理想はハイタワー

心優しき怪力大男、モーゼス・ハイタワー。昔観て感動し、大笑いし、自分にとっての大好き映画ベスト3に入る「ポリスアカデミー」に登場する彼に、あこがれている。こういう優しさと強さを兼ね備えた男になりたい、なんて。

 

女好きでいたずら大好きなマホニー。拳銃をもつと興奮し暴れだすタックルベリー。人間効果音ジョーンズ。可愛らしくもキメの場面で強気になるフックスちゃん・・・。新市長が警察官採用基準をガラリと変えてしまったばかりに、さまざまな個性をもった人たちが警察学校に押し寄せる。頭を抱える警察学校教官ハリスの前で、彼らが抱腹絶倒のドタバタ劇を見せる。

 

そのなかでひと際、私の心をとらえたのがハイタワーだった。あの巨体、あの風貌で、実家が花屋だというのだからそれがまたすごい。ギャップ萌えとはこのことを言うのだ、と知った。フックスに罵声を浴びせた男に腹を立て、車をひっくり返したシーンは、男心に響くものがあった。

 

強くなりたい。やさしくなりたい。斉藤和義「やさしくなりたい」が頭の中を流れる。清らかな気持ちにさせてくれるのが、ハイタワーという男なのだ。だからというべきなのか、いつか私も、花を売りたい。本を売りたい。コーヒーを売りたい。要は小さな店を持って誰かに価値あるモノを提供したい、といったほんの小さな夢がある。

 

そんなことを、カフェをオープンするという夢を叶え、キッチンでテキパキと動きながら、それでも超絶かわいい笑顔を絶やすことなく、美味しいコーヒーをつくってくれる女性とそのカフェに出会えた奇跡をかみしめながら、考えていた。

 

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

僕の好きな男のタイプ 58通りのパートナー選び

 

 

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

すてきな素敵論 (講談社+α文庫)

 

 

フランスの血

二晩連続でワインを飲むという、自分にとってほとんどありえないような二日が終わり、酔いが残った頭をなんとか動かしながらこれを書いている。フランスの血が、体中を巡っている。

 

 

「フランス」という言葉から、ふとフランス映画を連想する。自分にとってのフランス映画は、二つしかない。だいぶ古いけれど、「ヤマカシ」と「ル・ブレ」だ。

 

 

犯罪を犯したいと思ったことはありますか、と聞かれると、小さい声で「実はあります」と答える。しかし実際にやるかというと別の話で、やる勇気もないし、やろうとも思わない。ここでいう犯罪は、その人にとっては正義を貫くための行い、であって、一般的には犯罪なのだけれど、結果オーライに見える、というもの。人を殺す恐れのある殺人鬼を始末するとか、現金輸送車を襲撃して得た大金でホームレスの居場所を守るとか(相棒であったな、そんな話)。そういう、当事者がポリシーを持っている犯罪を、なぜかかっこいいと思ってしまう。

 

「ヤマカシ」を観て、そのかっこよさに震えた。キッカケは、リュックベッソン監督の名前を「TAXI」かなにかで知って、その監督の作品を探している中で出会ったのだと記憶している。ビルから飛び降りる7人の超人が、当時ヒーローに見えた。音楽バカ、遠投の達人、超速男、器械体操の達人・・・それぞれ特技のある7人が、木から落ちて意識を失った少年ジャメルを救うために、心臓移植に必要なお金を富豪から盗む。子供を救うという目的が、盗むという行為を正当化させ、最後に彼らは勝つ。もちろん犯罪はダメ、と前置きしつつ、こういう正義もあるんだ、という善悪の多面性を教えられたような気がした。ジャメルと同じように、正義のために力を合わせて縦横無尽に走り回る7人の超人にあこがれた。これがフランス映画のかっこよさなんだ、と思った。

 

 

