を吸収していった大学時代に聴いた「METEORA」や「Hybrid Theory」の曲が完璧すぎたから、そのあとに出る新曲、ニューアルバムを聴いて「あれ、そうでもないな」と幻滅するのが怖かった。それくらい、あの時の曲がかっこよすぎたんだ。それを超えるかっこいいアルバムなんてどうせ出ないだろう、と心のどこかで思っていたのだから、やはり彼らを好きだと言う資格はない。

 

 

久しぶりに聴いた「METEORA」で大学時代への小旅行を楽しみつつ、チェスターの起伏ある歌声を味わう。まさか彼がこんな形で旅立っていくとは思いもせず、まるでそうなったことがきっかけで「METEORA」を改めて聴いている自分が、ちょっと恥ずかしい。

 

「いつもありがとう」と言える場所をつくる

これからも通いたいと思えるお店を発見したり、長く付き合っていきたいと思える人に会ったりしたとき、その出会いに感謝して、関係を大切に育てたいという気持ちになる。そう思える対象が少しづつでも増えていったら、楽しいだろうなぁと思う。

 

例えば、髪が伸びた時に行く美容院。行きつけの美容院のマスターとはもう10年以上の付き合いだ。1~2か月に一度は必ず会うから、話題もそんなにあるわけではないけれど、それでも他愛のない話をしている時間は楽しい。

 

例えば、週に1度必ず行く自宅近くの喫茶店。オープンして3か月が経とうとしているが、オープンして以来、立ち寄らなかった週末はいまのところない。毎日行くことはできないけれど、「しばらく来てないですね」なんて言われないくらいには、顔を出したいと勝手に思っている。自宅以外の自分の居場所だと勝手に思っている。

 

例えば、身体が疲れを感じてきたなぁと思うタイミングで行くマッサージ屋さん。施術士さんがちょうどよい力の入れ具合を覚えてくれているので、毎回気持ち良い気分を味わえる。身体がなんともないのに行きたいと思うくらいだ。

 

こうした自分にとってのかけがえのない時間や場所が、ところどころにあるというのは幸せだと思う。そしてその幸せが持続するための魔法の言葉が「いつもありがとう」だと思っている。自分は相手に対して「いつもありがとう」と言葉にする。相手も自分に対して「いつもありがとう」と言ってくれる。「いつも」というのがとにかく重要で、会う機会が多ければ多いほどありがたさを忘れがちになるけれど、そうじゃなくて、感謝してますよ、という気持ちを伝えることが、その関係を長持ちさせる秘訣なのだと最近つくづく思う。

 

美容院には月に1度必ず行く。喫茶店には毎週末必ず行く。マッサージ屋には2か月に一度必ず行く。このように、行く頻度を自分で決めてしまって、それを忠実に守るというのを最近自分ルールにしている。そうすれば、新しく出会った奇跡に興奮して最初のうちは頻繁に行くのだけれど、だんだん飽きてきていつの間にか疎遠になる、といったこともない。自分にとって大切な関係を長く続けていくには、何度も頻繁に会うことではなく、間隔はあってもいいから、等間隔で会い続けるということが、大事だと思う。

 

Season14‐9 秘密の家

シーズン14 第9話 「秘密の家」

 

誘拐事件が発生するも、実はその誘拐は狂言だった、というストーリーが過去にあった(※)。誘拐事件の裏に隠されていた背景にビックリ、なんて展開も、ドキドキして面白い。誘拐犯を追いかけるアクション的な要素、特に初期、亀山薫が身体を張って犯人を追うシーンのかっこよさが、相棒ならではの魅力だった。いまは、ちょっと抜けた一面を見せながらも冷静に敵を追い詰める冠城ならではのかっこよさがある。

 

廃工場で子供が描いた似顔絵を見つけた右京。持ち主に絵を返した、その時の母親の対応から、その家族に疑問を覚える。子供のひなたは友達と外で遊ぶのを避けるようになり、何かを隠しているような感じだ。右京は、ひなたが誘拐されて廃工場に監禁されたのではないかと推理するが、家族はそんなことはないと否定する。そんななか、ひなたの祖父が警備会社の社長であり警察OBでもあることが分かる。その警備会社が関わっている要人警護のスケジュールと、誘拐が起きたと思われる日が近いことから、その関連を調べると・・・。

 

