Caffe Nil

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多動を目指そう。思い悩んでいる時間なんてないくらい、休日だろうとあっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返したらいいんだ。そう思いながらも、どうしても身体がいうことを聞かず、起きたら昼過ぎだった、ということがある。まさに今日がそれだった。どんなに頭で考えていても、行動が伴わなければ何の意味もない。つくづくそう感じる。

 

 

二日連続はなんか違うんだよなぁ。常連ヅラするのも嫌だし。なんて思いながらも、自然と足が向かうカフェがある。他のどこにも行く気が起きず、結局立ち寄ってしまった。特にすることがなくても、行くことで何かが生まれる予感がするから。なんか言葉では表現できない、特別ではないにせよ快適な時間を過ごせるという予感がするから。

 

もう自分とこのカフェとの関係は一線を越えてしまっている、と本気で思っている。オープンする前から、そのカフェをつくろうと奮闘する人に惚れ、そのコーヒーを好きになった。こんな体験は初めてだ。だから、オープンしたときは本当にうれしかったし、ここが自分にとっての新しい地域コミュニティだ、新しい場所だ、なんて自分本位のことも確かに考えたけれど、それ以上に、ここが居心地の良い場所としてこの街にあり続けるために、これから全身全霊で応援していこう、と思った。こんな気持ちになったのは初めてだ。

 

 

席に座り、コーヒーと一緒にクロワッサンを頼んだら、「今日はこのデニッシュがオススメなんです。それにしてください」と言われた。私があなたの提案なら受けることを知ってくれていて、絶品のデニッシュをくれる。

 

エチオピアモカはまだ飲んでないですよね」私がネットショップで過去に何度かオーダーした豆の産地を当たり前のように覚えている。自分でさえ飲んだか飲んでないか覚えていないのに。

 

「『oz magazine』、好きなんですか?私、好きでいつも読んでます」たまたま本屋特集が面白そうだったので今日手に取った雑誌を読んでいたら、気さくに話しかけてくれて、街カフェの話で盛り上がる。

 

そのカフェを好きになるかどうかの決定打は、コーヒーや食べ物の味でも内装デザインでも立地でもなんでもなく、人にある。私はこんな仮説を持っている。ただ、それは少数派なんだろうなぁ、とも思っていた。だけど今日、その仮説が正しいということを立証できたような気がした。二日連続はさすがにナシだなぁ、という気持ちも数時間後には粉々になくなってしまっていたから。

 

caffè nil - コネクトコーヒーカンパニー

https://www.facebook.com/CaffeNil/

 

ロザーナ

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問題ない そう問題ないよ 太陽もうなずいたよ 行こうよ ロザーナ

(ロザーナ/THE YELLOW MONKEY

 

17年前の彼らに対するイメージからは想像できないくらい、軽快でサッパリした曲。というふうに私は感じている。ロザーナはバラのように美しい女性がモチーフか?CDジャケットの真っ赤な唇はぶ厚くて、色っぽい。きっとさわやかで清楚な黒髪美女、というよりは、コテコテでセクシーで、ちょっと危険な香りのする女性なのだろうと思う。

 

そんな女性をぼんやりと頭に思い描きながら、ふと口ずさむ。つい声に出して歌いたくなる、中毒性のある曲なんだ。最近はこれをヘビーローテーション。問題ない、そう問題ないよ、と自分に言い聞かせるように。

 

ミュージックビデオの間奏明け、徐々にモノクロからカラーに変わっていくシーン。ワンツースリーフォーと口を動かしながら身体を揺らすヒーセ。そして大サビへ。この一連の流れ、約15秒がとにかくかっこいい。

 


ロザーナ / THE YELLOW MONKEY

雨とホキ美術館

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16:00

 

いままで美術館というものにあまり縁がなかった。美術館巡りで美とは何かを知ることも必要だろうと思い、そして、千葉県民でありながら行ったことがなかったことに急に恥ずかしさを感じ、急に思い立って、ホキ美術館へ行ってきた。昼過ぎに雨が降ってきて、やっぱやめようか、来週行けばいいんだ、なんて思ったけれど、すぐやんだし、雨に濡れたコンクリート打ち放し建築を観るのも良いのではないかと思い、行くことにした。

 