巨大な観覧車が空から落ちてきて、地面に衝突し、ゴロゴロと転がってくる。そのシーンに、けっこう衝撃を受けた。フランス語で「弾丸」を意味する言葉をタイトルに冠した「ル・ブレ」。それをテレビで観たものだから、これはすごそうと思い、当時TSUTAYAで借りてはりきって観た。フランスの匂い、色気がプンプン漂ってきて、かつアクションシーンは迫力がある。カーチェイスとか、走って逃げるとか、そいうものはたくさんあるけれど、迫りくる観覧車を避けながら車で駆け抜けるシーンは、当時かなり斬新なものだったと思う。預けられたあたりくじを失くしてしまう主人公の間抜け具合と、迫力あるシーンとのギャップが大きく、興奮した。

 

 

それ以降、自分の記憶に残るようなフランス映画には出会っていない。もともと洋画は観ない方だから知らないだけで、面白い作品はたくさんあるのだろうけれど、この二つの作品以降、自分に入ってこなかったのは、この二つの作品が、自分の男心に火をつけて、消えずにいたからだと思う。お酒に弱く、すぐつぶれる自分は、ワインではなく、二つの映画からフランスの血を取り入れ、肉に変える。

 

11+1

竣工後まる2年を迎えたコーポラティブハウスの管理組合総会に出席してきた。こうして組合員皆さんにお会いする機会は決して多くなく、刺激を受ける。

 

世帯数は比較的多いものの、プロジェクト進行中からその入居者同士の仲が良く、その密度がより濃くなっている印象を受けた。会話の端々に、普段から密にコミュニケーションをとっていることが分かる。これがコーポラならでは良いところだと思う。

 

もちろん楽しいことばかりではなく、みんなで議論する話題が出たりと、課題はなくならない。その課題ひとつひとつに対して、逃げずに、適当にやりすごさずに、向き合っていくことが、地味ながらも大事であり、いまの自分の役割なのだと実感した。

 

運営サポートをしている管理組合がいま11棟。そして先週から1棟加わった。12棟のコーポラティブハウスを、他人に「こんな立派な管理組合があるんだぜ」と自慢できるように、入居者がそこに住んでいることを誇りに思ってくれるようにしたい。

コーヒーと京都と友の話

本と、音楽と、木と、コーヒー。これらがすべてそろった喫茶店があったら、素敵だと思っている。大きな樹がある喫茶店で、きれいな音楽を聴きながら、好きな作家さんの本を読みながら、コーヒーを飲む。そんなの、楽しいに決まっている。自分の理想のカフェに必要な四大要素だ。これに人が加われば、完璧。機械が淹れてくれるコーヒーなんて飲みたくない。自分が喫茶店に行く理由の大半は、そこで人に会いたいから、であるからだ。

 

 

コーヒーといえば喫茶店。喫茶店と言えば京都。ということで、ふと、大学時代の友と、彼が取材で携わった一冊の本のことを思い出した。彼と、もし私が彼と出会わなかったら手に取っていなかったであろう本の話。

 

おじさんの京都

おじさんの京都

 

 

彼は大学時代、私と同じように、建築設計そのものにあまり関心を持たず、どちらかというとまちづくり、都市計画の分野に傾倒していた。既存ストックを活用したまちの再生を卒論のテーマに、まわりの学生にない視点で研究をしていた。がたいもよく、社交的そうで、第一印象こそ「自分は彼とは友達になれないだろうな」と思うような、つまりはあっち側の人間だと思っていた。しかし、同じ研究室に所属したことがきっかけで話をすると、想像以上にソフトで、決してチャラチャラしていなくて、すぐに仲良くなった。一緒に谷根千に散歩に行ったことを、思い出す。

 

彼が取材スタッフの一人として関わった「おじさんの京都」という本がある。京都にある喫茶店、本屋、飲食店などを、それぞれ独特の視点で紹介している。東京にいながらして、京都の独特のにおいを感じることができる、不思議な本だ。

 

この本がきっかけで、自分にとっての居場所のようなカフェがある暮らしがしたいと思うようになった。 だって、テーブルに眼鏡が置いてあって、これ何?と聞いたら、「あ、それ常連さんの。いつもそこに座るから」なんて、素敵じゃないですか。注文してからコーヒーが出てくるのに1時間は当たり前、筆者が知る限り最長記録は友人がフルーツジュースを頼んだ時の3時間半だった、なんて、素敵じゃないですか。そういう文化、もっと味わいたいなぁ。