狂言誘拐があったのか?ミスリードをさせておいて、ひっくり返る展開は、相棒ならでは。ラストに分かる事実は、家族とはなんなのかをちょっと考えるきっかけになりそう。

 

(※)Season2-17 同時多発誘拐 消えた16人の子供達

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手紙生活と手紙手帖

お気に入りの本屋で、一冊の本を買った。昨年のことだ。

 

もともと「手紙を書くということ」には無関心ではなかった。直筆で言葉を紡ぐ手紙には、メールでは表現できない力が宿っていると思っていて、頻繁ではないけれど、書くことがあった。恥ずかしがらずに書いていいんだ、と自分に自信をもった最初のきっかけは・・・。やはり尊敬する松浦弥太郎さんの影響だろう。ビジネスに限らず、言葉を伝えるツールとしてメールが大半を占めるいまだからこそ、手紙を受け取ったときの印象が強く残る。筆まめであれ。自分にそう言い聞かせた記憶がある。

 

そのとき手にした「手紙を書きたくなったら」という本が、手紙を書くのが好きだという気持ちを確信へと変えた。こんなに手紙を愛している人がいるんだ、と驚いた。そしてなにより嬉しかったのは、相手が返事をくれることを期待するワクワクを、素直に語っていたこと。自分はいままで、相手からの返事を期待するのはあまりかっこよくないことだ、手紙を書くのは書き手がただ書きたいからであり、返事(見返り)を求めるのはよくないと思っていた。だけど、贈る以上はリアクションが欲しい。当たり前のことだ。カッコ悪いことではなく、正直に返事を期待してワクワクしていていいんだ、と思えたのは、彼女の手紙に対する愛あるエピソードに触れたからだ。

 

手紙を書きたくなったら

手紙を書きたくなったら

 

 

 

「京都のこころA to Z 舞妓さんから喫茶店まで」という本を、数年前に手にしてから、いまでも大切に読んでいる。京都のことを頭文字AからZまで並べて紹介するもので、読んでいるだけでちょっとした京都旅行気分に浸れる。今京都を好きでいられる直接的な理由は、中学高校の修学旅行での思い出ではなく、この本ではないかと思っている。

 

「M:舞妓」では、著者の木村衣有子さんの花名刺が登場する。幾岡屋という小間物屋では、舞妓さんが使う花名刺を個人用につくることができるのだとか。その写真に写る木村さんの花名刺がとにかくきれいで、こういうオーダーメイドもいいなぁ、と思った。肩書の書き方、名前の文字の書体、色から、木村さんの姿を勝手に想像する。こうして分かりやすくて丁寧な文章を書くくらいだし、きっと純朴で、美しい方なんだろうなぁ、と。もしかして、本物の舞妓さんなんじゃないか、と。

 

京都のこころAtoZ―舞姑さんから喫茶店まで (ポプラ文庫)

京都のこころAtoZ―舞姑さんから喫茶店まで (ポプラ文庫)

 

 

 

先日、楽天ブックスで面白そうな本にたどり着いた。手紙好きな彼女の著作。「手紙を書きたくなったら」に続く、彼女の手紙ライフをもっと深く味わえる気がして、すぐにカートに入れる。

 

(文庫)ゆっくり、つながる 手紙生活 (サンマーク文庫)

(文庫)ゆっくり、つながる 手紙生活 (サンマーク文庫)

 

 

 

面白そうな本屋が田原町にできたことを雑誌で知り、行ってみた。古いビルを改装したその本屋は、壁一面に木で棚をつくり、ずらっと本を並べている。その迫力ある本棚にも惹かれたし、置いてある本もなかなか目にしないようなものが多く、楽しめた。

 

Readin’ Writin’ BOOKSTORE – Readin’ Writin’ BOOKSTORE

 

そこで見覚えのある著者名が目に留まる。「木村衣有子」。あぁ、京都のこころの方だ。でもその本は・・・「コーヒーゼリーの時間」。なぜコーヒーゼリー?帯に書かれた「あぁ、悔しい。こんな素敵な企画、dancyuでやりたかった」というdancyu編集長のコメントとは真逆で、そんなのに関心を持つ変わり者がいるのか?ターゲット狭すぎやしないか?なんて思ったけれど、著者の文章を味わいたいという気持ちもあり、結局は自分がその変わり者となった。レジで本を差し出したときに、主人が「君、見る目あるね」と心の中で思ってくれたかのような空気をほんの少し感じたのは、気のせいだろうか。たまにはホットコーヒーではなく、コーヒーゼリー目当てに喫茶店を巡るのも、面白そう。