長く細い曲線状の道を歩きながら、美しい写実画を味わう。写実画専門の美術館だけあって、風景の持つ自然の壮大な力、被写体の人の目力といったものが、リアルに伝わってくる。展示されている絵に一点集中できるような展示空間が、心地よかった。

 

写実画に興味をもつきっかけになった。そして、美術館は、一度行って観たからもうおしまい、じゃなくて、何度か行って複数回観ることで、同じ絵でもまた違った楽しみ方ができるのではないか、と思った。美しいものを見る回数を増やせば、センスが磨けてオトナの男に近づけるか。

 

11:30

 

日頃の不摂生が気になっていた。たまにでもいいから走らなければならないと思い、久しぶりに河川敷をジョギングした。雲行きは怪しかったけれどまだ雨が降る前で、涼しいくらいで、走るのには快適だった。

 

ちょっとサボるとすぐバテてしまう。自分でもびっくりするくらいゆっくりしか走れなかったが、走っている間はいろんなことを考えることができる。貴重な時間だ。河川敷でアウトドアを楽しむ人たちを見てうらやましがったり、ホキ美術館、どんな絵があるんだろうなぁ、楽しめるかなぁ、なんてちょっと不安になったり、仕事がうまくいかないけれど、どうしたらいいかなぁ、なんて漠然と悩んだり。いろんなことが頭に浮かんでは消える。後で振り返るとさほど建設的でない気もするけれど、走っている間はとにかく心地よい。こうやって汗と一緒に老廃物を出して身も心もリフレッシュしたら、体調管理をきちんとできる、オトナの男に一歩近づけるか。

 

9:30

 

自分の住む街での自分の居場所と思えるカフェに出会い、朝食をとりに立ち寄る。ここにはオープン日から通っている。とはいえ平日は基本行けないから、休日限定。行こうと意気込んでいくというより、特になにがなくてもフラッと立ち寄ってそこでの時間を楽しむ、といったことが、この先できたらいいなと思っている。

 

店主は私より年下の女性。女の子、といったら失礼だと思うくらいしっかりしていて、テキパキしていて、夢を実現させるためのみなぎるパワーを持っている。それでいて、めちゃめちゃかわいい。そして、つくるコーヒーがとてもうまい。私にとって特別な存在のカフェだ。「昨日は暑かったけれど、今日は涼しいくらいですね」そんな何でもない会話も、気兼ねなく楽しめる。

 

しばらくすると、徐々に混んできてほぼ満席になった。今日はホキ美術館に行かなきゃだし、その前にジョギングもしなきゃだし、長居するのもマズいから帰ろうかと思い始めたころ。忙しさにテンパるのではなく、逆に楽しそうに見えるのが、彼女のすごいところ。忙しくなるほど余裕がなくなり、機嫌が悪くなり、慌てふためいてしまう自分とは雲泥の差だ。「すごいですね」素直に思ったことを伝えると、「いやいや、逆にお客様とゆっくりしゃべれなくなるからつらいんですけどね」と謙遜する。すごすぎる。心から尊敬する。

 

彼女の姿を見ていれば、私ももっと仕事に余裕をもち、楽しみながら(楽しい部分を見つけながら)、パワフルに動くことができるだろうか。キャパシティを超えることがあっても不機嫌にならず、サクサクさばいていけるオトナになれるだろうか。

 

松陰神社前散歩

コンサルをしている管理組合の総会で弦巻に行ったあと、せっかくだからと、世田谷線に乗って上町から松陰神社前へ。法務局へ行くときに歩く駅前の商店街は、賑やかで、かつアットホームな雰囲気が漂っている。気になってはいたものの、謄本を取りにいかなければ、と頭が仕事モードの時に歩くことがほとんどだったため、ゆっくりと歩いてまわる機会がなかった。今日、一軒の喫茶店を目指して、散歩しようと思った。きっかけは、「東京カフェ散歩」という本の「日常編 10章 三軒茶屋から世田谷線に乗って」だった。

 

東京カフェ散歩 観光と日常 (祥伝社黄金文庫)

東京カフェ散歩 観光と日常 (祥伝社黄金文庫)

 

 