 

そんな文化を私以上に嬉々として味わい、自らの人生のゆとりへと変換させてしまうであろうおおらかさを持っているのが、彼の良いところ。そんな彼は大学卒業後、突然「これから農業従事者になります」なんて言って北海道へ行った。それ以来、連絡しても返事は来ず、研究室の教授の死別にも立ち会わず、要するに何してるのかよく分からない状態がいまも続いている。きっと、北海道の広大な大地の上で、注文したコーヒーが出てくるのに3時間かかろうとも屁でもない京都のような時間感覚の世界で、自分なりのゆとりある人生を謳歌しているに違いない。

 

仙川 引渡し

この週末は二日とも仕事。引渡しを控えたプロジェクトのオープンハウスと、引渡し会だった。

 

二日間、大忙しで動きまわった。日曜日の深夜、もう月曜日か、こうして少し落ち着きながら、それでもまた今日からまた1週間、引き続きやるべきことを忘れずに、と思うと落ち着いて寝られそうにない。

 

プロジェクトは、事業協力者の力を集結して、なんとか引き渡すことができた。でもこれから。ここで力を抜いちゃだめだ。

 

改めて、自分の事務所が外からどのように評価してもらえているかを実感した。社会の中での役割、立ち位置のようなものに、気づいた二日間だった。

 

金融機関の担当者に、何気なく「デザインも抜群にいいし、なおかつ住みやすそうだし。業界で一番じゃないですかね」と言われ、返す言葉がすぐに見つからなかった。それくらい、嬉しかった。と同時に、その役割を担っている会社で、プロジェクトを企画するという一番川上の仕事をしている自分に、もっと頑張れよと自分で渇を入れた。

 

自分で自分の限界を決めない

金曜日の夜。仕事が終わった!とはとてもじゃないけど言えないような状況で、自分はどうするかと言うと、「明日、土曜日で休みだけど、ちょっと事務所に来てやっつけようか。仮に明日がだめでも、明後日もある」なんて言って、早々に帰りたくなってしまう。それがそもそもいけないんだ。

 

金曜日の就業中にやりきれなかったことが、休みの日にできるはずがない。土曜日の朝、起きて今日は休みだ、と分かった瞬間に二度寝をし、昼過ぎまで寝ているということを繰り返しているんだから、いいかげん自分にできないことくらい気づけよ、と思うのだけれど、金曜日の夜はそうは思わない。そのときとにかく集中力が切れてしまって、もう帰りたいという気持ちが支配し、翌日の新鮮な気持ちならきっと事務所に来れるだろう、と思ってしまう。翌土曜日に平日と同じ気持ちで事務所に行けた試しなんて、ただの一度もないのに。

 

「朝型人間だ」「夜の集中力が他人よりなくて、夜遅くまで仕事ができない」「休日は身体が休みモードになってしまうから、仕事はできない」「百歩譲って休日に仕事は仕方ないにしても、自宅で仕事なんて無理だ。サボるための道具がそろいすぎて、集中できない」これらはすべて、自分が自分に対して思っていたことだ。自分で自分をこういう人間だと定義づけている、と言ってもいい。こうして、自分で自分に暗示をかけてしまっていて、いつの間にか本当にこういう人間になってしまったのかもしれない。

 

「自分で限界を決めるな」なんて言葉を聞くと、なんて気障な、少なくとも私は自分の限界を決めるようなことはしていないぜ、と言いたくなるけれど、先の自分への定義づけも、自分の限界を決めていることと同じなのではないかと、恥ずかしながらつい最近、気づいた。夜に弱いなんて、いったい誰が言ったんだ。確かに集中力が低下して帰りたくなることは多いけれど、逆にアドレナリンが分泌されたかのように集中力を発揮して作業を進め、気づいたら終電間近だった、なんて日もあったはずだ。私はこれができない人間なんです、と決めつけるのは、ただ単に他人からそういう人間だと思われたい(さらに言うと、こういうダメな面もあるけれど、その裏返しでこういう強みがあるんですよ、ということを他人にアピールしたい)だけなのではないか。