 

コーヒーゼリーの時間

コーヒーゼリーの時間

 

 

 

「ゆっくり、つながる手紙生活」をカートに入れたあと、関連商品を見ていて、見覚えのある著者名が目に留まる。「木村衣有子」。あぁ、京都のこころの方だ。コーヒーゼリーの方だ。でもその本は・・・「手紙手帖 あのひとは、どんな手紙をくれるのかしら」。えっ手紙?そうか、この方も手紙好きなのか。私が勝手に思い描く彼女像もどんどん骨格ができてくる。直筆の手紙を愛する、木下綾乃さんのように純粋で可愛らしい心をもった女性なのだろう。ぜひ彼女からも、手紙を書くことの何たるかを教わりたい。こちらも迷わずカートに入れる。今回の買い物はこの2冊だ。

 

手紙手帖―あの人は、どんな手紙をくれるかしら

手紙手帖―あの人は、どんな手紙をくれるかしら

 

 

 

本日、届いた本を受け取り、さっそく読む。まずは木下綾乃さん。手紙は友達だという彼女の手紙への接し方が微笑ましく、マネしたいことがたくさんある。ファンレターか、いいなぁ、そういうの。よし、自分も恥ずかしがらずに、ファンレターを贈ろう。

 

次に、木村衣有子さん。手紙の書き方の基本レクチャーから、ホストカードのお店、手紙についての本の紹介・・・。とここで、見覚えのある名前、それもつい最近見た名前が目に留まる。「木下綾乃」。あぁ、今読んだ手紙生活の・・・て、ここで繋がるのか!

 

文中では、木村さんが木下さんに宛てた手紙と木下さんからの返事、そして「手紙が書きたくなったら」の紹介までも。手紙好きの二人の女性が、それも私の中では別々の、きれいな文章を書かれる二人の文筆家さんが、こうして一冊の本の中で繋がった。別々の好きの対象が最終的に一か所に収束するという、なんとも不思議な感覚を味わった。こういうことがあるから、読書って面白い。

 

 

手紙を書くという行為を、もっと気軽に。肩に力を入れず、なにより恥ずかしがらずに。だけど、ただ自分の「伝えたい!」を押し付けるんじゃなくて、読み手である相手を考えながら。ただ送るだけでそれなりにびっくりもされ、印象に残る手紙だからこそ、攻撃力のある手紙だからこそ、最低限のマナーをわきまえつつ、大切につきあっていきたい。

 

納涼祭

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地元の納涼祭で、盛り上がる。小さいころにあこがれていた消防団で活躍しながら、地元を盛り上げようと頑張る仲間がいる。それこそ10年くらい前まではなかったけれど、こうやって帰省している若い人も集まれる機会をつくっている。こういう取り組みを見るたび、地方も捨てたものじゃないなあと思う。

 

自分が小学生、中学生の頃となるともう20年以上前になるのだけれど、当時の記憶が鮮明によみがえる。仲間も皆、あのころのまま身体だけ大人になった、そんな感じだ。久しぶりに会った同級生は、地元を盛り上げる意気込みに満ちている。かっこいいなぁ。

 

 

給水所

夏の暑い日。学校からの帰り道、カラカラの喉を潤すために、通学路の途中の家に寄り道しては水をもらって休憩していた。そんなことを、久しぶりに親戚に会って話をしているなかで思い出した。小学生の頃の話だ。

 

合言葉は「水くださーい」。「開けゴマ」じゃないんだから、と今は思うのだけれど、当時はその合言葉にものすごい効果があって、ほんとに魔法だったんじゃないかとすら思う。「はい、どうぞー」庭の水道の水を飲ませてくれる方もいれば、コップに水をいれて持ってきてくれる方もいた。いまでも鮮明に覚えているのは、駄菓子屋のおばあちゃんが、やかんに入れた水をていねいに湯飲みについで出してくれたことだ。普通の水のはずなのに、とにかくおいしかった。

 