松陰神社前の商店街にいくつか小ぢんまりした雰囲気の良さそうな喫茶店があり、その中で特に「カフェロッタ」が気になった。「お店への愛情を綴った小さな置き手紙を、テーブルにそっと残していくお客さまも少なくないそうだ」 だって。うん、素敵すぎる。そんなお店を知って、そんなお店に置き手紙をそっと残して愛情を表現できる男になりたいと思い、趣のある木扉を開いた。あまりの小ささに、びっくりした。すぐ満席になって人が入れなくなるのが気になって、とてもじゃないけどちょっと長居なんてできそうにない。

 

角にあるテーブル(机といった方が近そう)と椅子。座り心地が抜群に良い。腹の部分に引き出しがあり、つい開けてしまいたくなる。無垢の木のやわらかさと、白湯のあたたかさと、でっかいスコーンの甘さが、日常を忘れさせてくれる。

 

本にも写真で出ていた店主のまた優しそうなこと。ご近所さんから親しまれているというのが、一発で分かるような優しさを感じた。

 

うっかり長居、はできそうにないけれど、ちょっと異空間に行きたいとき、ひとり孤独を味わいたいとき(といいながら実は周囲を完全に遮断しているわけではないのだけれど)、また行きたい。

 

 

ガラ声のおじさんが大声で叫ぶ昔ながらの八百屋。ポルトガルの手仕事を紹介するギャラリー。モダンな店構えが印象的な煎餅屋。並んでいる本や音楽が放つ刺激があまりにも強すぎて、何も買わずに店を出るのにものすごい罪悪感を感じてしまう小さな古本屋。古い建物がひしめきあうなかでぽっかりと現れる更地・・・。いつも仕事でしか通らない街の、いままで知らなかった面白さに触れた。

 

多動力

休日を何もせずのんびりと過ごし、あとで後悔するんだったら、たくさん動いて疲れた方が良い。最近、そう思えるようになった。

 

いままでは、自分の時間の中で一定の休み時間、何もせずのんびりしている時間、何もしなくてもよいと思っている時間が必要で、そういう時間を大切にしていた。週末に仕事を持ち込まないように、と意識していた。だから、金曜日の夜中に寝て、土曜日の朝起きられなくて、目を覚ましたら正午、なんてときも、「これが休日」とばかりに受け入れていた。だけどいまは違う。そのきっかけをつくってくれた人が、二人いる。

 

 

彼の言うことは100%正しい、と思ってその考え方を取り入れるには、彼の言うことは突拍子もないことを含んでいて、だからそのまま真似できるものでは決してない。だけど、いくつものプロジェクトを動かし、やりたいことはためらわずにすべてやる、そういう生き方をするためには、自分にとって無駄なことはせず、ワクワクしないことはやらないと決めて、ありとあらゆることに手を出してみる。それが大事なんだと思った。私は無意識のうちに自分が一定時間内にできる行動に勝手に限界をつくっていて、それ以上はやらないということが習慣になってしまっているのだ、きっと。限界をつくるのをやめて、できることはやってみよう。やりたいんだったら自信をもって詰め込もう。

 

彼の本を読んで、確かにそうだと思えることが一つある。それは、動いていないとき(休んでいるとき)よりも、多少テンパっていてもせわしなく動いているときの方が、気持ちが良いということだ。その身体感覚に正直にしたがって、動こうと思った。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 

 

憧れのロックバンドのギタリストが多忙で疲弊している、なんて記事がyahooニュースに出ていて、話題がないとこんな些細なことでも記事にしてしまうのか、と思わずにいられない。正直、どうだっていい。彼はかつて「寝る時間がもったいない」と堂々と言うくらい、寝る間を惜しんで音をつくることができるミュージシャンだ。LUNA SEAX JAPANを掛け持っているというだけでも、その忙しさは想像以上なんだろうなぁと思うけれど、私はあまりそれを心配していない。身体は大切にしてほしいし、人間である以上無理はしないでほしい。でも、彼がそんな心配は無用なスーパーマンであることを、私は知っている。私は、彼が「寝る時間がもったいない」と言うくらい音楽に対して使命感をもっているということを、彼の全身全霊の音楽を聴いて感じた。だからこそ、自分もそうでありたい。寝る時間がもったいなくて、睡眠時間を削りたくなるくらい何かに没頭したいと思えるようになった。休んでいる場合じゃない、という焦燥感を感じるようになったのは、彼のおかげだ。