 

自分で限界を決めちゃうことほどばかばかしいことはない。だから今日は、思いっきり仕事したっていいじゃないか、でも事務所へ行くには時間がかかるしその時間がもったいないから、自宅でやればいいじゃないか、と思えたので、自宅パソコンでgoogleの仕事アカウントにログインできたし、仕事メールもできた。これができるできないの違いは、大きい。

 

「自分で自分の限界を決めない」そんなの言われなくても分かってるよ、と蹴散らすんじゃなくて、自分の行いを見直そう。そう思うきっかけになった。

 

初めてCDを買った1998年

自分が初めて自分の小遣いで、自分のためにCDを買ったのがいつだったか、と昔を振り返った。そしてそれが1998年であることに気づき、日本で史上もっともCDが売れた年と重なり、なにか不思議な感覚に陥った。

 

宇多田ヒカル椎名林檎浜崎あゆみaiko。彼女らがデビューし、はなばなしく活躍した年が1998年だったのか。あのころ自分は中学3年生。GLAYが「誘惑」と「SOUL LOVE」を2曲同時発売するという、当時画期的な発売形態を見てびっくりしたのを思い出す。雰囲気の全く異なる2曲を、両方同時に買う。それが、彼らが好きであることを友達にアピールする術であった。まぁ、両A面の1枚のCDで売ったっていいものをわざわざ2枚にして発売し、それでも大ファンは何も言わずに両方買っていたのだから、CDが一番売れた時代だと言われてもなんとなく納得はいく。当時日本でCDを購入していた人口2000万人の1人あたり月に2枚のCDを買って、年間3万円近くお金を遣っていた計算になる、といわれても、「うそだー」というより、「そんな感じだったか~、確かになぁ」となんとなく納得はいく。

 

そして、LUNA SEAが1年間の活動休止から復活して「STORM」をリリースしたのが1998年だ。あのとき、世間は誰もがたくさんCDを買って音楽を消費する時代、私はCDを買って好きな音楽を聴くことの快感に目覚めた時代だったのだ。「そんな時代、知りませーん」じゃなくて、音楽がたくさんの人に聴かれていたその年に、自分も音楽を楽しむ状態にいられたことが、なんとなく嬉しい。

 

月日がたって、いま。媒体がCDからダウンロードに変わったとか、そういう話は置いておく。別に音楽を供給する側がつまらなくなったとか、よい音楽が少なくなったとか、そのように言うつもりもない。そう思うのだとしたら、それは社会がそうなったのではなく、単に自分の音楽を感知するアンテナの感度が鈍くなったか、世間の音楽のセンスと自分の好きな音楽が合致しなくなっただけだ。いまの時代にはいまの時代の音楽の消費のしかたがある。要は自分のアンテナの感度を良好に保っておいて、自分の好きなポイントを押さえた音楽を探し当てる探索能力をそなえていれば、自分なりの楽しいミュージックライフを楽しめるはずだ。

 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

 

 

コーポラティブハウスの取り組み考

コーポラティブハウスの新しい取り組み方、企画について、考えている。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、その住まいの中だけで機能が完結するのではなくて、外に対して、地域に対して開かれたコーポラティブハウス。入居者だけでなく周囲に対しても敬意をもち、価値を与えるコーポラティブハウス。例えば共用部を店舗にしてテナント貸しにしたら。これから独立、出店を考えている若き起業家の、スタートの場にしたら。周辺の賃料相場より少しだけ安く設定して、開業しやすくする。お店を始めようとする人を、応援する。地域に対して集う場所を提供する。で、入居者にも利益があるようにする。例えば管理組合優待券みたいなものを用意して、入居者は安くサービスを受けることができる。賃料収入を管理費の足しにする。管理組合総会の場所として使えるだけでなく、例えば定期的に入居者の自己表現の場をつくる。そんなコーポラティブハウスがつくれたら、住まい手にも、地域にも、テナントにも、楽しい場所がつくれるのではないか。