いま、小学生に勝手に(?)家に入られる大人の立場もようやくわかるようになって、あのころはよく水をくれたなぁ、と思う。子供の中にその家の子がいるというわけでもないのに。きっと「うっとうしいなぁ」と思ってたことだろう。うちは給水所か、と。それでも水をくれたのは、そして子供も安心して「水くださーい」と呪文を唱え続けることができたのは、お互いに信頼関係があったからなのだと思っている。子供には、甘えとかそういう意味じゃなく、頼んだら水をくれるんじゃないか、という期待感があって、大人のほうも、「暑くて大変ねぇ」という子供を想う気持ちがきっとあったんだと思う。これがお互い信頼関係がなく、つまり、子供は見ず知らずの大人を警戒して近づこうとせず、大人が子供をうっとうしく思っていたら、こういう関係は築かれなかっただろう。つくづく、自分は恵まれていたなぁ、と思う。と同時に、それにしても自分勝手な、傲慢なガキでもあったなぁ、と。

 

ちょっと大げさかもしれないけれど、熱中症になることなく、いまこうして元気でいられるのは、給水所があったおかげだ。小学校を卒業し、通学路を歩かなくなってから20年以上経つのに、給水所の場所はだいたい覚えている。これからも、忘れちゃいけないんだと思う。そしていま、中学生で部活にいそしむ親戚の子供に、この時期、部活に精を出すのもいいけれど、熱中症で倒れるなよ、水を飲めよ、と言いたい。

 

塩一トンの読書

「塩一トン」と「読書」とが結びつかなかったけれど、そういうことか。塩は普段そんなに大量に使うものではない。それを一トン消費するくらい、長い時間をかけて本と向き合って、初めて理解できることがある。本一冊と触れ合う、対話する濃度を、もっと濃くしていくということを考えても良いのではないか。数多く読むことばかりに気を遣うのではなくて。

 

どうしても、たくさん読むことをよしとしてしまいがちだ。私はたくさん本を読む人間ですよ、ということを他人に誇示したくなりがちだ。だけど、本との付き合い方がひとそれぞれ違うのと同じように、量と質のどちらを大事にするかも人によって違う。量ばかりを追いかけて、ともすれば読書量マウンティングしているように見られてしまうのだとしたら、一冊と長い時間付き合って、そうすることで何度も新しい発見が得られるような、そんな読書を味わう方がいい。

 

大手町。ここへ来たときはいつも立ち寄る、雰囲気の良い文房具屋でこの本に出会い、自分にとっての読書を、考える。

 

塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

 

 

AX

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いまこれを、読んでいる。発売したのを見計らって急いで楽天ブックで買って。だってほら、買おうと思って本屋に行っても店頭になかったら、困るでしょう?

 

グラスホッパー」「マリアビートル」に続く殺し屋小説第三弾。と、それを聞いただけでも買う理由としては十分なのに。今度の殺し屋「兜」は家庭をもつ恐妻家。その突拍子もないキャラ設定が面白く、読み始めてもいないのに勝手に面白い結末であると思い込んでいる。抜けてるんだけど、依頼をこなすときは淡々と。そのギャップがほんとに面白い。

 

ちょっと大きい単行本を手に、電車に乗る。文庫本のときのようにスマートには読めないけれど、これもまたいい。もうおれ、買っちゃったぜ、と言いたいところだったけれど、自宅前のいきつけの本屋にも、夕方立ち寄った有楽町の三省堂書店にも、たくさん平積みされていて、拍子抜けした。彼の新刊だし、当たり前か。

 

 

お風呂に本を

風呂で本を読みます。湿気の多いところに紙を持っていくなんて、火を通した油に水をかけるのと同じくらいやっちゃいけないことだと思うのだけれど、その危機感すらなくなりました。一度、完全に文庫本を浴槽に落とした経験が、感覚をマヒさせたのかもしれません。危ないというよりも、湯船につかりながらぼーっと本を読む時間が有意義で、その日にあった嫌なことだとかいろんなことを忘れさせてくれる、至福な時間であるという気持ちの方が大きい。

 

とはいえ、風呂場に本を常に置いておく、ということはしていません。風呂に入るときに、部屋の本棚から読む本を1冊選び、持っていく。そして風呂から出るときに、その本も持って出る。たまに浴室に置いたままの時もあるけれど、それは湿気で表紙の紙がしなっても別になんとも思わない文庫や新書だったりと、決して多くはありません(私には、紙が汚れようが濡れようが何とも思わない本と、汚したり濡らしたりしたくない本があります)。こうして、基本的には「本と湯気が共存していない」状態を保っています。

 

このことを、つまりは、風呂に入るたびに部屋から本を持っていって、風呂から出るときに本を持って出る、という手順を、面倒だと思ったことはなかったか。これを当たり前だと思っていて、その手順を省いた、より快適な読書ライフはできないものか、というように考えたことはなかったか。それがなかったことに、この本を読んで気づきました。