 

 

自分で仕事をつくるということ

6月10日。土曜日。

 

事務所の元スタッフと久しぶりに会い、渋谷で食事。自分で仕事をつくっている二人からは、刺激を受ける。人脈を駆使し、持ち前の努力家精神を評価されてクライアントを紹介されたりといったように、自らの力で仕事を生み出している。そこへきて自分は、、、何年やっても自分でプロジェクトひとつ立ち上げることができていないじゃないか、と思うと泣けてくる。

 

「自分が事務所の社長だと思って仕事すればいいんだよ。私だったら、自分が社長だ、と思いながら主体的に働いてくれる人に来てほしいと思うよ」そう言われ、自分では分かってるつもりだったんだけれど、実は分かってなかったということに、気づいた。そうだ、自分が本当に当事者の気持ちで、がけっぷちに立っているような気持ちで仕事をしたら、もっと動き方が違ってくるんじゃないか?と思う。それがいままでできていなかった。だから明日から、何の節目でもないけれど、気持ちを切り替えて。

 

自分の思い通りにならないことを、自分の企画が事務所を動かせない歯がゆさを、まわりの環境のせいにするな。そこをなんとか踏ん張って、頭を使って、仕事をつくるのが、自分の仕事だ。

 

理想はハイタワー

心優しき怪力大男、モーゼス・ハイタワー。昔観て感動し、大笑いし、自分にとっての大好き映画ベスト3に入る「ポリスアカデミー」に登場する彼に、あこがれている。こういう優しさと強さを兼ね備えた男になりたい、なんて。

 

女好きでいたずら大好きなマホニー。拳銃をもつと興奮し暴れだすタックルベリー。人間効果音ジョーンズ。可愛らしくもキメの場面で強気になるフックスちゃん・・・。新市長が警察官採用基準をガラリと変えてしまったばかりに、さまざまな個性をもった人たちが警察学校に押し寄せる。頭を抱える警察学校教官ハリスの前で、彼らが抱腹絶倒のドタバタ劇を見せる。

 

そのなかでひと際、私の心をとらえたのがハイタワーだった。あの巨体、あの風貌で、実家が花屋だというのだからそれがまたすごい。ギャップ萌えとはこのことを言うのだ、と知った。フックスに罵声を浴びせた男に腹を立て、車をひっくり返したシーンは、男心に響くものがあった。

 

強くなりたい。やさしくなりたい。斉藤和義「やさしくなりたい」が頭の中を流れる。清らかな気持ちにさせてくれるのが、ハイタワーという男なのだ。だからというべきなのか、いつか私も、花を売りたい。本を売りたい。コーヒーを売りたい。要は小さな店を持って誰かに価値あるモノを提供したい、といったほんの小さな夢がある。

 

そんなことを、カフェをオープンするという夢を叶え、キッチンでテキパキと動きながら、それでも超絶かわいい笑顔を絶やすことなく、美味しいコーヒーをつくってくれる女性とそのカフェに出会えた奇跡をかみしめながら、考えていた。

 

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

 

 

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

 

 

フランスの血

二晩連続でワインを飲むという、自分にとってほとんどありえないような二日が終わり、酔いが残った頭をなんとか動かしながらこれを書いている。フランスの血が、体中を巡っている。

 

 

「フランス」という言葉から、ふとフランス映画を連想する。自分にとってのフランス映画は、二つしかない。だいぶ古いけれど、「ヤマカシ」と「ル・ブレ」だ。

 

 

犯罪を犯したいと思ったことはありますか、と聞かれると、小さい声で「実はあります」と答える。しかし実際にやるかというと別の話で、やる勇気もないし、やろうとも思わない。ここでいう犯罪は、その人にとっては正義を貫くための行い、であって、一般的には犯罪なのだけれど、結果オーライに見える、というもの。人を殺す恐れのある殺人鬼を始末するとか、現金輸送車を襲撃して得た大金でホームレスの居場所を守るとか(相棒であったな、そんな話)。そういう、当事者がポリシーを持っている犯罪を、なぜかかっこいいと思ってしまう。

 