 

www.re-port.net

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、既存の老朽化した建物を壊さず使ったコーポラティブハウス。耐震補強とか、必要な修繕はもちろん行う。耐用年数や資産価値は新築に比べて少ないことを見込んで入居者を募集する。オーナーにとって重荷でしかなくなってしまった、その役割を終えてしまった建物に、新しい命を吹き込むような住まいをつくる。そうしたら、役割を終えてしまった建物も喜んでくれるのではないか。

 

 

自分がいまつくりたいもの。それは、ゼロにちかいところからつくるコーポラティブハウス。土地だけを決めて、建物のプランや募集価格帯、住戸面積、総戸数を決めずに募集を始める。謳うのはコンセプト、企画のねらいのみ。入居者が集まってから、設計者と打ち合わせをして、決めていく。もちろん時間はかかるし、予算を目論むことができないし、手間はかかる。だけど、コーディネート主導型は踏襲しつつ、コーポラティブハウス本来のつくり方により近いつくり方で、やってみたい。

 

 

自分がつくりたいもの。それは、50年100年経っても資産価値が落ちない、管理組合が元気に運営し続ける、そんなシーラカンスのようなコーポラティブハウス。いま、新築マンションは価格が上がり続け、中古物件も住まい購入の選択肢として増えつつある。築年数の経ったマンションの仲介とリノベーションを結びつけるビジネスも多い。なにより、「本当に中古?」とびっくりするくらいきれいでかっこいい、リノベでつくられた住まいが多い。

 

日本の住宅流通に占める中古住宅の割合はアメリカなど外国に比べて少ないと聞くから、こうして中古住宅も新築と同じように検討の土台に乗るというのは喜ばしいことだと思う。しかし一方で、躯体や給排水設備が老朽化していないか、とか、修繕積立金が潤沢か、とか、スラム化していないか、といったように、「ダメな中古」を買わないように、ババをひかないようにするにはどうしたらよいか、という情報ばかりが消費者に発信され、「ダメな中古」をどうしたら復活させることができるか、という視点での工夫はあまり聞かない。さらに、住まいが「ダメな中古」にならないように、ババにならないように、という視点での工夫もあまり聞かない。だから、いつまで経っても、何年経っても、消費者が避けるような要素を与えない健康な住まいを、つくりたい。入居者にとっても住みやすいはずだから。

 

www.re-port.net

 

www.re-port.net

 

蘇える変態

この本を、夜、浴槽の中で、読んでいる。早くも暖かさが暑さにかわってきて、ただでさえ汗をかき始めるこの時期に、湯船につかって汗をだらだらかきながら、それも、午前中に自宅の給湯器の交換サービスを済ませ、心なしか張られた湯がいつもより多く、また熱く感じられる中、汗をだらだらかきながら、読んでいる。何を我慢しているのか。誰に対して耐えようとしているのか。変態か、おれは。

 

蘇える変態

蘇える変態

 

 

2012年にくも膜下出血で倒れた時のことを赤裸々につづっている。彼の言葉がリアルで、ページを捲りながら「いてー」「苦しいだろうなー」と思わずにいられない。一緒にするな!と彼に怒られるかもしれないが、2年くらい前、自分が尿路結石にやられた時のことを思い出して、ちょっとだけ彼と痛みを共有できた気がした。ただあの時の私には、看護婦さんのツンからのデレに安心するほどの心の余裕は、なかった。付き添ってくれた事務所のスタッフにも、駆けつけてくれた家族にも、恥部をさらしてしまった。

 

死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。そのタイミングは他人に決められるべきではない。自分で決めるべきだ。

 

そのことを、彼から教えてもらった。

 

こういう生身の人間らしい彼が、好きだ。

 

倉庫

帰省時には必ず寄りたい場所がある。さらに今回は、いままで行ったことがなくて、行ってみたかった場所があった。限られた時間、その両方へ、行ってきた。

 

www.new-land.jp

 