 

夢の本棚のあるインテリア (エクスナレッジムック)

夢の本棚のあるインテリア (エクスナレッジムック)

 

 

本棚に囲まれたいろいろな住まい写真が載っていて、刺激を受けるものばかり。こういう読書ライフ、いいなぁ、と思わせるインテリアがたっぷり入っています。そんななかで特に目をひいたのが、バスルームに本棚、というものです。なんだ、「住まいづくりは、もっと自由でいい」なんて自分は仕事でクライアントに言っていながら、自分自身住まいづくりの自由度を認識していないじゃないか、と思いました。住まいはもっと、自由でいい。浴室に本棚があったって、いいじゃないか。浴室で本を読む、という自分にとっての需要が現にあるのに、どうしてそのことに気づかなかったのでしょうか。

 

浴室に本棚を。きっと、いままで以上に快適な時間を過ごせると思います。

 

走ったあとにアイス

今週のお題「好きなアイス」

 

明治エッセルスーパーカップ クッキーバニラ味

 

 

これをいま食べながら、この記事を書いている。夕方、涼しくなってきたころを見計らってジョギングをして、カロリーを消費したというのに、帰りがけにコンビニでこれを買ってしまって・・・。まぁそれでもいいや。走ったあとにこれを食べたら意味がない、と思うからいけない。きっと走るのをサボったとしても食べてたんだ。走らずに食べるのに比べたら、走って食べた方が良いに決まっている。だからいいんだ。そう自分に言い聞かせて、カップをほじくる。それにしてもアイスって、なんでこう中毒性があるんだろう。

 

好きなアイスと聞かれて思い浮かぶのは、やっぱりこれかなぁ。自分にとっての定番の味。

 

M:マルシェ -marche-

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きっかけは、勝どきで開催している「太陽のマルシェ」だったのだと思う。公園にテントを立てて、野菜やジャムなどを売る。そこにたくさんの人が集まって賑わう様子がすさまじくて、こういうのがまちづくりなんだ、こういう場所をつくることがまちづくりなんだ、と思った。失礼な話、勝どきといったら埋め立て地で、昔からあったまちではなく、ということはそこに昔から住宅地があったわけではなく、比較的新しいまちに地域コミュニティなんてないんじゃないか、と思っていた。でもそうじゃないんだということを、このマルシェに出くわしたことがきっかけで、知った。

 

timealive.jp

 

いま事務所で進めているプロジェクトが二子玉川にある。再開発エリア「二子玉川ライズ」の賑わいはすごい。駅前にはもともと高島屋があり、裏には風情のある石畳の店舗街がある。二子玉川ライズにはショッピングセンターがあり、蔦屋家電があり、と、休日はその周辺をみてまわるだけで一日が終わってしまうくらい刺激的なお店が集まっている。公園の緑や土を感じるのも気持ちよい。ただ、そうしたお店、公園といった「そこにありつづけるもの」よりも、むしろ自分の興味の対象は「そこに現れるもの」にある。「オリーブマルシェ」と遭遇して、そのことに気づいた。

 

olivejapan.com

 

オリーブオイルを売るマルシェなんて、どんだけターゲットが絞られるんだよ、と思うのだけれど、これが賑わっていて面白い。オリーブオイルにそんなに選択肢があるのか、そんなに深い世界があるのか、なんならちょっとその世界をのぞいてみようか、と思わずにはいられない。二子玉川でやるから成り立つんだ、と言い切ってしまえばそれまでだ。しかし、例えターゲットが限定されていたとしても、なにもない空間に売り手と商品が現れて場所ができ、人が集まり、賑わい、交流が生まれるというのは面白い。それがなぜなのかは自分自身よく分からないけれど。

 

そこに行きたい、と思わせる価値をつけて、何もないところが「市場化」する。売り手は自慢の商品を持ち寄り、紹介する。買い手は新しいもの、いままでにないものを求めて、そこを訪れる。売り買いが仮に成立しなくても、売り手と買い手との会話から新しいストーリーが生まれる。売り手同士、買い手同士でもありえるだろう。こうした新しい発見、新しいストーリーが生まれるような場所を、自分はつくりたかったのだ。その手法の一つが、自分にとってはコーポラティブハウスだったのだ。という、自分の夢の根源的なことを、マルシェきっかけで思い出した。