「ヤマカシ」を観て、そのかっこよさに震えた。キッカケは、リュックベッソン監督の名前を「TAXI」かなにかで知って、その監督の作品を探している中で出会ったのだと記憶している。ビルから飛び降りる7人の超人が、当時ヒーローに見えた。音楽バカ、遠投の達人、超速男、器械体操の達人・・・それぞれ特技のある7人が、木から落ちて意識を失った少年ジャメルを救うために、心臓移植に必要なお金を富豪から盗む。子供を救うという目的が、盗むという行為を正当化させ、最後に彼らは勝つ。もちろん犯罪はダメ、と前置きしつつ、こういう正義もあるんだ、という善悪の多面性を教えられたような気がした。ジャメルと同じように、正義のために力を合わせて縦横無尽に走り回る7人の超人にあこがれた。これがフランス映画のかっこよさなんだ、と思った。

 

 

巨大な観覧車が空から落ちてきて、地面に衝突し、ゴロゴロと転がってくる。そのシーンに、けっこう衝撃を受けた。フランス語で「弾丸」を意味する言葉をタイトルに冠した「ル・ブレ」。それをテレビで観たものだから、これはすごそうと思い、当時TSUTAYAで借りてはりきって観た。フランスの匂い、色気がプンプン漂ってきて、かつアクションシーンは迫力がある。カーチェイスとか、走って逃げるとか、そいうものはたくさんあるけれど、迫りくる観覧車を避けながら車で駆け抜けるシーンは、当時かなり斬新なものだったと思う。預けられたあたりくじを失くしてしまう主人公の間抜け具合と、迫力あるシーンとのギャップが大きく、興奮した。

 

 

それ以降、自分の記憶に残るようなフランス映画には出会っていない。もともと洋画は観ない方だから知らないだけで、面白い作品はたくさんあるのだろうけれど、この二つの作品以降、自分に入ってこなかったのは、この二つの作品が、自分の男心に火をつけて、消えずにいたからだと思う。お酒に弱く、すぐつぶれる自分は、ワインではなく、二つの映画からフランスの血を取り入れ、肉に変える。

 

11+1

竣工後まる2年を迎えたコーポラティブハウスの管理組合総会に出席してきた。こうして組合員皆さんにお会いする機会は決して多くなく、刺激を受ける。

 

世帯数は比較的多いものの、プロジェクト進行中からその入居者同士の仲が良く、その密度がより濃くなっている印象を受けた。会話の端々に、普段から密にコミュニケーションをとっていることが分かる。これがコーポラならでは良いところだと思う。

 

もちろん楽しいことばかりではなく、みんなで議論する話題が出たりと、課題はなくならない。その課題ひとつひとつに対して、逃げずに、適当にやりすごさずに、向き合っていくことが、地味ながらも大事であり、いまの自分の役割なのだと実感した。

 

運営サポートをしている管理組合がいま11棟。そして先週から1棟加わった。12棟のコーポラティブハウスを、他人に「こんな立派な管理組合があるんだぜ」と自慢できるように、入居者がそこに住んでいることを誇りに思ってくれるようにしたい。

コーヒーと京都と友の話

本と、音楽と、木と、コーヒー。これらがすべてそろった喫茶店があったら、素敵だと思っている。大きな樹がある喫茶店で、きれいな音楽を聴きながら、好きな作家さんの本を読みながら、コーヒーを飲む。そんなの、楽しいに決まっている。自分の理想のカフェに必要な四大要素だ。これに人が加われば、完璧。機械が淹れてくれるコーヒーなんて飲みたくない。自分が喫茶店に行く理由の大半は、そこで人に会いたいから、であるからだ。

 

 

コーヒーといえば喫茶店。喫茶店と言えば京都。ということで、ふと、大学時代の友と、彼が取材で携わった一冊の本のことを思い出した。彼と、もし私が彼と出会わなかったら手に取っていなかったであろう本の話。

 

おじさんの京都

おじさんの京都

 

 

彼は大学時代、私と同じように、建築設計そのものにあまり関心を持たず、どちらかというとまちづくり、都市計画の分野に傾倒していた。既存ストックを活用したまちの再生を卒論のテーマに、まわりの学生にない視点で研究をしていた。がたいもよく、社交的そうで、第一印象こそ「自分は彼とは友達になれないだろうな」と思うような、つまりはあっち側の人間だと思っていた。しかし、同じ研究室に所属したことがきっかけで話をすると、想像以上にソフトで、決してチャラチャラしていなくて、すぐに仲良くなった。一緒に谷根千に散歩に行ったことを、思い出す。