ちょうど一年前にも来た場所。クレーン教習所跡の倉庫に新たな価値が誕生したプロセスや、その何が面白いかを紹介した記事もあったりと、地元周辺でこれほど発信力のある商業施設もないと思う。

 

厳選されたプロダクトを扱う雑貨店「Lol」も、読み手の声を伝える古本屋「声」も、良い。情報を押し付けない感じが気持ちよいし、なにより、風化しない価値を与えてくれるような強さを感じる。

 

入口の「完全予約制」の貼り紙に、入れなかったローフード専門店。ぽっかりと時間があいてしまったので、思い切って松山は下野本まで行ってみる。デンマークからクラシックな家具が多数届く、これまた倉庫型の家具店がある。まるで工場の中に乱雑にたまっている家具の中から、宝探しをするように見てまわる、その感じが楽しそうで。

 

www.bellbet.net

 

嵐山方面からはちょっと入りづらい場所にあるし、「本当にここ?」と思うような場所だけれど、倉庫の中はまるで宝の山。その雑多感は想像以上だった。全然興味ないひとにとってはごみの山にしか見えないのかもしれないけれど、好きな人にとっては「うっひょー!」っていう空間だと思う。これを部屋のここに置いたらいいんじゃないか?とか、こういう椅子が一つあると部屋が引き締まるんだよなぁ、とか、いろいろ妄想しながら歩く。北欧の家具の、デザインを主張しすぎないところや、何年後何十年後に見ても変わらず安心できそうなたたずまいが、好きだ。

 

地方にも、こうして地道に価値ある情報を強く、長く発信している場所がある。そういうものを見守りつつ、自分もその魅力を他の人へと伝えられるようでありたい。

 

邪悪なものの鎮め方

自宅へ帰る途中の乗換駅、文具屋で本を物色する。普通の本屋とは違う品ぞろえで、いつもワクワクする。

 

自分の思い通りにいかないとき。こういうときはこうするべき、といった自分なりの判断基準がまったく通用しないようなとき。でも、何らかの対応をしなければ災厄が起きる、というようなとき。そういうときに、じゃぁどう行動したらよいのかを、考えるキッカケになる。氏の文章は、一文字一文字が丁寧に書かれていて、明快で、読んでいて心地よい。

 

村上春樹1Q84」を、もう残り1/4しかない、と思いながらどんどん読み進めてしまう、といった体験を私はしていなく、私はどちらかというとかなり時間をかけて、「長いなぁ~」と思いながら読んだ。やっと読み終わった、といった感想が率直なものだ。で、読後に「これこれこういう話で、ここが面白かった」と言葉で言えない難しさが残った。なんとなく「邪悪なもの」が物語を支配していたことは覚えているけれど。あの邪悪さの正体は、なんだったんだろう。

 

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

 

  

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 

 

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 

 

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 

 

happy wedding 14

今日は高校、大学と同級生で、実家に帰るタイミングで会う友達の結婚式へ行ってきた。ライブという目的以外でさいたま新都心に行ったのはたぶん初めてだ。

 

新郎は、その大きな身体から発する優しい雰囲気が特徴の男。新婦が彼に対する第一印象を「大きな身体の寡黙なひと」という言葉がそのままあてはまる。確かに口数はすくなく、シャイな感じだけれど。友達としても、なんか安心感のある男です。

 

そんな彼が、弟の肩を抱いてはにかむ姿が、印象的だったな。いい兄貴、って思った。

 

仕事で信頼されている姿とか、大きなプロジェクトを任されている姿とか、そういうのに出会うと、いつものことなんだけれど、刺激を受ける。自分も頑張らなければ、と。

 

結婚おめでとう!ケンカしても1週間以内に仲直りするという約束、ちゃんと聞いたからね。

泣きたくなったあなたへ

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170501001403j:plain

 