 

彼が取材スタッフの一人として関わった「おじさんの京都」という本がある。京都にある喫茶店、本屋、飲食店などを、それぞれ独特の視点で紹介している。東京にいながらして、京都の独特のにおいを感じることができる、不思議な本だ。

 

この本がきっかけで、自分にとっての居場所のようなカフェがある暮らしがしたいと思うようになった。 だって、テーブルに眼鏡が置いてあって、これ何?と聞いたら、「あ、それ常連さんの。いつもそこに座るから」なんて、素敵じゃないですか。注文してからコーヒーが出てくるのに1時間は当たり前、筆者が知る限り最長記録は友人がフルーツジュースを頼んだ時の3時間半だった、なんて、素敵じゃないですか。そういう文化、もっと味わいたいなぁ。

 

そんな文化を私以上に嬉々として味わい、自らの人生のゆとりへと変換させてしまうであろうおおらかさを持っているのが、彼の良いところ。そんな彼は大学卒業後、突然「これから農業従事者になります」なんて言って北海道へ行った。それ以来、連絡しても返事は来ず、研究室の教授の死別にも立ち会わず、要するに何してるのかよく分からない状態がいまも続いている。きっと、北海道の広大な大地の上で、注文したコーヒーが出てくるのに3時間かかろうとも屁でもない京都のような時間感覚の世界で、自分なりのゆとりある人生を謳歌しているに違いない。

 

仙川 引渡し

この週末は二日とも仕事。引渡しを控えたプロジェクトのオープンハウスと、引渡し会だった。

 

二日間、大忙しで動きまわった。日曜日の深夜、もう月曜日か、こうして少し落ち着きながら、それでもまた今日からまた1週間、引き続きやるべきことを忘れずに、と思うと落ち着いて寝られそうにない。

 

プロジェクトは、事業協力者の力を集結して、なんとか引き渡すことができた。でもこれから。ここで力を抜いちゃだめだ。

 

改めて、自分の事務所が外からどのように評価してもらえているかを実感した。社会の中での役割、立ち位置のようなものに、気づいた二日間だった。

 

金融機関の担当者に、何気なく「デザインも抜群にいいし、なおかつ住みやすそうだし。業界で一番じゃないですかね」と言われ、返す言葉がすぐに見つからなかった。それくらい、嬉しかった。と同時に、その役割を担っている会社で、プロジェクトを企画するという一番川上の仕事をしている自分に、もっと頑張れよと自分で渇を入れた。

 

自分で自分の限界を決めない

金曜日の夜。仕事が終わった!とはとてもじゃないけど言えないような状況で、自分はどうするかと言うと、「明日、土曜日で休みだけど、ちょっと事務所に来てやっつけようか。仮に明日がだめでも、明後日もある」なんて言って、早々に帰りたくなってしまう。それがそもそもいけないんだ。

 

金曜日の就業中にやりきれなかったことが、休みの日にできるはずがない。土曜日の朝、起きて今日は休みだ、と分かった瞬間に二度寝をし、昼過ぎまで寝ているということを繰り返しているんだから、いいかげん自分にできないことくらい気づけよ、と思うのだけれど、金曜日の夜はそうは思わない。そのときとにかく集中力が切れてしまって、もう帰りたいという気持ちが支配し、翌日の新鮮な気持ちならきっと事務所に来れるだろう、と思ってしまう。翌土曜日に平日と同じ気持ちで事務所に行けた試しなんて、ただの一度もないのに。

 

「朝型人間だ」「夜の集中力が他人よりなくて、夜遅くまで仕事ができない」「休日は身体が休みモードになってしまうから、仕事はできない」「百歩譲って休日に仕事は仕方ないにしても、自宅で仕事なんて無理だ。サボるための道具がそろいすぎて、集中できない」これらはすべて、自分が自分に対して思っていたことだ。自分で自分をこういう人間だと定義づけている、と言ってもいい。こうして、自分で自分に暗示をかけてしまっていて、いつの間にか本当にこういう人間になってしまったのかもしれない。

 

「自分で限界を決めるな」なんて言葉を聞くと、なんて気障な、少なくとも私は自分の限界を決めるようなことはしていないぜ、と言いたくなるけれど、先の自分への定義づけも、自分の限界を決めていることと同じなのではないかと、恥ずかしながらつい最近、気づいた。夜に弱いなんて、いったい誰が言ったんだ。確かに集中力が低下して帰りたくなることは多いけれど、逆にアドレナリンが分泌されたかのように集中力を発揮して作業を進め、気づいたら終電間近だった、なんて日もあったはずだ。私はこれができない人間なんです、と決めつけるのは、ただ単に他人からそういう人間だと思われたい(さらに言うと、こういうダメな面もあるけれど、その裏返しでこういう強みがあるんですよ、ということを他人にアピールしたい)だけなのではないか。

 

自分で限界を決めちゃうことほどばかばかしいことはない。だから今日は、思いっきり仕事したっていいじゃないか、でも事務所へ行くには時間がかかるしその時間がもったいないから、自宅でやればいいじゃないか、と思えたので、自宅パソコンでgoogleの仕事アカウントにログインできたし、仕事メールもできた。これができるできないの違いは、大きい。

 

「自分で自分の限界を決めない」そんなの言われなくても分かってるよ、と蹴散らすんじゃなくて、自分の行いを見直そう。そう思うきっかけになった。

 

初めてCDを買った1998年

自分が初めて自分の小遣いで、自分のためにCDを買ったのがいつだったか、と昔を振り返った。そしてそれが1998年であることに気づき、日本で史上もっともCDが売れた年と重なり、なにか不思議な感覚に陥った。

 

宇多田ヒカル椎名林檎浜崎あゆみaiko。彼女らがデビューし、はなばなしく活躍した年が1998年だったのか。あのころ自分は中学3年生。GLAYが「誘惑」と「SOUL LOVE」を2曲同時発売するという、当時画期的な発売形態を見てびっくりしたのを思い出す。雰囲気の全く異なる2曲を、両方同時に買う。それが、彼らが好きであることを友達にアピールする術であった。まぁ、両A面の1枚のCDで売ったっていいものをわざわざ2枚にして発売し、それでも大ファンは何も言わずに両方買っていたのだから、CDが一番売れた時代だと言われてもなんとなく納得はいく。当時日本でCDを購入していた人口2000万人の1人あたり月に2枚のCDを買って、年間3万円近くお金を遣っていた計算になる、といわれても、「うそだー」というより、「そんな感じだったか~、確かになぁ」となんとなく納得はいく。

 

そして、LUNA SEAが1年間の活動休止から復活して「STORM」をリリースしたのが1998年だ。あのとき、世間は誰もがたくさんCDを買って音楽を消費する時代、私はCDを買って好きな音楽を聴くことの快感に目覚めた時代だったのだ。「そんな時代、知りませーん」じゃなくて、音楽がたくさんの人に聴かれていたその年に、自分も音楽を楽しむ状態にいられたことが、なんとなく嬉しい。

 

月日がたって、いま。媒体がCDからダウンロードに変わったとか、そういう話は置いておく。別に音楽を供給する側がつまらなくなったとか、よい音楽が少なくなったとか、そのように言うつもりもない。そう思うのだとしたら、それは社会がそうなったのではなく、単に自分の音楽を感知するアンテナの感度が鈍くなったか、世間の音楽のセンスと自分の好きな音楽が合致しなくなっただけだ。いまの時代にはいまの時代の音楽の消費のしかたがある。要は自分のアンテナの感度を良好に保っておいて、自分の好きなポイントを押さえた音楽を探し当てる探索能力をそなえていれば、自分なりの楽しいミュージックライフを楽しめるはずだ。

 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

 

 