照れない。ほんのちょっとの勇気を出して、それはあとで冷静に振り返ると別にたいした勇気でもないのだけれど、そうして行動したことが、きっと自分に舞い戻ってくる。いままで、何か行動に移すことができた時は、その原因は照れなかったことにある。いままで、失敗したなぁと後悔したときは、その原因は照れたことにある。だから、照れずに。

 

そんな言葉を、休日、ちょっと事務所へ行って、ちょうどいまたくさんあってなかなか片付かない仕事をやっつけて、それでも夜になってしまって、帰りに駅前の本屋で松浦弥太郎さんの新刊を目にしてすぐ買って、なんか誰かと話したい気分だなぁ、誰かに会うことでこのずしっと沈んだ気持ちを軽くしたいなぁと思い、笑顔のまぶしい店員さんが素敵なハンバーグ屋さんに行って、その店員さんのはちきれんばかりの笑顔を浴びて、ハンバーグを待っている間に、新刊で読んで味わった。なんだろう、このいつも優しい気持ちにさせてくれるような言葉の連なりは。だいたい氏は泣きたいと思ったって泣けないような立場の方なんじゃないのか?そんな氏にも、たががはずれたようにわんわん泣くことがあるなんて。朝、会社に行こうとすると心が不安でいっぱいになってどうしようと悩むことがあるなんて。そんなの考えられない。でも、あるんだって。そんな泣きたくなった時に、どう自分に言い聞かせるのか。どう自分の心をコントロールするのか。そんな厳しくも優しい言葉に、出会える。

 

「いつもありがとうございます」「仕事頑張ってください」自分のことを覚えてくれて、いつも素敵な言葉をかけてくださるあなたに感謝の気持ちを伝えようと思い、帰り際、ほんの少し勇気を出した。相変わらず自分の仕事の遅さにげんなりする毎日だけれど、もう少し頑張ってみようという気持ちになれた。いつもありがとう。

 

帰りの電車が人身事故で折り返し運転になっていたけれど、この本があれば暇にならずに遠回りして帰れるってものだ。一番最後のページを見ると、「2017年5月2日第1版第1刷発行」とある。未来の日付の発行日の本をいまこうして手にしているという不思議な感覚。優越感。駅前の本屋に寄ってよかった。明日からもうちょっと頑張れば連休だ。と気持ちを整理していたら、ふと本の背表紙にシミがついていることに気がついた。たぶんさっきのハンバーグ屋で、だ。未来の本がもう汚れている。・・・。泣きたくなってきた。

 

泣きたくなったあなたへ

泣きたくなったあなたへ

 

 

銀河鉄道の夜に包まれた本

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20170429175246j:plain

 

昼間、仕事で経堂へ。経堂に来た時に、立ち寄りたいところがある。商店街にある小さな文房具屋「ハルカゼ舎」だ。

 

ハルカゼ舎は、大好きな紙文具屋「久奈屋」の商品を扱っている数少ない実店舗の一つ。経堂にあると知った瞬間に、行きたいと思った。先客が3~4人いようものなら歩けなくなるんじゃないかといくらい小ぢんまりした店内には、選びつくされた文房具が並んでいる。初めて行って、目当ての蔵書票を扱っていないと知ったときは少し悲しさを感じたものの、置いてある商品のセンスの良さと、にぎやかな商店街の中にある隠れ家感、我が家感が心地よくて、リピーターになっている。

 

仕事終わりに何かないかなぁと思って立ち寄ったら、久奈屋の包み紙があった。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたその包み紙には、星空、くるみの化石、観測所などが描かれている。淡い青が幻想的な雰囲気を出していて、さてこれをどのように使ってやろうか、といろいろ想像がふくらむ。

 

包み紙なんて持っていても何も包むものなんてないし、包み方も知らないし、と思っていたけれど、文庫本のブックカバーにも使えると書いてあって、一瞬で手に取った。ブックカバーそのものにはあまり興味はないけれど、好きな紙文具をブックカバーとして使えるならと、ある文庫本がぱっと頭に浮かんだ。

 

文庫版を持っていることに気づかずに単行本を見て、これいいなぁ、欲しいなぁ、と思った本が以前あった。すでに持っている本だと気づいたのは、パラパラとページをめくって読んでみてしばらくしてからだ。表紙のもつ力ってすごいと思った。単行本だと重厚感があってシンプルでかっこいいのに、それを見た後に文庫版を改めて見ると「うーん」と思ってしまうデザインなのだ。だから、自分で包み紙を折ってブックカバーをつくってしまおうと思った。彼のあたたかく優しい文章と星空の美しさがマッチするという自信があった。

 

帰ってきて、文庫本にあわせて包み紙をたどたどしく折り、かぶせてみる。一瞬で本から湧き出る空気が変わったように感じた。と同時に、最初は「あれ、これ文庫本カバーとサイズ違うじゃん。縁の絵が見えなくなっちゃうじゃん」と思ったけれど、実際に折ってつくってみたら、描かれた絵が表紙にさりげなくハマり、感動した。

 

ブックカバーって、その本のタイトルが隠れちゃうし、本棚に入れたら余計その本がわからなくなっちゃうし、いままではつける意味が分からなかった。電車内で読んだりする時に、他人に何を読んでいるのか見られるのが恥ずかしい、といった言葉を聞いたことがあるけれど、自分は少なくとも、他人に見られて恥ずかしいような本は読んでいないと思っている。だけどこうして好きな紙文具屋の包み紙をかぶせてみることで、ブックカバーをつける意味に気づいた。改めて本の面白さは、その書かれている内容だけでは決まらないのだと感じた。

 

L:LUNA SEA

f:id:bibbidi-bobbidi-do:20200517190423j:plain

  

「NO MUSIC NO LIFE」なんてかっこいい言葉を使って、自分の人生を音楽にゆだねるつもりはないけれど、それに近いくらい、自分になくてはならない音楽がここにある。中学時代に、たまたま彼らの音楽に出会えてよかった。

 

1998年の4月か。ミュージックステーションで演奏した「STORM」は、約20年経ついまも、鮮明に頭の中にその映像が残っている。ギターソロのSUGIZOがとにかくかっこよくて、何度巻き戻して観たことか。身体をくねらせながらギュインギュイン鳴らすSUGIZOと対照的に、足を大きく開いて下を向いて、黙々と木目調のレスポールシェイプギターをかきむしるINORANがとにかくかっこよくて、何度巻き戻して観たことか。HEY!HEY!HEY!でも、ポップジャムでも、FUNでも、当時いろんな番組で演奏していたのを観たけれど、あのミュージックステーションの、あの放送回のSTORMは、別格でかっこよかったと思う。映像、残っていないだろうか・・・(※)

 

2000年の年末に終幕してから空白の数年間を過ごしたけれど、その空白の期間があったからこそ、いまの興奮があるのだと思える。いま、最高にかっこいい彼らを見ることができていることが、最高の贅沢であり、1998年にミュージックステーションで彼らに出会った自分に、感謝したい。

 

 

「INORAN好きなんですよね」大学時代にサークルの後輩から、なんとギターを譲り受けた。「えっいいの?」まずINORANモデルのギターを持っている彼に驚いたが、それ以上に、それをくれる彼の器の大きさに、脱帽した。当時を冷静に振り返れるいま、自分はなんて傲慢に、たいして感謝の意をあらわすことなく、先輩風をふかせながらこんな大事なギターをいただいてしまったのか、と後悔している。感謝してもしきれない大切なものを、もらってしまった。

 

ユースケ、ありがとう。いまも大事にしているよ。怖くて弦は張り替えることなくいまになってしまったけれど、たまに弾いて楽しんでるよ。LUNA SEA、いま最高にかっこいいよな。今年メジャーデビュー25周年。5月には武道館ライブが待っている。平日だから行けないけれど、彼らの誕生日をまた祝おう。INORANモデルを手に、STORMのイントロのアルペジオを弾きながら、彼らが巻き起こす5月の嵐を待つ。

 

(※)2017/10/01追記 ありました。削除されず残っていてほしい。


LUNA SEA - STORM