コーポラティブハウスの取り組み考

コーポラティブハウスの新しい取り組み方、企画について、考えている。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、その住まいの中だけで機能が完結するのではなくて、外に対して、地域に対して開かれたコーポラティブハウス。入居者だけでなく周囲に対しても敬意をもち、価値を与えるコーポラティブハウス。例えば共用部を店舗にしてテナント貸しにしたら。これから独立、出店を考えている若き起業家の、スタートの場にしたら。周辺の賃料相場より少しだけ安く設定して、開業しやすくする。お店を始めようとする人を、応援する。地域に対して集う場所を提供する。で、入居者にも利益があるようにする。例えば管理組合優待券みたいなものを用意して、入居者は安くサービスを受けることができる。賃料収入を管理費の足しにする。管理組合総会の場所として使えるだけでなく、例えば定期的に入居者の自己表現の場をつくる。そんなコーポラティブハウスがつくれたら、住まい手にも、地域にも、テナントにも、楽しい場所がつくれるのではないか。

 

www.re-port.net

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、既存の老朽化した建物を壊さず使ったコーポラティブハウス。耐震補強とか、必要な修繕はもちろん行う。耐用年数や資産価値は新築に比べて少ないことを見込んで入居者を募集する。オーナーにとって重荷でしかなくなってしまった、その役割を終えてしまった建物に、新しい命を吹き込むような住まいをつくる。そうしたら、役割を終えてしまった建物も喜んでくれるのではないか。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、ゼロにちかいところからつくるコーポラティブハウス。土地だけを決めて、建物のプランや募集価格帯、住戸面積、総戸数を決めずに募集を始める。謳うのはコンセプト、企画のねらいのみ。入居者が集まってから、設計者と打ち合わせをして、決めていく。もちろん時間はかかるし、予算を目論むことができないし、手間はかかる。だけど、コーディネート主導型は踏襲しつつ、コーポラティブハウス本来のつくり方により近いつくり方で、やってみたい。

 

 

自分がつくりたいもの。それは、50年100年経っても資産価値が落ちない、管理組合が元気に運営し続ける、そんなシーラカンスのようなコーポラティブハウス。いま、新築マンションは価格が上がり続け、中古物件も住まい購入の選択肢として増えつつある。築年数の経ったマンションの仲介とリノベーションを結びつけるビジネスも多い。なにより、「本当に中古?」とびっくりするくらいきれいでかっこいい、リノベでつくられた住まいが多い。

 

日本の住宅流通に占める中古住宅の割合はアメリカなど外国に比べて少ないと聞くから、こうして中古住宅も新築と同じように検討の土台に乗るというのは喜ばしいことだと思う。しかし一方で、躯体や給排水設備が老朽化していないか、とか、修繕積立金が潤沢か、とか、スラム化していないか、といったように、「ダメな中古」を買わないように、ババをひかないようにするにはどうしたらよいか、という情報ばかりが消費者に発信され、「ダメな中古」をどうしたら復活させることができるか、という視点での工夫はあまり聞かない。さらに、住まいが「ダメな中古」にならないように、ババにならないように、という視点での工夫もあまり聞かない。だから、いつまで経っても、何年経っても、消費者が避けるような要素を与えない健康な住まいを、つくりたい。入居者にとっても住みやすいはずだから。

 

www.re-port.net

 

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蘇える変態

この本を、夜、浴槽の中で、読んでいる。早くも暖かさが暑さにかわってきて、ただでさえ汗をかき始めるこの時期に、湯船につかって汗をだらだらかきながら、それも、午前中に自宅の給湯器の交換サービスを済ませ、心なしか張られた湯がいつもより多く、また熱く感じられる中、汗をだらだらかきながら、読んでいる。何を我慢しているのか。誰に対して耐えようとしているのか。変態か、おれは。

 

蘇える変態

蘇える変態

 

 

2012年にくも膜下出血で倒れた時のことを赤裸々につづっている。彼の言葉がリアルで、ページを捲りながら「いてー」「苦しいだろうなー」と思わずにいられない。一緒にするな!と彼に怒られるかもしれないが、2年くらい前、自分が尿路結石にやられた時のことを思い出して、ちょっとだけ彼と痛みを共有できた気がした。ただあの時の私には、看護婦さんのツンからのデレに安心するほどの心の余裕は、なかった。付き添ってくれた事務所のスタッフにも、駆けつけてくれた家族にも、恥部をさらしてしまった。

 

死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。そのタイミングは他人に決められるべきではない。自分で決めるべきだ。

 

そのことを、彼から教えてもらった。

 

こういう生身の人間らしい彼が、好きだ。